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千葉の人でも意外と知らなかった特徴と魅力。
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鋸南町 捕鯨のまち
地図
縄文時代から食されていた「鯨」
 日本における捕鯨の歴史は、鯨類捕獲や解体に使われたとみられる「石銛(いしもり)」や「石器」が長崎県の「つぐめの鼻」遺跡において出土した事から今から約6,000年前の縄文時代早期には鯨類を利用していた事がわかりました。
 9世紀にはノルウェーやフランス、スペインなどで捕鯨が開始され、日本では12世紀頃から「手銛(てもり)」を使った捕鯨が始まり、1606年(慶長11年)には現在の和歌山県で「鯨組」による組織的な捕鯨が始まりました。
 19世紀から20世紀半ばにかけては、アメリカやオーストラリア、ノルウェーでは「鯨油」を灯火燃料や機械油として使うため捕鯨が行われていましたが、燃料が石油に置き換わった事で需要は減少し、捕鯨で採算をとる事が難しくなっていきました。
 需要の減少と共に鯨の保護団体の声も高まり、1946年(昭和21年)には「国際捕鯨取締条約」が締結されたのをかわきりに商業捕鯨禁止の声が高まり、1986年(昭和61年)の南極海での日本の商業捕鯨は最後になりました。その後は「科学調査目的の捕鯨」となり、捕獲されたわずかな量の鯨が、調査後「食用」として流通するのみになりました。
 日本ではそれまでは全国各地で捕鯨が行われており、鯨は庶民の食べ物として広く食され、ステーキ、ベーコン、しぐれ煮など多彩な料理に使われていました。また、高度経済成長の時代には、子供達の貴重なタンパク源として学校給食のメニューとして定着しており、なかでも「くじら竜田揚げ」は人気メニューでした。
現在販売されている「くじらのたれ」は、ツチクジラの肉を干した物で、タレに付け込んで干した事が名前の由来といわれ、農林水産省の「うちの郷土料理~次世代に伝えたい大切な味」にもなっています。
千葉県では捕鯨基地がある和田町が「捕鯨の町」として知られ、鯨文化が消滅していく鯨料理を憂い「和田浦くじら食文化研究会・おかみさんの会」が新しいレシピの開発に取り組んでいますが、千葉県で本格的な捕鯨が始まったのは内房の鋸南町でした。
和田町の鯨資料館横にはシロナガスクジラのレプリカがある
和田町の鯨資料館横にはシロナガスクジラのレプリカがある
調査捕鯨で捕獲された鯨は鯨のタレなどに加工される
調査捕鯨で捕獲された鯨は鯨のタレなどに加工される

内房の勝山で千葉県の捕鯨が本格的に始まる
 江戸時代初め房総半島南部を治めていた安房国館山藩の2代藩主だった「里見忠義」が、伊勢神宮の神職「榎倉氏」を通して伊勢神宮に「鯨の尾の皮」を献上していた記録があり、当時房総で沿岸捕鯨が行われていた事を示す最も古い記録がありました。一方で鎌倉時代の13世紀を境に多くの鯨の骨が使われている事と、日蓮の書状に「鎌倉では房総のネズミイルカという大魚の肉から油を絞っている」という記述がある事から、13世紀から15世紀頃までには、房総でも沿岸捕鯨が行われていた可能性があるのだそうです。
 東京湾の入り口、鋸南町付近の海底には水深500メートル以上の「海底谷」があります。そこには荒川や多摩川などから運ばれる豊富な栄養分が流れ込み、多くの魚が生息しているため、鯨が黒潮に乗って太平洋から餌を求めてやって来る鯨の通り道「鯨道」と呼ばれていました。従って鯨が「海底谷」に集まって来る事から遠洋へ向かわなくても捕鯨が可能な条件が揃っていました。
 江戸時代前期に紀州太地の捕鯨船が遭難・漂流して勝山に漂着した事で、乗組員が勝山の漁民に鯨漁の技術を伝えたといわれ、その技術を使って鋸南町の勝山漁港で房総近海に生息するツチクジラの捕獲が始まったそうです。  「海底谷」に集まって来る「ツチクジラ」を捕獲するため、勝山の浜名主の「醍醐定明」は1655年~58年(明暦元年~3年)頃から1704年(宝永元年)にかけて当時の「勝山村」と「岩井袋」で合わせて「鯨組」を組織し、企業化して「元締め」になりました。鯨組は57艘の鯨船を集結して銛で突いて捕獲する「突取法」による捕鯨を始めました。
 勝山漁港にある「大黒山」には常に見張り番が待機し、大房岬と洲崎に配置された鯨を探す「山見方」が鯨を発見すると、「のろし」や「ホラ貝」で大黒山の見張り番に知らせ、手旗信号で港に待機している漁船に指示を出していたそうです。
 他の地域で行われていた捕鯨は網で捕獲する「網取り法」だったのに対して、房総は「銛」で突いて捕獲する「突取法」を採用していたのが特徴で、「ツチクジラ」が深くまで潜るので網による捕獲が適していなかったとされています。
 その後醍醐一族は12代に渡って「新兵衛」を名乗るようになり、勝山は明治初期までのおよそ200年もの間、勝山は「捕鯨基地」として活用されていましたが、その後「ツチクジラ」は「海底谷」にやってこなくなり、勝山の捕鯨は衰退していきました。
 この「鯨組」によって千葉で盛んに行われるようになった捕鯨は、1887年(明治20年)前後になると、関澤明清や醍醐徳太郎たちの努力で、捕鯨砲による洋式捕鯨を導入、1898年(明治31年)には遠洋漁業株式会社が設立され、操業規模は拡大しました。しかし、1909年(明治42年)に鯨取締規則が制定され、漁獲高等に制限が加えられると、沿岸捕鯨を中心に活動が行われることになり、東海漁業株式会社(1906年~明治39年に房総遠洋漁業株式会社を改称)の拠点があった館山や旧白浜町乙浜へ、その他に旧千倉町七浦が、房総における沿岸捕鯨の拠点基地となりました。その後、房総の沿岸捕鯨の伝統は、1948年(昭和23年)に旧和田町和田浦に設立された外房捕鯨株式会社に受け継がれています。
大黒山
大黒山
竜島付近には供養のために建てられた「鯨塚」がある
竜島付近には供養のために建てられた「鯨塚」がある

捕鯨の町から観光の町へ
 かつては日本各地で盛んに行われていた捕鯨は、今では小型沿岸捕鯨基地が、北海道の網走、宮城県の鮎川、和歌山県の太地、そして南房総市の和田町の4つのみになってしまいました。かつて大型沿岸捕鯨基地としてマッコウクジラなどの大型の鯨が水揚げされていた和田町は、国際捕鯨委員会によって商業目的の捕鯨が停止する事が決まると、大型沿岸捕鯨は撤退し「ツチクジラ」のような小型の鯨のみを捕獲するようになりました。また、千葉県初の捕鯨の町となった鋸南町は、町の「イメージキャラクター」のひとつに「醍醐新兵衛」をモデルにした「しんべえくん」を採用する等、「歴史」としてその姿を残しています。
2019年(令和元年)に千葉県を襲った台風15号によって各地に大きな被害をもたらし、かつて捕鯨で栄えた鋸南町でも大きな被害を受け、それによって町を離れる人も増えたと聞いています。
 一方鋸南町は「見返り美人」で有名な菱川師宣の生誕の地であり、鋸山で産出される「房州石」、江戸へと運ばれた「水仙」などの他、今では14,000本も植えられている早咲きの「河津桜」は、源頼朝に縁が深い事から名付けられた「頼朝桜」、今は外国人観光客にも知られている鋸山の「地獄覗き」、捕れたての地魚が売りの漁協直営の食事処「ばんや」、東京湾の豊富な栄養を蓄えた高級魚「黄金アジ」など様々な観光資源を抱えています。
 また、2014年(平成26年)に廃校になった「保田小学校」は、2015年(平成27年)12月に「道の駅保田小学校」として新たな施設としてオープンしました。廃校を有効活用したモデルケースとして注目を集め、かつての「懐かしい給食」を食べる事ができると様々なメディアでも紹介されてきました。廃校になった小学校の面影を残した「保田小学校」のイタリアンレストランでは「クジラ PIZZA」が、カフェでは「鯨カツバーガー」等「捕鯨の町鋸南」を象徴するメニューを提供する等の取り組みも行われました。
 2023年(令和5年)に「じゃらん」が調査した「全国道の駅満足度ランキング」では、「道の駅 保田小学校」が10位を獲得するなど大人気になっています。
 更にかつて旧保田小学校に隣接していた「旧鋸南幼稚園跡」は2023年(令和5年)10月に「道の駅保田小附属ようちえん」としてオープンしました。「ようちえん」ではオリジナルの商品が販売されている他、新たに食堂やカフェなどもオープンし、人気になっています。
 かつて「捕鯨の町」だった鋸南町は、人気の道の駅「保田小学校」を核に観光都市としてより知られていく町へと変わっていくでしょう。
菱川師宣記念館
菱川師宣記念館
町内には新たな名物「アジフライ」ののぼり旗がはためく
町内には新たな名物「アジフライ」ののぼり旗がはためく

道の駅保田小学校
道の駅保田小学校
新たにオープンした「道の駅保田附属ようちえん」
新たにオープンした「道の駅保田附属ようちえん」

(2024/4/10)
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