地域に役立つ事業を展開し
常に進化する会社
危機を乗り越え
「コツコツ、タンタン」と
技術を磨く
株式会社村上製作所はお客様からお預かりした図面通り正確に製造できる、いわば「生産技術」が売りの会社です。お客様からは、たとえば「ボーリング」という丸い穴をあける加工の場合0~0.015mmの精度が求められます。また、加工する素材も鉄やステンレス、アルミといっても様々な種類があり、その素材の特性も様々です。その特性を理解した上で、高い精度で加工できるのが当社の売りになっています。更に設備では、主軸が水平方向に設置されている工作機械「NC横中ぐり盤」という特殊な設備を所有しています。この機械は横方向から加工できるため、直径の大きい穴や深い穴の加工も通常よりも高い精度で行うことができます。
この様な技術と設備を持っている事を評価していただき、変電所、発電所、医療関係のMRI装置、電車のモーター、建設機械など色々な業種で使われる部品などのご注文をいただいています。
この会社は1938年(昭和13年)に私の祖父の村上昌平が東京の目黒で創業しました。太平洋戦争後には、「精工舎(現セイコーグループ株式会社)」の工作機械部門の専属工場として、「時計製作用工作機械」「組み立て機械精密工具旋盤」の製造を開始しました。
その後「精工舎」さんが習志野に工場を作った事で、協力企業も習志野に工場を作るよう推奨したため、祖父は習志野や八千代の工業団地を探していたようですが、たまたま佐倉にも工業団地が出来て、近く高速道路も通るという話もあったので、ここに工場を作ったそうです。佐倉の工場では「精工舎」の仕事をメインに、目黒の工場は「精工舎」と地面を掘る「ボーリング機械」を作っている目黒の「利根ボーリング」という会社の二社の仕事をメインに、工作機械メーカーの小さな部品なども作っていました。
1977年(昭和52年)には伯父の正俊が代表取締役に就任し、次男の私の父と三男の叔父の三人が祖父の後を継ぎ、その後2018年(平成30年)に私が3代目の代表取締役に就任しました。
村上製作所の社屋
門柱には開設時と思われる看板が残っている
金属を削る大型の旋盤
稀有な設備「NC横中ぐり盤」
車好き、鉄道好きの子供が
後を継ぐ
この工場は1970年(昭和45年)、私がまだ赤ん坊の時に建てられ、家族も引っ越してきました。今でこそ周りには家が建っていますが、子供の頃は工場だけで自転車で10分~15分も走らないと友達の家まではいけませんでした。だから遊びといえば「ひとり遊び」で、ミニカーやプラレールで遊んだり、自転車に乗って走り回る位で、近くにはキャッチボールの相手になる友達もいませんでした。自転車で友達の家に遊びに行けるようになったのは小学校2年生になった頃からでした。
この場所は買い物も車で行かなくてはならない状況で、父が母と私を連れて週一回「まとめ買い」に行くような生活でした。車で出かける時は父が運転する車の助手席が私の指定席で、それで私は車好きになりました。買い物に行っても子供の私は飽きてしまうため、その間父が私を駅に連れて行ってくれて、列車を眺めて時間をつぶしていたので鉄道好きにもなりました。
小学生になる頃には運転の仕方は頭に入っていたのですが、さすがにエンジンはかけないものの、会社に停まっているトラックや乗用車の運転席に座って、ハンドルを握って、クラッチを踏んでミッションを入れ、運転している気分になっていました。また工場でも機械のハンドルを回して遊んだりもしていました。
「いずれ後を継がなければ」とは思っていたものの、しばらくは違う事をやりたいと思っていました。子供の頃から車が好きだった私は大学を卒業し、ホンダやTOTOなどの製品を輸送する日本梱包運輸倉庫という会社に入社しました。佐倉を離れて色々な場所に行きたいと思って総合職で入社しましたが、入社してはじめて佐倉に営業所がある事を知りました。「やばい」と思ったら、案の定佐倉の営業所勤務になってしまいました。臨時で1カ月位広島に応援に行く事はあったものの、結局退職するまで転勤する事も無く佐倉営業所に勤務していました。
その頃会社の方は売上げの三本柱のうち二社からの仕事が無くなって、社長の伯父は「そろそろ会社を閉めるか」と言い出しましたが、父は「せっかく父親が興した会社だから、今閉めてしまうのは忍びない」と、私に「戻ってこないか」と声をかけたのがちょうど30歳になる頃でした。「仮に潰れたとしても他の仕事をやればいいか」「最後位は見取ってやるか」という気持ちで戻ったのが1999年(平成11年)でした。
子供の頃は遊び場だった工場
工場の中には様々な「ハンドル」が付いた機械がある