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ちばのたね
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千葉の人でも意外と知らなかった特徴と魅力。
チバビズの視点を通して、
街の新しいビジネスの種を見つけてください。

ちばのたね バックナンバー(25~36)
茂原市(もばらし)
地図
外房地域をけん引する茂原
 茂原市はその大部分が九十九里平野になっており、その気候は年間平均気温15℃前後と温暖なものの、夏場は猛暑日になることも珍しくありません。古くから街道の要衝だったこともあり、外房地域の人口・交通・商業・産業が集まっている地域です。
 産業は、農業が盛んで市の北部・西部のほとんどは田畑になっており、稲作をはじめ特産品のネギ(本納ねぎ)をはじめさまざまな作物が栽培されています。
 南関東ガス田に該当する地域でもあり、市内全域で天然ガスの掘削が行われその産出量は日本一になったこともあります。また、天然ガスと共にヨウ素を大量に含む地下水も産出し、特にヨウ素の産出量は千葉県全体で国内の80%を占め、そのほとんどを茂原市が占めているので、実質日本一だといえます。このように天然ガスとヨウ素が大量に産出されることから、市内には多くの天然ガスとヨウ素関連の大手企業の工場が立地しています。
 現在の茂原市へのアクセスは、JR東日本の外房線が縦断しており、市内に茂原駅と本納駅があります。西端には首都圏中央連絡自動車道が縦断し、茂原北・茂原長南スマートインターチェンジの二つのインターチェンジがあります。国道は128号線が縦断し南部を409号線が通るなど市へのアクセスは充実しています。
茂原ガスタンク
茂原ガスタンク
工業団地
工業団地

茂原駅
茂原駅
本納ねぎ
本納ねぎ

地域の要衝が資源のまちになる
 平安時代の茂原には貴族の藤原黒麻呂によって拓かれた「藻原荘(もばらそう)」という荘園がありました。「藻原」の意味は湿地が多い「藻の原」という意味で、江戸時代に「藻」の字が「茂」に変わりました。
 鎌倉時代に清澄山で立宗した日蓮が鎌倉に向かう途中、豪族の斎藤兼綱の館に滞在し信者に初めて題目を唱えました。それに感動した兼綱が1253年(建長5年)に邸内に仏堂を建てたのが現在の「藻原寺(そうげんじ)」の始まりで、「茂原」という名前の由来はここから来ているといわれています。
 荘園は戦国時代に消滅し、里見氏に属していた黒熊大膳が「本納城」という居城を作りましたが、北条氏に属していた酒井氏に滅ぼされ、その後徳川氏の直轄領になり本納城は廃城になりました。
 江戸時代になると徳川家康の家臣の大久保治右衛門忠佐が治め、毎月4と9のつく日に開かれる六斎市(ろくさいいち)が始まりました。その後、茂原は旗本の知行地として統治され、船橋から館山までを結ぶ「房総往還(ぼうそうおうかん)」の要衝としても機能し、発展していきました。
 江戸時代に地域の要衝として機能していた茂原でしたが、1891年(明治24年)に大多喜町で醤油醸造を営んでいた山崎屋の太田卯八郎が、井戸掘りをしていた際に天然ガスを発見したことがその後の茂原の発展に大きく寄与し、資源に恵まれた事で天然ガスとヨウ素関連の立地の始まりにつながりました。
 太平洋戦争中の1941年(昭和16年)には軍需工場が造られた他、茂原海軍航空基地も造られ特攻隊の出撃基地になっていました。戦後は基地の関連施設だった場所は小・中学校など別の施設や工場用地などに変わっていきました。
 現在残っている数少ない戦争中の名残は、物資や装備などを守るシェルターとして造られた「掩体壕(えんたいごう)」で、20基ほど造られた中のほぼ半分は残っています。
藻原寺の山門
ランドマークにもなっている藻原寺の山門
天然ガス井戸発祥の地碑
大多喜町にある天然ガス井戸発祥の地碑

掩体壕
シェルターになっていた掩体壕
元海軍の滑走路跡
元海軍の滑走路跡だった三井化学の敷地に沿った道路

ロケツーリズムを活用し「シティ―プロモーション」に取り組む
 「日本さくらの名所100選」にも選ばれた市内中心部にある茂原公園は、毎年桜の季節には「茂原桜まつり」が開催され、多くの花見客を集めています。また、7月の関東三大七夕まつりのひとつ「茂原七夕まつり」は、関東の夏祭りとしては来場者70万人を超える有数の規模を誇っています。
 桜まつりや七夕まつりで有名な茂原にも高齢化の波が押し寄せていますが、人口減少問題の対策として積極的にシティ―プロモーションを展開しています。市民が愛する場所、自然、施設、イベントなど、有名な物からあまり知られていない穴場までを発掘する「もばら魅力発掘ワークショップ」や体験ツアーキャラバンを実施したり、ワークショップから上がったものをまとめた『「ここがオススメ茂原の「いいトコ」145』を発行しています。
 さらに2018年(平成30年)には「千葉もばらロケーションサービス」が活動を始め、テレビ、映画をはじめさまざまな映像作品にロケ地として協力することでロケツーリズムを推進し、茂原市の「シティ―プロモーション」で地域活性化を目指しています。
 2022年(令和4年)1月には「産業観光とロケ地巡り」の視点で茂原市の魅力を発信する2日間にわたるモニターツアーが企画され、天然ガス関連の施設の見学やロケ地巡りを行いました。茂原市は都心から1時間で移動できる好立地や「日常の風景がある街」、そして官民一体の取り組みで多くのロケ地として利用されることで、茂原を知ってもらう「シティ―プロモーション」として機能し、ひいては有名なまつりとの相乗効果で人口減少対策の上げることが期待されます 。
茂原公園
桜の名所100選に選ばれた茂原公園
榎町商店街
映画「浅田家!」ロケ地にもなった榎町商店街

(2022/5/10)
君津市(きみつし)
地図
工業地帯と名水の街
 千葉県南部にある君津市の北西部は東京湾に面した京葉工業地帯の一画で、日本製鉄東日本製鉄所や君津共同発電所をはじめとした一大工業地帯になっています。市の面積の大半は内陸部になっており、市原市に次いで二番目に広い面積を有しています。県内で二番目に高い鹿野山の山頂には、598年(大化46年)に創建された関東地方最古の寺といわれる鹿野山神野寺があり、山頂付近の九十九谷(くじゅうくたに)展望公園からは上総丘陵が幾重にも連なる山並みの風景を眼下に一望することができます。昭和を代表する画家のひとり東山魁夷の「残照」のモデルになった地としても知られています。
 城下町として栄えた久留里地区は、平成の名水百選にも選ばれた水による酒造りも盛んで、県内で最多の6件の酒蔵があります。また、この水を利用してビニールハウス内の気温を14℃から15℃に維持することで、多年草の花「カラー」が盛んに栽培されており、全国有数の出荷量を誇っています。
 君津市へのアクセスは、北西部にJR東日本の内房線が通り、唯一の駅君津駅があります。また、木更津駅が始点のローカル線久留里線が市内東部を縦断しており、下郡駅、小櫃駅、俵田駅、久留里駅、平山駅、上総松丘駅、そして終点の上総亀山駅の7駅があります。
 国道は北西部を16号、127号が縦断、東部を410号、465号が縦断しています。高速道路は館山自動車道が市の北西部を縦断し、市内に二つのインターチェンジがあります。君津インターチェンジ付近には君津バスターミナルがあり、高速道路を使って東京駅、新宿駅など東京方面へのアクセスも充実しています。
鹿野山
鹿野山
製鉄所と発電所
日本製鉄東日本製鉄所と君津共同発電所

九十九谷展望公園
九十九谷展望公園
九十九谷
九十九谷

九十九谷(動画)
海苔養殖から鉄鋼の街へ
 天智天皇死後、672年(天武天皇元年)に天皇の弟の大海の皇子(おおあまのおうじ)と天皇の子、大友の皇子(おおとものおうじ)の間で起こった皇位継承の争い(壬申の乱)で敗れた大友の皇子が、君津市の小櫃(おびつ)地区まで逃れてきたという伝説により、小櫃という名前は、大友の皇子の亡骸(なきがら)をおさめた棺(ひつぎ)からついた地名だという説があります。
 市内を流れる小櫃川や小糸川流域には、鎌倉時代や室町時代に築城された城郭跡がいくつもあり、なかでも室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた久留里城は、戦国時代になると里見氏の支配となり、江戸時代には久留里藩の藩庁になりました。
 江戸時代に千葉県初の海苔の養殖が始まったのが君津でした。江戸で海苔商人をしていた近江屋甚兵衛が、当時品川や大森だけで養殖されていた海苔を新たな産地でも生産させようと、千葉に目を付けました。甚兵衛は浦安や五井・木更津などの村々を周り、説得を続けましたがいずれも断られてしまいました。現在の君津市の人見村にたどり着き、名主がそれに賛同してくれたため、千葉県初の養殖が始まりました。現在はこの近江屋甚兵衛の功績と海苔養殖の歴史などが君津市漁業資料館に展示され、市内の青蓮寺には甚兵衛の墓所があります。
 海苔の養殖が行われていた沿岸部が工業地帯になったのは太平洋戦争後でした。当時日本最大の消費地である首都圏向けの鉄鋼生産拠点として君津市が選ばれ、八幡製鉄君津製鉄所が作られました。製鉄所が出来たことで北九州から工員とその家族約2万人が君津市に大移動することになり、大和田団地など大規模な社宅が作られ、君津市の人口は一気に増加しました。その結果、団地周辺などは北九州出身者が住む地区になり、北九州でラーメン店を営んでいた店主が近くに出店するなど「リトル九州」の状態になったということです。
久留里城
久留里城
君津市漁業資料館
君津市漁業資料館

大和田団地
八幡製鉄所(現日本製鉄)の移転でできた大和田団地
九州ラーメン日吉大和田店
九州から移ってきた「九州ラーメン日吉大和田店」

SNSを味方に付けて君津市の情報発信
 君津市は東京駅から内房線で約90分、東京湾アクアラインを走る高速バスを使えば都心まで60分と都心へのアクセスも良い地域です。
 2015年(平成27年)の経済産業省の生活コストの「見える化」システムで、若者・子育て世代などで千葉県内1位になるなど、県内でも住みやすさが評判で、一般社団法人移住・交流推進機構2021年(令和3年)版おすすめ移住・交流先20選にも選出されています。移住先として評価が高まる一方、観光地としても話題になりました。
 市の東部、笹川の上流にある清水渓流広場は、最近インスタグラム等SNSで洞窟から射しこむ太陽光が反射してハート型に輝く映像がジブリの世界の様だと話題になった「亀岩の洞窟」があります。この洞窟は江戸時代前期に水田のために大きく迂回していた笹川を人工的に掘ったもので、近くにある「濃溝ノ滝」と共に観光地として整備し、遊歩道も造られました。今ではSNSのおかげで広く知られるようになりました。
 昨年2021年(令和3年)9月1日、市制50周年を迎え「きみつ大好きだぜ!応援團」を募集し、地元出身バンド「気志團」團長の綾小路翔氏を團長に市民など78名が採用され、YoutubeやSNSで君津市の情報や魅力の発信をする活動を始めました。更に、市制50周年チャンネルも開設し、職員も「公務員ユーチューバー」として君津市の情報を発信するなど、市民と共に積極的に君津市を発信しています。
 君津市は市外の人から発信される情報に頼らず、市民自らが君津市の良い所を発信して活躍していく様子は注目です。
君津バスターミナル
君津バスターミナル
内房線君津駅
JR東日本 内房線君津駅

道の駅
道の駅「ふれあいパーク・きみつ」
亀岩の洞窟
亀岩の洞窟

(2022/4/8)
香取市(かとりし)
地図
利根川沿いの水郷の町
 香取市は千葉県の北部に位置し、市の南部は下総台地で北部には利根川が流れ、周辺は水郷地帯になっています。なかでも佐原は古くから水郷の町として栄え、平成百景・重要伝統的建造物群保存地区で、江戸時代から続く商家の町並みは日本遺産に認定され、川越と同様に「小江戸」と呼ばれています。
 基幹産業は農業で、古くから早場米の生産地として知られ、出荷額は県内一位、サツマイモの生産でも県内一の生産地になっており、野菜や鶏卵、養豚なども盛んです。市内には「川の駅水の郷さわら」と「くりもと紅小町の郷」の二つの道の駅で地元の農産物が販売されており、地産地消の拠点にもなっています。
 鉄道は、市の北部をJR東日本の成田線が通っており、市内には大戸駅、佐原駅、香取駅、水郷駅、小見川駅の5駅があり、香取駅の先から分岐する鹿島線に十二橋駅があります。
 市の西部には東関東自動車道が通っており、市内には佐原香取インターチェンジがあります。国道は市の西部を51号が通り、市の北部を利根川に沿って356号線が横断しています。また、東京駅や関西方面を結ぶ高速・夜行バスや香取市内を結ぶ一般路線バス、香取市内の要所を循環する一般循環バスも運行されています。
成田線佐原駅
成田線佐原駅
 田園地帯
かつて香取海が広がっていた田園地帯

水の郷さわら
道の駅・川の駅水の郷さわら
紅小町の郷
道の駅くりもと 紅小町の郷

ヤマト政権の基地香取神宮から町人運営の町へ
 関東を中心に全国にある香取神社の総本社「香取神宮」は、明治以前は伊勢・鹿島と共に「神宮」の称号が許されていました。創建は初代神武天皇と伝えられ、649年(大化5年)には現在の佐原周辺の「香取郡」地域は香取神宮の所領になっていました。
 香取神宮のある香取市北部と茨城県にまたがる地域には、「香取海(かとりうみ)」と呼ばれていた内海が存在し、周辺に多くの古墳が発見されていることから、ヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能していたといわれています。
 鎌倉時代になると香取神宮と大戸地区に荘園ができ、各地で定期市が開かれると共に、香取神宮付近は門前町として開けていきました。その後、戦国時代には千葉氏一族が城を構え支配していました。
 江戸時代には多くの場所が幕府代官支配地や旗本の知行地になっていたため、武士でなく居住している人たちが主体となり町を運営していました。更に徳川家康の利根川東遷により利根川水運が発達し、利根川が物流の大動脈になると、年貢米や江戸に運ばれる物資の河岸(かし)ができ、醸造業などの産業も発展しました。
 また江戸後期には、日本全国を測量して地図を作ったことで知られている伊能忠敬が佐原の名主となり、町の繁栄に尽力したこともあり、佐原のまちは江戸よりも優れていると「江戸まさり」といわれるほど繁栄していました。
香取神宮
香取神宮
河川港の模型
かつて利根川沿いにあった河川港の模型

佐原の祭り
小野川沿いの小江戸で行われる佐原の祭り
酒蔵
商家の街並みにある江戸時代から続く酒蔵

かつての観光資源と基幹産業の農業も観光資源に
 江戸時代の佐原には、利根川を通る船旅で鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の「東国三社巡り」が身近なレジャーになっていて、多くの観光客が訪れていました。
 2016年(平成28年)にユネスコ世界無形文化遺産に登録された佐原の大祭は、江戸時代の1721年(享保6年)に八坂神社・諏訪神社の祭りの余興として行われる附祭(つけまつり)として始まりました。この祭りは「見せる祭り」「参加してもらう祭り」「町にお金が落ちる祭り」「商売繁盛になる祭り」として活用され、町の繁栄に大きく寄与していました。
 江戸時代から観光客が訪れていた佐原は、香取神宮や祭りの他、小江戸の街並み、伊能忠敬の足跡を展示している「伊能忠敬記念館」、水生植物園の「水郷佐原あやめパーク」など観光資源が豊富で、今でも多くの観光客が訪れています。最近では商工会議所がかき氷を名物にする取り組みや、佐原の町をひとつのホテルに見立て商家に宿泊させるホテルなど、新しい観光資源づくりにも力を入れています。
 佐原以外でも地元企業が基幹産業の農業を観光に繋げる観光施設がオープンしています。昨今ブームになっているグランピング施設をはじめ、貸農園、温泉、アクティビティなどが併設され、新しい観光資源としてテレビなどメディアに数多く紹介されています。
 多くの農産物を生み出し、観光の町として栄えてきた香取市は、これからも基幹産業の農業を活用し、発展していくことが期待されます。
NIPPONIA
商家をホテルに見立てて観光客を迎えるNIPPONIA
伊能忠敬記念館
佐原の偉人伊能忠敬記念館

伊能忠敬の像
佐原駅前にある佐原の偉人伊能忠敬の像
観光船
商家の並ぶ小野川を往来する観光船

(2022/3/10)
八街市(やちまたし)
地図
「八街産落花生」のまち
 八街市は千葉県のほぼ中央の下総台地の上にあり、冬は千葉県内としては寒い内陸性気候の地域で、朝は氷点下10度近くになることもあります。落花生畑の土壌は保水性が良く透水性も良い関東ローム層で、春先に何も植えられていない畑に強風が吹くと「八埃(やちぼこり)」と呼ばれる砂嵐のような「砂ぼこり」が発生します。
 市内は都市計画がほとんど実行されず、中心市街地の形を成していない、住宅、商業開発、道路などが無秩序に広がる「スプロール現象」が起き、駅前の市街地より国道などロードサイドに店舗が進出しています。
 基幹産業は農業で、農畜産物を都市へ常に供給できる野菜などを栽培する近郊農業が盛んです。市内には畜産技術を開発する千葉県畜産総合研究センターと、落花生専門の落花生研究室があります。
 特産品のなかでも日本一の生産量を誇る落花生は「八街産落花生」としてブランド化され、収穫時期の秋になると、茎がついたまま落花生を積み上げる「豆ぼっち」を至る所で見ることができます。しかし近年、思うように落花生収益が上がらないことから、担い手は減少傾向にあり、ハクサイ、ゴボウ、スイカ、サトイモなど野菜の栽培に比重が移っています。
 八街市を通る鉄道は北部を横断するJR東日本の総武本線のみで、榎戸駅と八街駅の二つの駅があります。道路は市の南端を首都圏中央連絡自動車道が通っていますが、インターチェンジは無く、国道は409号1本が市の東側を縦断しています。
千葉県畜産総合研究センター
千葉県畜産総合研究センター
 落花生研究室
千葉県農林総合研究センター 落花生研究室

落花生の収穫時期
落花生の収穫時期に見られる風景
ぼっち
八街駅八街市のアンテナショップ「ぼっち」

「牧」を開墾して出来たまち
 現在の八街市の一部には平安時代に比叡山延暦寺が領主だった「白井庄」という荘園があり、戦国時代の1583年(天正11年)には関東で勢力を伸ばしていた北条氏政が千葉邦胤に命じ、軍馬などを放し飼いにする「牧」がありました。江戸時代になると北条氏の「牧」だった場所は1614年(慶長19年)に幕府によって新たに整備され、下総国印旛郡・香取郡・千葉郡及び上総国武射郡・山辺郡に「牧」が作られました。この牧は「佐倉七牧」と呼ばれ、江戸時代終わり頃には七牧併せて2,700頭の馬がいたということです。
 現在の八街市付近には、市の北部に柳沢牧、市の南部に小間子牧(こまごまき)の二つがありました。
 江戸幕府が終焉を迎え明治時代になると、広大な敷地だった「佐倉七牧」は1869年(明治2年)に一部は御料牧場を残して廃止になりました。
 明治政府が出来た頃は不景気で物価も不安定になり、更に天候不順による食糧不足が起きていました。また、廃藩置県政策の影響で職を無くしてしまった武士や、路頭に迷う庶民などが溢れてしまったため、政府はこのような人たちに廃止した「牧」の土地に入植させ、新たな農地の開拓することにしました。下総開墾会社が設立され、職を失った人たちの救済と食糧増産をするために「牧」の跡地の開墾事業が始まりました。この時の開墾計画順の第8番目が現在の八街市で、「八街」という名がつけられました。この「八街」という名前は難読な地名として知られています。
 落花生の栽培は明治末期から急速に発展し、大正初期には既に特産地になりました。1949年(昭和24年)には全耕作地の80%を占めるようになり、日本一の生産を誇るようになりました。
小間子牧野馬捕込跡
小間子牧野馬捕込跡
柳沢牧野馬土手跡
柳沢牧野馬土手跡

大原幽学
八街駅北口の馬の銅像のモニュメント
大原幽学旧宅
八街駅北口の落花生のモニュメントもある

落花生、生姜の次はワイン造り
 落花生で有名になった八街の落花生は2017年(平成29年)に八街落花生商工協同組合が地域団体商標登録され、名実ともに八街ブランドの商品となりました。更に2018年(平成30年)には落花生の新品種を「今までのピーナツを越えた」という意味で、「P」の次の「Q」をとって「Qなっつ」(きゅーなっつ)とネーミングして発売を始めました。
 一方八街商工会議所の飲食業部会は「落花生に続く新たな地域ブランド商品」を求め、落花生と共に全国有数の生姜の産地であることから、2013年(平成25年)に八街産の生姜を使った「八街生姜ジンジャーエール」を開発しました。当初は市内の飲食店で季節限定メニューとして販売していましたが、好評だったため通年販売する事になりました。現在は「八街生姜ジンジャーエール企業組合」を作り、「八街生姜ジンジャーエール」の権利は商工会議所から八街生姜ジンジャーエール企業組合に移管されました。
 2020年(令和2年)にはサクマ製菓とコラボし「八街ジンジャーエール」を忠実に再現したキャンディー、「八街ジンジャーエール ドロップス」も発売されるなど、落花生に続く地域ブランドの創出、コミュニティービジネスの成功例になっています。
 同年、構造改革特別区域法による酒税法のワイン特区に認定され、果実酒製造免許の取得に必要な最低製造数量基準が緩和され、年間製造量が6キロリットルから2キロリットルに引き下げられました。それにより、ブドウ栽培やワイン製造のためのハードルが低くなり、雇用の創出、六次産業化の推進、地域ブランド向上による観光客の増加などが期待されています。
 これまで八街市で行ってきた地域ブランド化への取り組みは、新しいブランドが増えていく毎に更に「魅力のあるまち」へと押し上げてくれることでしょう。
ロードサイド店
市街地のはずれに立ち並ぶロードサイド店
道の駅季楽里あさひ
八街駅付近の中心街

(2022/2/10)
旭市(あさひし)
地図
近郊農業が盛んな市
 旭市は九十九里平野の北端に位置し、市の南部は九十九里浜に面し、夏は飯岡海水浴場、矢指ヶ浦海水浴場などに多くの海水浴客が訪れます。更に市の北部の北総台地の一部、刑部岬は屛風ヶ浦の南端にあたり、夕焼けや朝焼けの名所としても知られています。また、台地の上には風力発電の風車が設置され、周辺は穀倉地帯になっています。
 農業は農畜産物を都市へ供給することを目的とした野菜などを栽培する近郊農業が盛んで、その産出額は県内では第一位、全国でも上位を占めています。
 特産品は、ブランド化されている「飯岡メロン」や苺があり、特にマッシュルームは香取市と併せると全国でトップクラスの生産高を誇っています。また、海産物では飯岡漁港から水揚げされる鰯やしらうおなどが特産品になっています。
 工業は市の西部に鎌数工業団地があります。
 商業はかつて県内の太平洋側の地域で茂原市、銚子市に次ぐ商業都市でしたが、隣接する自治体にも大型店の進出が増えたため商業都市としての位置づけは希薄になっています。
 旭市へのアクセスは、市を横断して総武本線が通っており、干潟駅、旭駅、飯岡駅、倉橋駅の4つの駅があります。高速道路は首都圏中央連絡自動車道の現在の終点、「松尾横芝」から「横芝光インターチェンジ」まで開通している銚子連絡道路が通る予定になっていますが、工事が進んでいません。また、市内を通る国道は126号だけが市の南部を横断していますが、沿線には大型店舗が多く進出しており、常に混雑しています。旭市への道路アクセスが向上するには、銚子連絡道路の延長が望まれるところです。
刑部岬
北総台地の東端にあたる刑部岬
風力発電の風車
大地の上に並ぶ風力発電の風車

飯岡漁港
刑部岬の麓にある市内唯一の漁港、飯岡漁港
鎌数工業団地
市内の鎌数工業団地

農業の街旭市
 かつては現在の東庄町、旭市、匝瑳市の境界付近には椿海と呼ばれていた湖があり、江戸時代に町人の杉山三郎衛門が幕府に干拓を申請しましたが、下流の村々に渇水被害が起きるとして許可されませんでした。
 その後白井次郎右衛門と幕府の大工頭だった辻内刑部左衛門が再度申請し、更に辻内が帰依していた僧侶の鉄牛道機に援助を求め、干拓が始まりました。干拓の途中に白井が破産し、辻内は病死するなどの問題が発生しましたが、鉄牛道機が融資を得るなどして1671年(寛文11年)には新田開発が出来るまでになり、干潟百万石といわれる広大な田園地帯が誕生しました。
 一方、幕末には農政指導者の大原幽学が農村を復興させ、現在の農業協同組合とほぼ同じ機能を持った「先祖株組合」を世界で初めて創設し、農村の再興に勤めました。1853年(嘉永6年)に幽学が開いた「改心楼」という教導所に通うため、村を越えた農民の行き来を役人に怪しまれ、幽学は「先祖株組合」の解散を言い渡されたことを嘆いて切腹してしまいました。今ではその功績をたたえ「大原幽学記念館」が創設され、旧宅が史跡として残っています。
 明治時代になると、鎌数村の金谷総蔵が落花生栽培を普及させました。総武鉄道が開通して大量輸送が可能になると、落花生の栽培が盛んに行われ、落花生の加工工場も数多く造られるようになりました。
 まだ記憶に新しい2011年(平成23年)3月に起きた東日本大震災では、旭市は東北地方以外に津波の被害にあった地域で、飯岡地区を襲った津波は住宅の全壊・半壊・床上浸水を併せて1,000棟を超える被害と多数の死者・行方不明者を出すことになりました。二度と死者・行方不明者が出ないようにと、市内には避難施設となる日の出山公園や避難棟などの施設が作られています。
きみさらずタワー
干潟百万石
竪穴式住居
干潟百万石

大原幽学
大原幽学
大原幽学旧宅
大原幽学旧宅

日の出山公園
津波の避難施設になる日の出山公園
三川津波避難タワー
避難施設の三川津波避難タワー

生涯活躍のまち『みらいあさひ』
 1970年代頃からアメリカで急増した生活共同体は、生涯安全な住まいと医療・介護面で手厚いサポートが約束され、高齢者が健康な段階で入居し、終身で暮らすことができるもので、Continuing Care Retirement Community(略称:CCRC)と言われています。
 日本ではこのアメリカのCCRCの構想を元に「日本版CCRC」として「都市部で生活する高齢者が自らの希望で地方に移り住み、健康でアクティブな生活を送り、医療介護が必要な時には継続的なケアを受けることができるような地域づくり」を目指すものとして始まりました。アメリカでは富裕層を対象としているのに対し、日本では主に厚生年金の標準的な年金月額で生活できるような水準を想定していることが本家アメリカとは違うところです。
 旭市も2016年(平成28年)2月に策定した第1期旭市総合戦略において、「旭市生涯活躍のまち構想」を重点戦略として位置づけ、現在その実現に向けて取り組んでいます。
 この取り組みは「独立行政法人総合病院国保旭中央病院」を核にして連携拠点の道の駅「季楽里あさひを」含んだエリア対象とし、元気な高齢者の移住と若年世代の流出抑制と流入促進をし、更に移住者の仕事づくりを実現させることを目的にしています。この取り組みは市の活性化につなげるための「新しいまちづくり」を推進していくものです。
 この構想は「生涯活躍のまち『みらいあさひ』」と命名され、その中心施設となる複合施設「おひさまテラス」は2022年4月にオープン予定で、現在着々と工事が進んでいます。
 他にも旭市は「あったか!旭」というシティ―プロモーションサイトを立ち上げ、旭市の良い所を紹介し、移住者の声なども掲載し移住促進に取り組むなど、旭市の取り組みは注目です。
おひさまテラス
左の建築中の低い建物が「おひさまテラス」右は旭中央病院
道の駅季楽里あさひ
連携拠点となっている道の駅季楽里あさひ

(2022/1/7)
袖ケ浦市(そでがうらし)
地図
財政力千葉県内3位の石油化学コンビナートがある街
 袖ケ浦市は千葉県の中西部の東京湾に面し、気候は温暖で年間の降水量は多く、市の沿岸部は平地で内陸部は袖ケ浦台地になっています。
 東京湾沿岸部は京葉工業地帯の一部の石油化学コンビナートを中心とする工業地域になっており、2021年(令和3年)9月に千葉県が発表した「指標で知る千葉県2021」によれば、1位の浦安市、2位の成田市に次いで袖ケ浦市は3位と千葉県内でも上位の財政力を誇っています。
 袖ケ浦市の農産物は米作の他、野菜などの作付面積は県内で上位を占めています。また10件を超える牧場があり、県内でも生乳の生産高が高いことが特徴で、牛乳を使ったホワイトガウラーメンがご当地グルメになっています。
 工業も先に挙げた沿岸部の石油化学コンビナートの他、椎の森工業団地などを有しています。
 観光業では有名なテーマパークの東京ドイツ村があり、いちご狩りや収穫体験できる農園などの施設も人気です。
 JR東日本の内房線が市の北部を通っており、市内には長浦駅と袖ケ浦駅の2駅があり、久留里線も市の南部を横断し市内に横田駅があります。
 市の中心部を館山自動車道が通っていますがインターチェンジは市内に無く、隣接する市原市の姉崎袖ケ浦インターチェンジと木更津市の木更津北インターチェンジを利用することになります。首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も市の南端を通っていますが、こちらも同様に市内にはインターチェンジは無く、木更津市内の袖ケ浦インターチェンジを利用することになります。袖ケ浦市への主要なアクセス道としては、国道16号が市の北部、工業地帯に沿って通っており、神奈川県川崎市を起点とする東京湾アクアライン連絡道を経由する国道409号線が市の南部を横断しています。
海岸
工業地帯が広がっている海岸
牧場
牧場

袖ケ浦市役所
袖ケ浦市役所
袖ケ浦駅
袖ケ浦駅

かつての宿場町が高度経済成長時代に工場の街へ
 袖ケ浦という名前は、大和朝廷の勢力拡大のため日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が当時関東以北に住んでいた蝦夷(えみし)を征伐(東征)するため、東へ向かっていたところ、東京湾で時化(しけ)に遭遇しました。妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)は自ら海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、妃の袖が海岸に流れ着いたという伝説から「袖ケ浦」と呼ばれるようになったことが起源だといわれています。隣の木更津市の太田山公園にある「きみさらずタワー」の上にはこの話を象徴するモニュメントとして日本武尊と弟橘媛の像があります。
 袖ケ浦市内には複数の遺跡があり、古くからこの地に人が住んでいたことが伺われます。遺跡からは土器や住戸跡なども発見されており、袖ケ浦郷土博物館には竪穴式住居が再現され展示されています。また、鎌倉時代から戦国時代にかけては市内にも多くの城や砦が作られ、今でも14か所の遺跡が残っています。
 江戸時代になると房総往還(ぼうそうおうかん)や久留里街道などの主要な街道が市内を通り、市内に房総往還の主要な宿場の一つの「奈良輪宿」ができ、宿場町として繁栄していました。
 大正時代に入ると、鉄道が開通し潮干狩りや海水浴など東京から多くの観光客が訪れるようになり、海苔の養殖も始まり名産品になりました。太平洋戦争後の高度経済成長時代になると、沿岸部は京葉工業地帯の一部として埋め立てられ、漁業や海苔の養殖は行われなくなり、工業の街に変わっていきました。
きみさらずタワー
木更津市太田山公園内「きみさらずタワー」の上にある
日本武尊と弟橘媛の像
竪穴式住居
袖ケ浦市郷土資料館内の竪穴式住居

東京からのアクセス向上で新たな発展
 市政がしかれる前の袖ケ浦町は工業地帯ができたことで、人口が増加し、1991年(平成3年)に袖ケ浦市が誕生しました。その後1997年(平成9年)に川崎市と木更津市を結ぶ東京湾アクアライン連絡道が開通し、館山自動車道と富津市金谷の東京湾フェリーしかなかった袖ケ浦市へのアクセスは劇的に変化しました。更に2007年(平成19年)には分断されていた館山自動車道の君津インターチェンジから富津中央インターチェンジまでが開通。2007年(平成19年)には館山自動車道と東京湾アクアライン連絡道を結ぶ木更津ジャンクションが開通、2013年(平成25年)には千葉東金道路と木更津東インターチェンジを結ぶ首都圏中央連絡自動車道の東金ジャンクションが開通するなどますますアクセスが向上していきました。
 また、袖ケ浦インターチェンジに近い袖ケ浦市南端には袖ケ浦バスターミナルが出来、アクアライン経由の路線を走るバスが多く発着しバスを使ったアクセスも可能になりました。バスターミナル周辺には民間駐車場も軒を並べており、マイカーはそこに駐車してバスを使って東京までアクセスすることも可能になっています。
 市内にあるインターチェンジはたった一つでも、千葉県の動脈となる高速道路のインターチェンジに隣接して交通の要に位置している袖ケ浦市は、基幹産業の工場が軒を並べ、そこで働く人が増え経済を潤し、道路整備が更にベッドタウン化を促進しています。
 これも伝説の弟橘媛が袖ケ浦市に福をもたらしてくれているのかもしれません。これからも袖ケ浦市はどんな発展を見せてくれるかが楽しみです。
袖ケ浦バスターミナル
高速バスと路線バスが乗り入れる袖ケ浦バスターミナル
東京湾アクアライン
東京湾アクアライン

千葉フォルニア
千葉フォルニア
JAきみつゆりの里
JAきみつゆりの里

(2021/12/10)
白井市(しろいし)
地図
梨と千葉ニュータウンで栄える市
 白井市は2001年(平成13年)市制に移行した街で、千葉県の北西部に位置し下総台地と谷津田で形成されています。年間を通して湿度が高い地域で、夏は短くほぼ曇り、冬は寒いですが0℃以下になることはめったにありません。
 以前は農業地帯でしたが、1979年(昭和54年)に北総線が開通し、白井市、船橋市、印西市にまたがる大規模な千葉ニュータウンができたことで、住宅都市として開発が進み人気がある街になっています。
 主な産業は農業で、特に梨は明治時代より盛んに行われ、梨業組合に加入している果樹園は77件にも及び、全国の梨(日本梨)の生産高の首位を争う千葉県の中でもトップの座を占めています。更に2014年(平成26)には梨を「しろいの梨」として地域団体商標登録しブランド化しています。他にもブドウやキウイフルーツなどの果樹の栽培も盛んに行われています。
 市の北部には県内内陸部最大の白井工業団地には約300社の事業所があり、そこには高い技術力を持つ多種多様な業種が集まっています。
 白井市へのアクセスは北総鉄道が南部を横断しており、都心へのアクセスはもとより、京成電鉄の成田スカイライナーが通ることにより成田へのアクセス向上も担っています。市内には西白井駅と白井駅の二つの駅があり、駅周辺は東京のベッドタウンとしての機能を果たしています。高速道路は通っていませんが、動脈となる国道464号線が北総鉄道の線路に沿って横断し、中央部を国道16号線が縦断しています。
梨のキャラクター
梨のキャラクターも存在
梨畑
市内のいたるところにある梨畑

白井工業団地
県内最大の白井工業団地
白井市役所
白井市役所

街道として栄え梨で栄える
 白井市には縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が発掘されており、古くから人が住んでいたことがわかります。鎌倉時代には北条氏の支配下となり、室町時代には鎌倉市の円覚寺の所領となった一方、千葉氏や原氏、高城氏など地元勢力の強い影響を受けるようになりました。
 江戸時代になると現在の白井市の大半は旗本領となり、市内の平坦な台地上は江戸幕府の軍用馬を育成する小金牧という「御用牧」が設置されました。また、鮮魚や物資を江戸に供給するための銚子から利根川を舟で遡上する輸送路が生まれましたが、距離が長いことや冬季の渇水期は関宿付近を通れなかったことなどから、木下(きおろし)河岸から白井・鎌ヶ谷を経て本行徳の河岸まで馬で運ぶ「木下街道」が使われました。その後、新田開発などで新しく我孫子・松戸間を結ぶ「鮮魚(なま)街道」ができたことで白井はその中継の宿場町として発展することとなりました。
 また、白井市は「小金牧」という江戸幕府の馬の牧場でしたが、明治政府になり「牧」は全て廃止になりました。水が乏しく、田畑には向いていない土地でしたが、植樹には向いている土壌だったため、果樹栽培には適していました。
 江戸時代から千葉県は梨の産地で、市川や船橋で栽培されていましたが、明治時代に入ると市川や船橋の市街地化が進み、その栽培場所が徐々に郊外へ移っていった結果、1905年(明治38年)頃には白井市でも梨の栽培がおこなわれるようになり、新中、早生赤、長十郎などの品種が作られました。
 太平洋戦争中は、政府の食料統制で果樹栽培から畑作へと転換せざるを得なくなっていく中、白井では官民一体となって1940年(昭和15年)に「梨業組合」を結成し、獲れた梨を軍用に供出するなどして、果樹園を守りました。更に戦後、進駐軍が白井基地に進駐し、当時の白井村が千葉県最初の農地解放指定を受けたことで、いち早く梨づくりに手を付けることができました。
木下街道
木下街道
鮮魚街道
鮮魚街道

梨だけではない白井市
 戦後になって各地でも梨の栽培が始まりましたが、新たに登場した幸水などの品種は今までの品種と比べて栽培が難しく、失敗する産地が多くありました。白井市では梨業組合の研究でそれを克服すると共に、国や県の試験場にもその情報を提供するなど日本の梨栽培にも貢献しています。また2010年(平成22年)に中国に輸出したのを皮切りに、2012年(平成24年)にはタイ王国に、2015年(平成27年)にはモンゴルにも輸出するなど海外への販売にもチャレンジしています。
 千葉県内の多くの地域では過疎化が問題になっていますが、千葉ニュータウンは都心までのアクセスが良いことから、東京のベッドタウンとして若い世代の流入が進んでいます。北総鉄道に沿って国道464号線が通っており、沿線には大手ショッピングモールや大型のホームセンター、飲食店など北総エリア最大のショッピングゾーンになっています。
 しかし、2025年(令和7年)には白井市の人口も少子高齢化が進み減少傾向になることが予想され、また「しろい」と読むことができなかったり、近隣の市の調査でも市の名前を知らない人がいるという結果も出たそうです。
 そこで市は白井市を知ってもらい、更に若い世代を呼び込み、移住・定住促進を図ろうと市の「セールスプロモーション」に取り組むことになり、市のホームページ内に白井市の魅力を紹介するプロモーションページを公開するなどさまざまな方法で白井市を知ってもらう発信をしています。これからも、梨とニュータウンで発展していく白井市の動向に注目です。
西白井駅
西白井駅
白井駅
白井駅

住宅街
住宅街が広がる
白井市文化会館
白井市文化会館

(2021/11/10)
銚子市(ちょうしし)
地図
漁業と風車の街銚子
 銚子市は千葉県の東端、茨城県の県境にあたる利根川の下流にある市です。太平洋に面しているため、気候は海洋性気候で湿度は高め、年間の平均気温は約15℃前後で夏涼しく冬は暖かい気候の地域です。
 銚子沖は南から流れてくる黒潮と、北から流れてくる豊富な栄養を蓄えた親潮がぶつかる場所で、更に利根川から流れてくる有機物があることから、格好の漁場になっています。そのため漁港付近を中心に水産加工工場が多く存在し、銚子の経済を支えています。また醤油の醸造も盛んで、大手醤油メーカーが市内に本社や工場を構え、醸造の町としても知られています。
 農業も盛んで、海洋性気候を生かしてキャベツやメロン、スイカなどが栽培されています。
 商業はJR銚子駅の北側から銚子漁港までの地域が市街地で、古くからの商店などが並んでいるほか、市の南部、屛風ヶ浦の上の台地の国道沿線には大手ショッピングモールや大手家電販売店などが進出しています。
 銚子市内に入って目を引くのは巨大な風車で、年間を通じて比較的風が強いため、現在34基の風力発電の風車が稼働しています。また、洋上には洋上風力発電の風車も見ることができます。
 市内の鉄道は、JR東日本の成田線が市の北部の利根川沿いに通っており、下総豊里駅、椎柴駅の2駅があります。また、北西部からは総武本線が通り、猿田駅の1駅が松岸駅手前で成田線と合流し銚子駅へと繋がっています。銚子駅からは銚子電鉄線が市の東端まで9駅あり、外川駅が終点になっています。
 道路はバイパスの銚子連絡道路が横芝光町までは完成しているものの、道路建設はそこで中断して銚子までは到達していません。国道は126号線が市の西部から中心部、そして銚子駅付近を抜け国道124号線になり銚子大橋を抜け茨城県へと続いており、北西部から利根川に沿って356号線が市の中心部まで通っています。
風車
風力発電の風車
洋上の風車
洋上に設置された風車

ぶどう郷
市内のいたるところにあるキャベツ畑
JR銚子駅
JR銚子駅

利根川水運で繁栄した街
 以前の江戸は坂東太郎(ばんどうたろう)と呼ばれた暴れ川の利根川が江戸の中心を流れ、しばしば洪水を起こしていました。徳川家康が江戸に入府して始めた治水事業一つに江戸の中心を流れる利根川の流れを変えることでした。1621年(元和7年)から1654年(承応3年)の間に行われた「利根川東遷」と呼ばれる治水事業は、利根川の流れを銚子に流れていた常陸川へ人工的に繋ぐことでした。その結果、利根川が東北地方と江戸を結ぶ物流の動脈になり、銚子がその拠点として江戸に銚子産の物資を運ぶことで発展を遂げていきました。
 かつて関西方面では、綿花の栽培に紀州などの沿岸部などで調達されたカタクチイワシを干して肥料にした干鰯(ほしか)が盛んに利用されていました。政治の中心が江戸へと変わると、江戸でも干鰯の需要が高まり、供給が追い付かなくなってきました。主にカタクチイワシを獲っていた紀州の漁師は、新たな漁場を求めて房総半島へとやってくるようになりました。他の漁師と同じように紀州からカタクチイワシを追って銚子沖までやってきた崎山次郎右衛門は海難事故に会い、銚子の人々に助けられたのがきっかけで銚子に移住し、1658年(万治元年)と1661年(寛文元年)の二期にわたって外川(とかわ)漁港建設に尽力し、漁師たちは獲れたカタクチイワシで干鰯を作り江戸に運んで財を成しました。
 一方、銚子漁港は利根川の河口付近で水深が浅く、潮の流れが急であったため、鳴門海峡、伊良湖岬に並ぶ三大難所といわれ、海難事故が多く発生していました。1910年(明治43年)に発生した海難事故の遺族の訴えに、銚子醤油(現ヒゲタ醤油)社長の濱口吉兵衛は心を動かされ漁港整備を行うため1920年(大正9年)に衆議院議員となり、1925年(大正14年)から銚子漁港の整備事業に着手し、その結果、銚子漁港は日本三大漁港になるまでに発展しました。
 醸造業、特に醤油の製造も利根川水運を利用して発展していきました。銚子で豪農だった現ヒゲタ醤油の創業者の田中玄蕃は1616年(元和2年)、関東で初めて醤油醸造を始め、1645年(正保2年)には紀州の濱口儀兵衛が銚子に渡り現在のヤマサ醤油を創業するなど醤油醸造が盛んにおこなわれるようになり、醸造の町としても名をあげるようになりました。
 漁業、そして醤油の町として栄えた銚子ですが、江戸の昔から観光で人気があった利根川を利用した舟での鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の東国三社参りに並び、「銚子の磯巡り」も江戸の庶民の旅先のひとつになっていきました。また、坂東三十三観音霊場二十七番札所である銚子の飯沼観音の門前町としても栄えたため、江戸時代後期の銚子の人口は、江戸、水戸に次ぐ関東地方3番目で、関東屈指の都市だったそうです。
外川漁港
かつて干鰯で反映した外川漁港
崎山次郎右衛門の碑
銚子漁業発祥の地の開祖崎山次郎右衛門の碑

濱口吉兵衛の碑
銚子港の漁港整備に尽力した濱口吉兵衛の碑
飯沼観音
坂東三十三観音霊場の飯沼観音

新たな銚子の街を発信する
 銚子は古くは「銚子の磯巡り」で多くの観光客を迎えていましたが、現在は観光のコアとして土地の成り立ちを地球科学的な背景などを巡る「ジオツーリズム」を推進しています。代表的な「屛風ヶ浦」は、外川から九十九里の方向へ40m~50mの高さで10㎞に渡って続く220万年から250万年前に堆積した地層です。また、銚子の東側の犬吠埼の地層も1億2000万年前のもので、更に1億5000万年前に現在の中国南東の海岸で堆積したものが今の場所に移動してきた「犬岩」など、地質学上貴重な場所が多く存在します。地質学マニアでなくとも興味が持てる観光資源になっています。
 新しい観光スポットとしてあげられるのが、犬吠埼灯台に2018年(平成30年)12月にオープンした「犬吠テラステラス」です。「犬吠テラステラス」内には銚子ジオパークビジターセンターがあり、銚子を盛り上げるきっかけづくりとして始めた銚子初のクラフトビール工房「銚子ビール」があり、地ビールを楽しむこともできます。
 一方、「銚子」をマスメディアでいちばん賑わせているのがJR東日本の銚子駅から、かつて干鰯で栄えた外川までを結ぶローカル鉄道「銚子電鉄」でしょう。銚子電鉄は、利用者が減少し赤字経営の資金確保の手段として販売した「ぬれ煎餅」で知名度が向上し、今では鉄道収入よりも多い売り上げを上げています。更に独特のネーミングの菓子「まずい棒」の販売、グッズの販売、各駅のネーミングライツの実施、映画製作、農家とコラボし地元産のキャベツを使った餃子の販売など、本業以外での売り上げ増を目指すなど経営を支えています。このように突飛ともいえるさまざまな企画展開は鉄道の経営だけでなく、かつて観光でにぎわった「銚子」という名前を全国に発信することで、銚子の観光を呼び戻す効果を上げています。
 多くの人口を抱え観光都市としても多くの観光客が訪れた銚子を再び取り戻したいと、地元の若い世代やUターン組、更に外部の支援者などの活動が始まっています。銚子の今後の新しい動きに注目です。
屛風ヶ浦
日本のドーバーといわれる屛風ヶ浦
犬吠テラステラス
吠埼灯台に新しくできた犬吠テラステラス

銚子電鉄
経営難に苦しみながらも運行を続ける銚子電鉄
ぬれ煎餅駅
銚子電鉄の売上に貢献するぬれ煎餅販売施設のぬれ煎餅駅

(2021/10/8)
東金市(とうがねし)
地図
千葉県中部の緑豊かな中心的なまち
 東金市は千葉県の中部、太平洋側に位置する市で、九十九里平野と房総台地の境界に位置し、東側の平野部の広がりは隣接する九十九里町に続いており、西側の丘陵地は山武杉の森林地帯です。年間を通じて湿度が高い地域ですが、冬は1度以下になることは稀で、夏も30度を超えることがめったにない温暖な気候です。
 主な産業は農業で、平野部の稲作のほかさまざまな野菜も作られており、8件の観光農園が集まって作った「東金市松之郷ぶどう組合」は、「東金市ぶどう郷」として多くの観光客を集めています。
 また、匝瑳市と並び「植木のまち」としても知られており、市内の植木組合は「植木」を東金の文化として広く世界に伝えようと海外輸出の取り組みも行われています。
 商業地区は、「3・5・7千葉銚子線」(かつての旧街道)でなく、現在は国道126号沿線のロードサイド店を中心ににぎわいを得ています。
 工業はアクセスの良い東金道路の終点の東金インターチェンジ付近に「千葉東テクノグリーンパーク」という工業団地があります。
 市内の鉄道は、JR東日本の総武本線の成東駅と外房線の大網駅から分岐している東金線が通っており、求名駅、東金駅、福俵駅の3駅があります。
 有料道路は北西部に千葉東金道路(国道126号線)が通っており、終点の東金インターチェンジからは一般道の国道126号線になり市内を横断しています。この東金道路は、京葉道路、首都圏中央連絡自動車道とも連結され、アクセスも良いことからバス路線も充実しています。市内はもとより千葉方面や東京都内へのバス路線は市外へのアクセス向上に大いに役立っています。
東金市街
東金市街
東金市東部の田園
東金市東部の田園

ぶどう郷
県内最大級のぶどうの栽培がおこなわれているぶどう郷
九十九里鉄道のバス停
東金駅前の九十九里鉄道のバス停

徳川家康と東金
 東金の由来は、最福寺境内の山嶺が鴇(とき)の頭に似ていることから「鴇ヶ峯(ときがみね)」といわれるようになり、それが訛って「東金」というようになったといわれています。鎌倉時代には北条氏、室町時代から戦国時代にかけては、酒井氏の支配を経て徳川氏の支配下になりました。
 徳川家康が1614年(慶長19年)に鷹狩のために訪れることになり、そのために船橋から東金まで「御成街道」が作られ、更に鷹狩りのために作られたのが東金御殿です。現在この鷹狩御殿の跡地に千葉県立東金高校が建てられています。また御殿の向かいにはそれまであった池を景観のために拡張して整備された八鶴湖(はっかくこ)があり、今でも市民の憩いの場になっています。
 八鶴湖の湖畔には明治時代に創業した旅館の八鶴館が建てられ、北原白秋や伊藤左千夫ら多くの文人墨客が訪れていたそうです。現存する八鶴館の建物の一部は国の登録有形文化財に登録されており、現在はフランス料理レストラン「八鶴亭」になっています。
 千葉県内には九十九里平野南部から南房総にかけての水道水の供給を目的に、横芝光町を流れる栗山川から取水し大多喜町までほぼ地下を通って送水している房総導水路(ぼうそうどうすいろ)が通っており、市内にはそれを引き継ぐための東金ダムがあります。「ときがね湖」とも呼ばれ、ダム湖周辺は地域住人の散歩やジョギングスポットとしても活用されています。
最福寺境内の山嶺
「東金」の名前の元になった最福寺境内の山嶺
千葉県立東金高校
東金御殿跡に建てられた千葉県立東金高校

八鶴湖
八鶴湖
八鶴亭
八鶴湖の湖畔にある国登録有形文化財の八鶴亭

東金ダム
市民の憩いの場になっている東金ダム(ときがね湖)
房総導水路の説明
ダムに掲示されている房総導水路の説明

「みのりの郷」東金で将来の農業を育てる
 東金市には1979年(昭和54年)に設置された千葉県立農業大学校があります。この学校は専修学校として2年間の農学課ののち、更に2年間の研究科を卒業すれば専門士の資格を得ることができる農業専門の学校で、将来の農業の担い手たちを育てています。
 東金市も農地の利用の最適化、担い手農業者の育成と農業基盤整備などを推進すると共に、東金市、東金商工会議所、JA山武郡市が出資し、第三セクターの東金元気づくり株式会社を設立しました。東金元気づくり株式会社は、農産物直売の支援と消費拡大の核となる施設として道の駅「みのりの郷東金」の運営を行っています。
 また、東金元気造り株式会社は単に農産物の直売だけを行うのではなく商品開発も担っており、地元で採れるゆず、いちご、ぶどう、プラムをはじめ、さまざまな果物や野菜を使った「東金天門どう」という商品を開発しました。「天門どう」とは、県内で古くから食べられていた「かんきつ類」や「根生姜」などを蜜で煮て乾燥させたもので、贈答品として販売することを目的に現代によみがえらせたそうです。
 他にも「みのりの郷」施設内には東金市の主要な農産物になっている米から米粉を作り、それを使った麺やパンを積極的に使った「みのりdeli*deliキッチン」という加工施設も併設し、主な農産物の米の付加価値向上を狙っています。
 このように東金市は、次の農業の担い手を育てる学校があるだけではなく、「みのりの郷東金」を通して新しい農業のあり方の推進に力を入れています。東金市の農業これからの農業への取り組みは注目に値するでしょう。
千葉県立農業大学校
千葉県立農業大学校
道の駅みのりの里東金
道の駅みのりの里東金

東金天門どう
東金元気造り株式会社が開発した「東金天門どう」
みのりdeli*deliキッチン
みのりの郷東金の施設内の加工所「みのりdeli*deliキッチン

(2021/9/10)
富里市(とみさとし)
地図
スイカの町
 富里市は千葉県の北部、下総台地の中央に位置し、成田市、芝山町、八街市、山武市、酒々井町に隣接しています。
 主な産業の農業はスイカをはじめさまざまな農作物が作られています。元々富里市のある北総台地は火山灰土壌で、水はけが悪く梅雨の長雨や夏場の高温多湿など、野菜の栽培に適した土地ではありませんでした。
 大正時代にアメリカ種のスイカが導入されたことでスイカの栽培が盛んになり、1935年(昭和10年)には現在の富里市農協西瓜部の前身になる「富里村西瓜栽培組合」が発足しました。そして栽培の統一、検査出荷の共同化が行われるようになり、1936年(昭和11年)に皇室にスイカを献上したことで富里のスイカが知られるようになりました。
 その後千葉県全域でスイカの栽培は盛んになり、今では千葉県のスイカの栽培は熊本県に次いで全国第2位で、その多くは富里のスイカが占めており、北は北海道から南は大阪京都方面まで広範囲に出荷されています。
 毎年6月に開催されるスイカや地元の野菜などを販売するスイカ祭りの他、1984年(昭和59年)から始まった「富里スイカロードレース」では、コース終盤の「給スイカ所」という名のエイドステーションとゴールに、食べ放題のスイカが置かれているという大会です。今や募集定員があっという間に埋まってしまうほどのイベントに成長し、昨今は芸能人の参加なども多く、メディアでも多く取り上げられるようになり、富里スイカの知名度向上に役立っています。
 また、成田空港に隣接していることから、空港施設やリネンなど宿泊施設に関する企業があり、大手企業や海外企業の施設も多く、富里臨空工業団地や富里第二工業団地などの工業団地も抱え、国道沿いには大手のロードサイド店が揃っているなど、商業施設も充実しています。
 市内には鉄道は通っていませんがバス路線が充実しており、中でも東京駅までの高速バスが運行しているため都心へのアクセスも便利です。また、市の北西部を東関東自動車道が通り、市内には富里インターチェンジがあります。他に国道は西部に409号線、市のほぼ中央部を296号線が通っているため、道路事情は悪くありません。
富里市役所
富里市役所
旬菜舘
JA富里の直売所「旬菜舘」

スイカのオブジェ
富里市役所前にはスイカのオブジェが
看板
JAの直売所にあるスイカ柄の大きな看板

牧(まき)の町から臨空の町へ
 富里市には平安時代から馬を放牧する「牧」があり、1583年(天正11年)には相模国の北条家の3代目当主だった北条氏康が千葉邦胤に命じて「牧」を作らせたという話もあります。
 江戸時代になると、幕府は千葉県内に「佐倉七牧」という七つの幕府直轄の「牧」を作りました。そのうち「高野牧(こうやまき)」と「内野牧(うちのまき)」は現在の富里市内にありました。
 大政奉還が行われ、明治政府は職を失った下級武士や庶民の困窮対策として牧の開墾が実施されました。その後1875年(明治8年)に十倉地区に毛織物の原材料となる羊毛の国内自給を図るため下総牧羊場が開設され、1888年(明治21年)に宮内省管轄の「下総御料牧場」と改称されました。
 1889年(明治22年)には町村制の施行で13の村が合併して「十三の里」から「とみさと」=「富里」となりました。
 太平洋戦争後には富里内にあった官有地が民間へ払い下げられ、多くの人が入植し人口が増えていきました。
 1962年(昭和37年)に第二国際空港建設が閣議決定され、富里・八街地域設置案が浮上しましたが、反対運動が活発化していきました。1966年(昭和41年)に「三里塚案」に決定し、富里は移転農家代替地の候補になりました。
 1985年(昭和60年)に町制施行で富里町となり、2000年(平成12年)の国勢調査で市制施行可能最小人口の5万人に達したことで、2002年(平成14年)に市制施行し、富里町から富里市になりました。
 2012年(平成24年)、三菱地所より富里市に旧岩崎家末廣別邸が寄付され、敷地は市指定史跡になり、2013年(平成25年)に主屋、東屋、石蔵が富里市はじめての国の登録有形文化財になりました。
馬のブロンズ像
富里は牧だったことから市役所前に馬のブロンズ像がある
富里牧羊跡の石碑
富里牧羊跡の石碑

旧岩崎家末廣別邸
国登録有形文化財になった旧岩崎家末廣別邸
末廣農場跡
別邸と同じ敷地に広大に広がる末廣農場跡

ジャズとスイカ
 スイカのまちで毎年行われる「富里スイカロードレース」は、残念ながらコロナ禍で2020年(令和2年)の第37回、2021年(令和3年)の第38回と2年連続で中止になったものの、これからも富里の名を広める大きなイベントとして続いていくでしょう。
 更に2007年(平成19年)には富里市農業協同組合が「富里スイカ」という商標を取得しブランド化した他、2015年(平成27年度)にはスイカの苗一株ごとにオーナーを募り、栽培セミナーや収穫体験などの農業イベントも開いています。
 このようなスイカの町富里でも昨今は後継者不足などで作付面積が15年前に比べ4割も減少しています。そこで、富里市は改めて市民の愛着や知名度向上を図り、富里のスイカを守る事を理念とした「すいか条例」を2021年(令和3年)4月1日に施行し、特産品のスイカの魅力を市の内外へ周知する策を講じています。
 スイカ一色のイメージが強い富里市ですが、市のキャッチフレーズが「人と緑が調和し未来を拓く臨空都市」となっているように空港に隣接した町だけに、工業団地や物流センターなどが増え、外国人の在住者も増えています。
 富里国際交流会は在住外国人のための日本語教室を開いたり、逆に市内の中学生のホームスティ体験の支援活動を行い、海外との交流を推進する活動を行っています。そして特筆すべきものとして、アメリカのモントレージャズフェスティバル実行委員会の協力を得て、県立冨里高校に千葉県唯一のジャズ・オーケストラ部「ザ・マッド・ハッターズ」の育成と交流を応援するためのイベント「ジャズフェスティバルinとみさと」を毎夏開催し、高校生のジャズを通しての外国との交流活動を行っています。
 冨里高校のジャズ・オーケストラ部は創設33年の歴史を誇り、国内のコンテストでも優秀な成績を収め、2020年(令和2年)7月にコロナ禍の中で行われたアメリカの高校ジャズバンドの大会でトップタイとなる7つ賞を受賞する快挙を収めました。
 スイカとジャズの町富里市は、音楽を通して国際的な知名度向上と世界に出ていける子供たちが育っていくかもしれません。これからの富里市が楽しみです。
第二工業団地
第二工業団地
県立冨里高校
県内唯一のジャズ・オーケストラ部がある県立冨里高校

香取神社
スイカのお守りが評判の富里市内の香取神社
高級食パン店
スイカ畑が描かれた高級食パン店「はじまりのメッセージ」

(2021/8/10)
山武市(さんむし)
地図
九十九里浜と山武杉の市
 山武市は千葉県北東部に位置し、太平洋沿岸の蓮沼や成東などの東部は海洋性気候で温暖な一方、内陸部の旧山武町の西部は内陸性気候のため寒冷という二つの気候を持ち合わせた地域です。
 主な産業は農業で、特にいちごは国道126号沿いに多くの観光いちご園が集まっていることから別名「ストロベリーロード」と呼ばれるほど多くの観光客を集めています。
 2002年(平成14年)の台風によって大量の海水を含んだ潮風による塩害で、さまざまな農作物が枯れてしまいましたが、何故か長ネギだけはおいしく育った事から調査・試験を重ね、2006年(平成18年)からは海水をかけて栽培する長ねぎを「九十九里海っ子ねぎ」としてブランド商品化をしています。他にも稲作や野菜、花き、畜産など、産業全体で農業産出額が多くを占めています。
 一方林業は、江戸時代に建材や建具として江戸に出荷され、良質だと評価されていた山武杉(さんぶすぎ)があり、この山武市を中心に、高級な杉材として生産されています。
 漁業は海岸線が九十九里浜の砂浜なので市内に漁港は存在しませんが、近隣の漁港で上がったイワシやサバなどの加工業が沿岸部に集まっているため、九十九里地域で獲れる魚介類が名産品になっています。
 山武市へのアクセスは成東駅で分岐するJR東日本の総武本線と東金線が通っており、市内に日向駅、成東駅、松尾駅の3駅があります。また、バス路線も豊富で市内や近郊へはもとより都内へ向かう路線も充実しています。 また、道路は市の西部に自動車専用道路の銚子連絡道路山武成東インターチェンジがある他、市のほぼ中部を国道126号線が通っています。
分岐
JR東日本成東駅から東金線(左)と総武本線(右)が分岐
ストロベリーロード
市国道沿いに観光いちご園が並ぶストロベリーロード

山武杉
良質な木材と評価されている山武杉が至る所にある
山武市役所
山武市役所

「さんむ」と「さんぶ」のわかりにくい市名
 現在の山武市周辺は鎌倉時代には千葉氏が支配していた地域で、1227年(安貞元年)に桓武天皇の流れをくむ印東氏の領地となり、成東城が築城されました。その後成東城は豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した北条氏と共に陥落し、江戸時代になって徳川幕府の大名が入場しましたが、1620年(元和6年)に廃城になりました。
 以後は幕府領を経て藩領、旗本知行地を経て明治維新を迎え、1889年(明治22年)に成東をはじめ11の村が成立し、1898年(明治31年)に松尾村が町制施行で松尾町になりました。
 太平洋戦争後の1958年(昭和33年)と翌年の2年間に渡って合併が行われ新たな成東町が成立、同年に山武町が成立と合併を繰り返していました。
 2006年(平成18年)に山武郡成東町、山武町、蓮沼村、松尾町が合併して山武市が誕生しました。当初は新市名を太平洋市と決定したようですが「自治体が『太平洋』を名乗るべきではない」という抗議が相次ぎ、住民アンケートをとって山武市(さんむし)に決定しました。
合併以前はいつの間にか「さんぶ」と濁音がある呼び方になっていましたが、元々飛鳥時代から明治初期まで、日本の行政区分の基本単位だった令制国(りょうせいこく=律令国)では上総国武社国造(かずさのくにむさのくにのみやつこ)でした。また、明治時代までこの地域が武射郡(むさぐん)と呼ばれていた事から「むさ」を受け継いだ「さんむ」という濁音の無い読み方が歴史的な読み方なので、「さんむ」の方が新しい市に相応していたためといわれています。
成東山長勝寺
行基が海南除けを祈願して開基した浪切不動院
(成東山長勝寺)
山武市民俗資料館
山武市民俗資料館

伊藤佐千夫の生家
資料館の隣接地にあるは歌人・小説家伊藤佐千夫の生家
生家の中
見学することができる生家の中

魅力度ランキング最下位でも魅力ある市
 ブランド総合研究所の「2020年魅力度ランキング」の中の、1,000の市区町村を対象にしたランキングで山武市は全国最下位タイの997位になってしまいました。東京駅までノンストップでも行け、バス路線なども充実し、悪くないアクセス環境でありながら、この結果に関係者はショックを受けています。
 山武市の本須賀海岸は水質や安全性など33の基準に合格して取得できる、国際環境認証の「ブルーフラッグ」を取得している県内唯一の海岸で、週末は多くのサーファーが集まり、ロケ地としても人気があります。また、地球温暖化・気候変動問題の対策を行い2050年までに掲げられている市内の二酸化炭素(CO₂)排出量実質ゼロを目指す「ゼロカーボンシティ」の実現に取り組んでいるなどさまざまな取り組みを行っていますが、どれも魅力にはつながっていないようです。
 その原因は市の名前が以前の「さんぶ」ではなく「さんむ」と変わったことや、本須賀海岸や蓮沼ウォーターガーデンなどのレジャースポットや、関東有数のいちご狩り農園が集まっている「ストロベリーロード」など人気スポットが山武市にあるということが知られていないのではという声もあるようです。
 知名度やイメージの問題はさておいても、山武市の2015年の総人口にしめる65歳以上の割合(高齢化率)は30.9%で、すでに3割を超えています。全国平均(26.6%)よりも4.3ポイント高く、2045年までには高齢化率は51.3%に達し、おおよそ10人に5人が高齢者になると見込まれています。そんな大きな問題を抱え、地元の商工業も大きな危機を迎えています。
 そこで山武市は減少傾向にある中小の商工業の成長で地域経済活性化を目指す「エコノミックガーデン」に取り組むことになり、2014年(平成26年)に山武市エコノミックガーデニング準備委員会が組織されました。市内の行政や商工会議所、銀行などが連携しながら地元の中小企業が活動しやすく成長できるように、地域資源活用、オープンイノベーション活用などさまざまな活動を通して地域経済の活性化に取り組む活動が進められています。エコノミックガーデンで地域経済活性化を目指す山武市に注目です。
グリーンタワー
いちごの里さんむS1グランプリも開かれる
山武の森念公園のシンボル「グリーンタワー」
オライ蓮沼
人でにぎわう道の駅オライ蓮沼

蓮沼海浜公園
広大に広がりさまざまな施設がある蓮沼海浜公園
展望塔
蓮沼海浜公園のシンボルタワー展望塔

(2021/7/9)
大網白里市(おおあみしらさとし)
地図
里山と海がある横に長い市
 大網白里市は千葉市に隣接している千葉県の中央部に位置する市で、西側は丘陵地区、中央は田園が広がる地区、東側は内陸から外房へとつながる海岸部になっている横長な形をしています。
 元々は第一次産業中心の地域でしたが、高度経済成長期になり千葉市や東京のベッドタウンとして注目されるようになりました。1975年(昭和50年)代に千葉市に隣接する丘陵地区から宅地開発が進み始め、それにより人口が急増したため隣接する市町村との合併をすることなく単独市制を施行し、2013年(平成25年)大網白里市になりました。
 市の中央部は古くから稲作が中心で、ネギ・大根・トマト・キュウリ・玉ネギ・しし唐辛子などのほか、落花生などさまざまな野菜も栽培されています。いちごの栽培も盛んで、市場にはまだあまり出回っていない品種の「真紅の美鈴」は市内の育苗家が開発した品種です。また、ブランド乳牛「八千代ビーフ」のほか肉牛の「かずさ和牛」の生産などの酪農も行われています。
 市内東側の海岸線は砂浜のため漁港はありませんが、水産加工場が多くイワシをはじめ干物や蛤などが名産品になっています。
 市の西部をJR東日本の外房線が通っており、大網駅から成東駅までの東金線が分岐し、房総半島の東側のJR東日本路線の分岐点になっています。
 高速道路は通っていませんが、自動車専用道路が市の東部を海岸線に沿って九十九里有料道路が、西部を圏央道が縦断しています。また、国道は468号線と128号線が市の西部を縦断しています。
九十九里有料道路
九十九里有料道路
白里海岸
市の東端に位置する白里海岸

JR東日本大網駅
JR東日本大網駅
大網駅の分岐
大網駅のJR東日本外房線(左側)、東金線(右側)分岐

檀林そして県庁があった街
 大網白里市は古くから人が住む地域で、貝塚や遺跡などが発見されています。
 室町時代の1488年(長享2年)に土気城に入った上総酒井氏は東金城にも勢力を広げ、現在の大網白里市の地区を治めていました。北条氏の房総半島への勢力拡大に伴い里見氏との戦いが始まり、酒井氏は板挟みになりましたが、里見氏側に付き北条氏と対峙しました。1576年(天正4年)に北条氏に降伏し北条氏に従って里見氏に対する備えを担っていましたが、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が敗北すると上総酒井氏所領を失ってしまいした。
 江戸時代になると将軍家は下総、上総一帯で鷹狩りを行うようになり、鷹狩の場となる大網白里市と将軍家とは大きくかかわりを持つようになりました。
 当時、地方の教育は寺子屋で、現在の大学に当たる高等教育は「檀林(だんりん)」でと、いずれも寺院が行っており、大網白里市にも檀林が作られるようになりました。
 大網白里市がある地域では、上総酒井氏の祖といわれる土気城主酒井定隆が領内に法華宗(日蓮宗)への改宗令(上総七里法華:かずさしちりんほっけ)で、法華宗が浸透していた土壌があったため、市内には小西檀林(現妙高山 正法寺)、宮谷檀林(現法流山 本国寺)、細草檀林(現法雲山 遠霑寺:おんでんじ)の三つの日蓮宗の檀林が作られました。
 江戸時代の大網地域は、幕府直轄領や旗本領、米津藩など複数の領主が治める領地でした。明治維新を迎え、1869年(明治2年)の版籍奉還で藩は解体され、安房・上総・下総の天領と旗本領はその地理的位置関係は問わず、まとめて宮谷(みやざく)県になり、県庁が大網白里市の法流山本国寺に置かれました。その後1871年(明治4年)には廃藩置県が行われ、木更津県になりました。
 1896年(明治29年)に房総鉄道が房総半島の太平洋側を巡る鉄道として現在の外房線の前身、房総東線の蘇我駅―大網駅間を開業し、その後、すでに市川から成東駅まで路線が引かれていた総武鉄道と接続しました。
 昭和になり太平洋戦争に突入すると、本土空襲が本格化したため、大網白里周辺には軍事施設ができ始めました。東京防空のために茂原に海軍、東金に陸軍が飛行場を建設し、大網白里市には飛行機のエンジンを作っていた日立航空機が工場を移し、現在もその戦跡が残っています。
 1972年(昭和47年)に大網駅が今の場所に移転し、複線化・電化により特急が通るようになったため、通勤圏となったことで人口が急速に増加していきました。
小西檀林跡
中村檀林、飯高檀林と並び
関東三大檀林と呼ばれた小西檀林跡
うんてんじ
細草檀林だった法雲山遠霑寺(うんてんじ)

法流山本国寺
法流山本国寺(宮谷檀林跡)
県庁跡
本国寺宮谷県庁跡だった

街のすみここちランキングで10位を獲得
 大網白里市は南関東ガス田の九十九里地区に位置し、採掘された天然ガスはパイプラインで市内の各家庭に届けられています。その埋蔵量はこのままの使用なら600年分の採取が可能だといわれるほど豊富な資源を持っています。この天然ガスは大手の電気・ガス事業者と異なり海外から輸入していないため、為替相場の影響を受けることなく安定した低価格で供給されるインフラに恵まれた街でもあります。
 千葉市・東金市そして大網白里市にまたがった季美の森は、1994年(平成6年)に欧米の高級郊外住宅をモデルとして、ゴルフ場を中心にした街づくりを行い、ゴルフをしない大人にとっても、ゴルフ場が「庭」のような身近な存在として感じられるように開発・分譲された住宅地です。
 しかし昨今は住民の高齢化が進んできたためデベロッパー、自動車メーカー、大学などが共同し、バイクと軽自動車の良いとこ取りをした超小型電気自動車の実証実験や予防医学の講座を開くなど、住民と一体になった街づくりを始めているそうです。
 一方、 2020年(令和2年)4月から8月に実施された住宅情報サイト「ライフルホームズ」が調査した「LIFULL HOME’Sのコロナ禍での借りて住みたい街ランキング(首都圏版)」の「問合わせ増加率」で大網駅が3位を獲得しました。また、大東建託株式会社賃貸未来研究所が調査した「街の住みここちランキング2020」の千葉県版「街の住みここち(自治体)ランキング 」の「静かさ治安」の因子でも10位を獲得するなど、その注目度は上がってきています。都心へのアクセスの良さと、郊外暮らしの良さの両方を持った大網白里市は注目です。
大網白里市役所
ガス事業を行っている大網白里市役所
季美の森の住宅街
個性的な家が並ぶ整備された季美の森の住宅街

(2021/6/10)
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