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ちばのたね
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ちばのたね バックナンバー(49~60)
空港のまち 芝山町
地図
はにわ道は空港に繋がる
 芝山町は千葉県の北東部に位置し下総台地のほぼ中央、成田空港に隣接し一部空港施設がある町です。元々芝山町は農業が盛んな地域でしたが、成田空港が開港された事で空港に隣接する北部は多くの工業団地や物流センターが建設されました。また、ゴルフ場の他、空港建設に関連して町からの要望で実現したのが「航空科学博物館」で、各種展示の他体験ができるフライトシミュレーターでフライト体験ができます。施設の中央棟からは空港を離着陸する飛行機を眺めることができると多くの来場者が訪れる観光スポットにもなっています。
 一方で古くから現在の芝山町付近で多くの古墳や埴輪が発見され、かつては多くの人が住んでいた場所だったことがわかります。古代人の居住地としての歴史を持つ芝山町は、「はにわの町」として知られ、埴輪のレプリカが点在している町を縦断する県道62号線沿線は別名「はにわ道」と名付けられ、町の南部には「芝山・はにわ博物館」も作られました。古代の町に新しい風を吹き込んだ成田空港はその賛否が分かれる空港建設問題は町に大きな影響を与えました。対立する住民をひとつにするため有志が立ち上がり、1982年(昭和57年)からは古代人の扮装をして様々な催し物が行われる「芝山はにわ祭」が行われるようになりました。
 現在の成田空港の大半は成田市内にあるものの、町の北部エリアは空港の一部になっており、2029年(令和11年)の完成を目指して建設が進んでいる第三滑走路の半分近くは芝山町内に作られる計画になっており、空港が占める面積はさらに拡大する計画になっています。
航空科学博物館
空港に隣接している芝山町にある航空科学博物館
はにわ道に並ぶ「埴輪」
はにわ道に並ぶ「埴輪」

遺跡の町・信仰の町そして空港の町へ
 2022年(令和4年)の時点では全国の古墳・横穴の総数は1位が兵庫で18,707ヶ所、2位が鳥取県で13,505ヶ所、3位が京都府で13,103ヶ所、4位が千葉県で12,772ヶ所と、千葉県は全国4位の「古墳県」になっています。なかでも芝山町は、町内の約7割に古代の遺跡があるとされ、200を超える古墳が存在しており、芝山公園内に作られた「芝山古墳・はにわ博物館」には、古墳や埴輪(はにわ)についての解説などが展示・解説されています。
町内にある781年(天応元年)に創建されたとされている天応山観音教寺(別名:芝山仁王尊)は、江戸時代までは成田山新勝寺と信者を二分するほど人気の寺院で、特に江戸の町火消の信仰を集めていました。しかし、20世紀初頭に成田に鉄道が引かれたことにより、残念ながら参拝客の差が生じるようになってしまいました。
高度経済成長時代に入って国際輸送における航空機の重要性が高まり、大型のジェット旅客機が増加したため、1962年(昭和37年)に当時の運輸省が国際空港の候補地の本格的な調査を開始し、1966年(昭和41年)に政府は成田に「新空港建設」の決定を下しました。
 この決定を受け建設予定地になった住民の「周辺住民の反対運動」と「新左翼勢力」が結び付き、次第に過激化していきました。その反対運動はテロ行為まで発展し、1978年(昭和53年)に開港した後も反対運動は続いたものの、その後徐々に沈静化へと進みました。
 空港が建設されることで成田・芝山町の東西方向の交通が寸断される不便を被ることになるため、空港東側地域の住民や、企業への補償として京成本線を成田空港駅から東に延線することを国が約束しました。こうして誕生した「芝山鉄道」は、2002年(平成14年)に東成田駅―芝山千代田駅間が開通しましたが、その後山武市の蓮沼海浜公園までの延伸計画の話が上がったものの、棚上げとなってしまいました。
福聚院
天應山 観音教寺 福聚院(芝山仁王尊)
芝山千代田駅
芝山鉄道芝山千代田駅

騒音に負けず空港施設の面積が更に拡大される
 成田空港は2022年度版(令和4年度版)の日本全国の空港旅客数ランキングでは、コロナ禍の中でも羽田空港に次いで2位になっています。更に国際貨物取扱量は国内で断トツ1位、世界でも4位の台北空港に次ぐ5位に位置するなど、今や日本には欠かせない存在になっています。
 成田空港の機能強化を目的に進められた第三滑走路増設の用地買収によって、芝山町の約130戸が移転となってしまうため、町の教育委員会はそれによって失われてしまう加茂、菱田東、中郷、中谷津の4地区の地域や文化をせめて映像で残そうと、現在移転前の風景や住民の営みを映像に記録する事業を進めているそうです。
 また、芝山町は成田空港を離着陸する航空機の航路の真下に位置していることから、町の7割が騒音地区に指定されています。現在工事が進められている第三滑走路は、芝山町にとってマイナスな面があるものの、更に空港関関連の施設などが増加していくと思われ、これからも空港の町、物流の町として発展していくことが想像できます。
 芝山町観光協会は「スカイパークしばやま観光ガイド」というホームページを公開し、「航空科学博物館」、飛行機の離着陸を見学することが出来る「ひこうきの丘」、「空の駅風和里しばやま」など空港にかかわる施設を紹介する等、積極的に空港にまつわる町内の観光情報を発信し、かつて芝山仁王尊に多くの人が訪れたように、空港に関係する「観光の町」として発展していくのかもしれません。
 古代の人々が住んでいた土地は有史時代を経て現在の町に変わっていったように、町は時代に求められる形で変化を続けてきました。成田空港もその時代に求められて作られ、旅客数で国内2位、貨物取扱い数では日本一の空港となった成田空港を支えている芝山町は、デメリットをメリットと変え、「空港のまち」として発展していくでしょう。
物流センター
(仮)物流センター
ひこうきの丘
ひこうきの丘

スカイパーク芝山ホームぺージ
スカイパーク芝山ホームぺージ
空の駅 風和里しばやま
空の駅 風和里しばやま

(2024/5/10)
鋸南町 捕鯨のまち
地図
縄文時代から食されていた「鯨」
 日本における捕鯨の歴史は、鯨類捕獲や解体に使われたとみられる「石銛(いしもり)」や「石器」が長崎県の「つぐめの鼻」遺跡において出土した事から今から約6,000年前の縄文時代早期には鯨類を利用していた事がわかりました。
 9世紀にはノルウェーやフランス、スペインなどで捕鯨が開始され、日本では12世紀頃から「手銛(てもり)」を使った捕鯨が始まり、1606年(慶長11年)には現在の和歌山県で「鯨組」による組織的な捕鯨が始まりました。
 19世紀から20世紀半ばにかけては、アメリカやオーストラリア、ノルウェーでは「鯨油」を灯火燃料や機械油として使うため捕鯨が行われていましたが、燃料が石油に置き換わった事で需要は減少し、捕鯨で採算をとる事が難しくなっていきました。
 需要の減少と共に鯨の保護団体の声も高まり、1946年(昭和21年)には「国際捕鯨取締条約」が締結されたのをかわきりに商業捕鯨禁止の声が高まり、1986年(昭和61年)の南極海での日本の商業捕鯨は最後になりました。その後は「科学調査目的の捕鯨」となり、捕獲されたわずかな量の鯨が、調査後「食用」として流通するのみになりました。
 日本ではそれまでは全国各地で捕鯨が行われており、鯨は庶民の食べ物として広く食され、ステーキ、ベーコン、しぐれ煮など多彩な料理に使われていました。また、高度経済成長の時代には、子供達の貴重なタンパク源として学校給食のメニューとして定着しており、なかでも「くじら竜田揚げ」は人気メニューでした。
現在販売されている「くじらのたれ」は、ツチクジラの肉を干した物で、タレに付け込んで干した事が名前の由来といわれ、農林水産省の「うちの郷土料理~次世代に伝えたい大切な味」にもなっています。
千葉県では捕鯨基地がある和田町が「捕鯨の町」として知られ、鯨文化が消滅していく鯨料理を憂い「和田浦くじら食文化研究会・おかみさんの会」が新しいレシピの開発に取り組んでいますが、千葉県で本格的な捕鯨が始まったのは内房の鋸南町でした。
和田町の鯨資料館横にはシロナガスクジラのレプリカがある
和田町の鯨資料館横にはシロナガスクジラのレプリカがある
調査捕鯨で捕獲された鯨は鯨のタレなどに加工される
調査捕鯨で捕獲された鯨は鯨のタレなどに加工される

内房の勝山で千葉県の捕鯨が本格的に始まる
 江戸時代初め房総半島南部を治めていた安房国館山藩の2代藩主だった「里見忠義」が、伊勢神宮の神職「榎倉氏」を通して伊勢神宮に「鯨の尾の皮」を献上していた記録があり、当時房総で沿岸捕鯨が行われていた事を示す最も古い記録がありました。一方で鎌倉時代の13世紀を境に多くの鯨の骨が使われている事と、日蓮の書状に「鎌倉では房総のネズミイルカという大魚の肉から油を絞っている」という記述がある事から、13世紀から15世紀頃までには、房総でも沿岸捕鯨が行われていた可能性があるのだそうです。
 東京湾の入り口、鋸南町付近の海底には水深500メートル以上の「海底谷」があります。そこには荒川や多摩川などから運ばれる豊富な栄養分が流れ込み、多くの魚が生息しているため、鯨が黒潮に乗って太平洋から餌を求めてやって来る鯨の通り道「鯨道」と呼ばれていました。従って鯨が「海底谷」に集まって来る事から遠洋へ向かわなくても捕鯨が可能な条件が揃っていました。
 江戸時代前期に紀州太地の捕鯨船が遭難・漂流して勝山に漂着した事で、乗組員が勝山の漁民に鯨漁の技術を伝えたといわれ、その技術を使って鋸南町の勝山漁港で房総近海に生息するツチクジラの捕獲が始まったそうです。  「海底谷」に集まって来る「ツチクジラ」を捕獲するため、勝山の浜名主の「醍醐定明」は1655年~58年(明暦元年~3年)頃から1704年(宝永元年)にかけて当時の「勝山村」と「岩井袋」で合わせて「鯨組」を組織し、企業化して「元締め」になりました。鯨組は57艘の鯨船を集結して銛で突いて捕獲する「突取法」による捕鯨を始めました。
 勝山漁港にある「大黒山」には常に見張り番が待機し、大房岬と洲崎に配置された鯨を探す「山見方」が鯨を発見すると、「のろし」や「ホラ貝」で大黒山の見張り番に知らせ、手旗信号で港に待機している漁船に指示を出していたそうです。
 他の地域で行われていた捕鯨は網で捕獲する「網取り法」だったのに対して、房総は「銛」で突いて捕獲する「突取法」を採用していたのが特徴で、「ツチクジラ」が深くまで潜るので網による捕獲が適していなかったとされています。
 その後醍醐一族は12代に渡って「新兵衛」を名乗るようになり、勝山は明治初期までのおよそ200年もの間、勝山は「捕鯨基地」として活用されていましたが、その後「ツチクジラ」は「海底谷」にやってこなくなり、勝山の捕鯨は衰退していきました。
 この「鯨組」によって千葉で盛んに行われるようになった捕鯨は、1887年(明治20年)前後になると、関澤明清や醍醐徳太郎たちの努力で、捕鯨砲による洋式捕鯨を導入、1898年(明治31年)には遠洋漁業株式会社が設立され、操業規模は拡大しました。しかし、1909年(明治42年)に鯨取締規則が制定され、漁獲高等に制限が加えられると、沿岸捕鯨を中心に活動が行われることになり、東海漁業株式会社(1906年~明治39年に房総遠洋漁業株式会社を改称)の拠点があった館山や旧白浜町乙浜へ、その他に旧千倉町七浦が、房総における沿岸捕鯨の拠点基地となりました。その後、房総の沿岸捕鯨の伝統は、1948年(昭和23年)に旧和田町和田浦に設立された外房捕鯨株式会社に受け継がれています。
大黒山
大黒山
竜島付近には供養のために建てられた「鯨塚」がある
竜島付近には供養のために建てられた「鯨塚」がある

捕鯨の町から観光の町へ
 かつては日本各地で盛んに行われていた捕鯨は、今では小型沿岸捕鯨基地が、北海道の網走、宮城県の鮎川、和歌山県の太地、そして南房総市の和田町の4つのみになってしまいました。かつて大型沿岸捕鯨基地としてマッコウクジラなどの大型の鯨が水揚げされていた和田町は、国際捕鯨委員会によって商業目的の捕鯨が停止する事が決まると、大型沿岸捕鯨は撤退し「ツチクジラ」のような小型の鯨のみを捕獲するようになりました。また、千葉県初の捕鯨の町となった鋸南町は、町の「イメージキャラクター」のひとつに「醍醐新兵衛」をモデルにした「しんべえくん」を採用する等、「歴史」としてその姿を残しています。
2019年(令和元年)に千葉県を襲った台風15号によって各地に大きな被害をもたらし、かつて捕鯨で栄えた鋸南町でも大きな被害を受け、それによって町を離れる人も増えたと聞いています。
 一方鋸南町は「見返り美人」で有名な菱川師宣の生誕の地であり、鋸山で産出される「房州石」、江戸へと運ばれた「水仙」などの他、今では14,000本も植えられている早咲きの「河津桜」は、源頼朝に縁が深い事から名付けられた「頼朝桜」、今は外国人観光客にも知られている鋸山の「地獄覗き」、捕れたての地魚が売りの漁協直営の食事処「ばんや」、東京湾の豊富な栄養を蓄えた高級魚「黄金アジ」など様々な観光資源を抱えています。
 また、2014年(平成26年)に廃校になった「保田小学校」は、2015年(平成27年)12月に「道の駅保田小学校」として新たな施設としてオープンしました。廃校を有効活用したモデルケースとして注目を集め、かつての「懐かしい給食」を食べる事ができると様々なメディアでも紹介されてきました。廃校になった小学校の面影を残した「保田小学校」のイタリアンレストランでは「クジラ PIZZA」が、カフェでは「鯨カツバーガー」等「捕鯨の町鋸南」を象徴するメニューを提供する等の取り組みも行われました。
 2023年(令和5年)に「じゃらん」が調査した「全国道の駅満足度ランキング」では、「道の駅 保田小学校」が10位を獲得するなど大人気になっています。
 更にかつて旧保田小学校に隣接していた「旧鋸南幼稚園跡」は2023年(令和5年)10月に「道の駅保田小附属ようちえん」としてオープンしました。「ようちえん」ではオリジナルの商品が販売されている他、新たに食堂やカフェなどもオープンし、人気になっています。
 かつて「捕鯨の町」だった鋸南町は、人気の道の駅「保田小学校」を核に観光都市としてより知られていく町へと変わっていくでしょう。
菱川師宣記念館
菱川師宣記念館
町内には新たな名物「アジフライ」ののぼり旗がはためく
町内には新たな名物「アジフライ」ののぼり旗がはためく

道の駅保田小学校
道の駅保田小学校
新たにオープンした「道の駅保田附属ようちえん」
新たにオープンした「道の駅保田附属ようちえん」

(2024/4/10)
リゾートタウン 御宿町
地図
千葉県のリゾート御宿
 「リゾート(Resort)」とは避暑・避寒・行楽などのための土地のことで、行楽や保養、観光が地元の文化や経済の主要な要素となっている都市は「リゾート都市」または「リゾートタウン(Resort town)」と呼びます。「再び」を意味する"re" と、フランス語で「出かける」という意味を持つ "sortir" の略である "sort" が合わさった単語で、「何度も通う場所」という意味が転じて行楽地となったそうです。
 日本におけるリゾートの定義は、バブル期の1987年(昭和62年)に制定されたリゾート法で「国民が多様な余暇活動を楽しめる場」とされています。この法律の適用を実際に受けたのが、ゴルフ場、スキー場、マリーナ(ヨットハーバー)、リゾートホテルといった大型施設で、他にもプール、スパ、更に日本独自の拡大解釈ではゲームセンターなどがある単体の総合施設もリゾート施設と呼ばれています。リゾートは観光地とは異なり、景勝地や名勝などその地域特有の物に必ずしも依存しているわけでなく、静養に適した気候や環境、開発に適した土壌などで決まることもあるようです。
 千葉県は総合的なリゾート地域の整備を進めるため、「房総リゾート地域整備構想」を策定し、1989年(平成元年)4月に国の同意を受けています。対象となる地域は、富津から九十九里を経て銚子に至る地域の他に、全体で11の地区が重点整備地区になっています。この中のひとつが御宿町で、臨海丘陵部における望洋型のリゾート開発を特色としています。
住宅
浦市に建てられているリゾート感満載の住宅
鴨川
海岸線に多くのホテルが建ち並ぶ鴨川

サンライズ九十九里
全室オーシャンビューのサンライズ九十九里
御宿海岸
海岸線にリゾートマンションやホテルが立ち並ぶ御宿海岸

「月の砂漠」の町
 「御宿町」という名前は、鎌倉幕府の執権で風光明媚な景色を好んだ「北条時頼」が訪れた際に詠んだ歌にあった「御宿」がそのまま地名になったといわれ、「歌」に詠まれているように漁業が行われる風光明媚な所でした。
 沖合漁業が盛んな御宿は漁業の町としても知られ、岩田漁港と御宿漁港の二つの漁港がありました。また江戸時代から海女によるアワビ漁が盛んで、三重県の志摩地方、石川県舳倉島と並び「日本の三大尼地帯」のひとつといわれていました。
 そんな御宿が幕府をも動かすことになったのが、1609年(慶長14年)メキシコに向けて航海中だったスペインの帆船「サン・フランシスコ号」が暴風雨によって御宿沖で座礁して御宿の海岸に漂着したことでした。村人が総出で「サン・フランシスコ号」に乗船していたスペイン領フィリピンの臨時総督だった「ドン・ロドリゴ」をはじめ317名の乗組員を救出し、着物や食料も提供しました。
 救出劇の数日後には、当時の大多喜城主「本多忠朝」が「ドン・ロドリゴ」らを城に招いて大いに歓待しました。その後彼らは将軍「徳川秀忠」や「徳川家康」らとも会見し、1610年(慶長15年)に「三浦按針」が建造した帆船「サン・ブエナ・ベントゥーラ」でメキシコに送り届けられました。
 この救難活動がきっかけでスペインとメキシコとの三国交流が始まり、1928年(昭和3年)には「日西墨三国交通発祥記念之碑」が建てられ、1978年(昭和53年)にはリゾート地として有名なメキシコの「アカプルコ市」、更に2013年(平成25年)にはメキシコの「テカマチャルコ市」と御宿町は姉妹都市になりました。
 「御宿」の名前が知られるようになったもう一つの出来事は、「月の砂漠」のモチーフになった場所ということでした。風光明媚で冬は比較的温暖で夏は暑くなり過ぎないことから「療養生活」を送る場所とされていて、大正時代に「結核の療養」を目的に画家で詩人の「加藤まさを」が数年間、御宿で夏を過ごしていました。加藤はその時にこの御宿海岸の風景から童謡「月の砂漠」を作詞したとされ、その後晩年も御宿で過ごしました。
 童謡と有名になった「月の砂漠」のモチーフは御宿町だったことから1990年(平成2年)には「月の砂漠記念館」が建てられ、海岸には2頭のラクダに乗った王子と姫をあしらった像が建てられ、今では町の観光名所になっています。
記念之碑
西墨三国交通発祥記念之碑
エビアミーゴ
御宿のキャラクター「エビアミーゴ」

「月の砂漠」の像
「月の砂漠」の像
月の砂漠記念館
月の砂漠記念館

「離巌流検知」という世界初の取り組にチャレンジ
 御宿町のリゾート地域の中心は、1974年(昭和49年)に発足した千葉県と西武グループの官民共同の「千葉県夷隅郡地区開発事業」で作られた「南房総・御宿西武グリーンタウン」で、観光レクリエーションと定住型分譲地をベースに建設されました。
 海岸から1.2kmほどの海を臨む高台に位置し、現在約660世帯は定住しています。グリーンタウン内には居住者のための多目的スペースになる集会所や夷隅郡市広域消防署の分署までも設置され、「おんじゅく認定こども園」や汚水処理場などの施設があるなど安心して暮らせるように充実した街が出来ています。
 また、観光では3月には勝浦市の「かつうらビッグひな祭り」と共に「おんじゅくまちかどつるし雛めぐり」が開催され、多くの観光客を集めるイベントになっています。
 太平洋に面したサーフスポットとしても人気で、海岸線に立ち並ぶリゾート風ホテル、町内のゴルフ場にもリゾートホテル、更にキャンプ場など町内には数多くの宿泊施設が整い、千葉県内でも有数のリゾートタウンになっています。
  しかし、一番の売りものになる「海」は「離巌流」という海岸の波打ち際から沖合に向かってできる強い流れが発生する地域で、その流れは毎秒2mにも達する場合があるほどの速さで、御宿町で発生する海難事故の約7割が「離巌流」が起因になっているということです。
 リゾートタウンを推進している御宿町は、遊泳客にとって安心・安全な海辺を実現しようと先進的なITを活用した「離巌流」の検知システムの実証という世界初のプロジェクトにも取り組んでいます。この研究が進み御宿町で発生する海難事故を防止することで、観光客にも安心して御宿の海を楽しんでもらえるようになるかもしれません。
 このように風光明媚で温暖、更に安心して海を楽しめるリゾートタウンとして、町を訪れる観光客も安心して過ごせる、姉妹都市にも負けない町になっていくでしょう。
南房総・御宿西武グリーンタウン
太平洋を望む「南房総・御宿西武グリーンタウン」
グリーンタウン
リゾート感のある「グリーンタウン」の街並み

サーファー
海岸には1年を通して見かけるサーファー
つるし雛
「おんじゅくまちかどつるし雛めぐり」のつるし雛

(2024/3/8)
睦沢町 スマートウェルネスシティ
地図
スマートウェルネスシティを目指す睦沢町
 公益財団法人生命保険文化センターの調査によると、日本の人口減少は2011年(平成23年)に始まり、以降人口の減少が予測されています。「日本の将来推計人口」では、2070年には64歳の人口が全体の約50%、65歳以上の人口は40%にもなるといわれています。少子高齢化になれば、労働人口は加速度的に減少し、国内市場の縮小で投資先としての日本の魅力は低下し、労働力不足解消のための長時間労働が深刻化することが予想され、更に少子化が進むといわれています。また社会保障制度にも大きな影響を与え、社会保障に関する給付と負担の間のアンバランスはさらに進むと考えられます。
 少子化対策が行われている一方、増えていく高齢者達が日々元気に暮らしていける社会を実現するため、様々な取り組みが行われています。その中のひとつに「スマートウェルネスシティ首長研究会」があります。「スマートウェルネスシティ」とは、高齢になっても生きがいを感じ「健康」で「幸せ」な暮らしを目指す町のことで、このような問題を自治体自らが克服するため、自治体の首長達が集まった研究会が「スマートウェルネスシティ首長研究会」です。参加している市町村は2023年12月現在71にのぼり、千葉県からは睦沢町、白子町、市原市の三つの自治体が参加しています。
 睦沢町の取り組みは豊富に産出される天然ガスを利用したもので、町が主な株主として2016年(平成28年)6月に「株式会社CHIBAむつざわエナジー」を設立し、町内で消費されるエネルギー供給システムを構築し、環境にやさしいまちづくりを目指しています。また、「株式会社CHIBAむつざわエナジー」は天然ガスを使った「ガスエンジン発電機」で電力を得る仕組みを作りました。このことによって防災能力の向上とエネルギーの地産地消を目的とした分散型エネルギーシステムが成立し、町が推進する地方版総合戦略の重点プロジェクとして賃貸住宅「むつざわスマートウェルネスタウン」にエネルギーを供給するシステムを完成させました。このシステムは2019年(令和元年)9月にオープンした「むつざわスマートウェルネスタウン」に隣接して作られた「道の駅むつざわ」と共に拠点形成事業になっています。
瑞沢川に天然ガス
町内を流れる瑞沢川に天然ガスが湧きだしている
CHIBAむつざわエナジー
睦沢町役場内にある株式会社CHIBAむつざわエナジー

つどいの里むつざわ
道の駅「つどいの里むつざわ」
むつざわスマートウェルネスタウン
むつざわスマートウェルネスタウン

南関東ガス田のメタンガスがスマートウェルネスシティの鍵
 「南関東ガス田」は、千葉県をはじめ茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県にまたがって存在する天然ガスの「ガス田」で、その埋蔵量は最近の平均的な年間生産量の800年分が埋蔵されているといわれています。「南関東ガス田」の天然ガスは地下水に溶け込んだ状態で存在し、千葉県の埋蔵量は全国第2位に位置しています。
 この地下水は塩分を含んだ太古の海水で「かん水」と呼ばれ、九十九里から大多喜にかけた地域は、通常の海水の約2,000倍ものヨウ素が含まれています。また、日本のヨウ素はチリに次ぐ世界第2位の産出国で、千葉県はその80%を占める「日本一のヨウ素産出県」で、その量は世界の約4分の1にあたります。
 この天然ガスは、地中に埋もれた有機物が微生物によって分解されたメタンガスで、氷河期が始まり人類が出現した頃の「第4紀」と呼ばれる時代に、砂や泥と一緒に海底に堆積した動植物が分解されて天然ガスになり、長い年月をかけて地層中の「かん水」に溶けて留まって濃度が増していったものと考えられています。一酸化炭素や不純物をほとんど含まないメタンガス99%なので、安全性と経済性に優れ、このガスを供給するため、総延長距離約600kmのパイプラインが千葉県内に張りめぐらされ、都市ガスとして利用されています。
 睦沢町は天然ガスが豊富にあるものの、電力に関しては地域内に大規模発電所も無く、地域外に依存していました。そこで睦沢町は天然ガスを利用した発電で地域内に電力を供給する「マイクログリッド」を実現したいと考え着手しました。既存の道の駅をリニューアルして温浴施設を併設し、隣接する土地に天然ガスで発電した電力を供給する33戸の公営住宅を作ったのが「むつざわスマートウェルネスタウン形成事業」です。
 「道の駅むつざわ」に作られた「むつざわ温泉つどいの湯」は、天然ガスが採れる「かん水」を温泉として利用したもので、疲労回復、健康増進などの効果が期待される温泉として人気です。
ガスタンク
睦沢町の天然ガスを溜めるガスタンク
むつざわ温泉つどいの湯
道の駅の中にある「むつざわ温泉つどいの湯」

災害時に成果を上げた自然エネルギー
 「株式会社CHIBAむつざわエナジー」は、主に地元で産出される天然ガスと太陽光によって発電されたエネルギーを調達し、マイクログリッドを経由し賃貸住宅や道の駅に販売するようになっているので、電力会社の電力が停電した場合でも自立した電力供給が可能になっています。
 2019年(令和元年)9月5日に関東地方を襲った台風15号は、関東地方に上陸したものの中では観測史上最強クラスの勢力で、千葉県を中心に甚大な被害を出しました。このため千葉県内各地では大規模な停電が発生しましたが、スマートウェルネスタウンは一時的に停電したものの、電線の地中化も行われており、送電線にはほとんど被害が無い事を確認し、4日後の9月9日午前9時頃にはガスエンジン発電機を立ち上げました。住宅及び道の駅の重要設備に送電を開始し、その後発電機の排熱で水道水を加温して温水シャワーの提供を可能にしました。この台風で睦沢町が目指した「防災拠点」としての機能を持つ道の駅がその役割を果たすことを実証し、話題になりました。
 このように災害に強い街作りを始めた睦沢町では新たな動きが始まっています。2021年(令和3年)道の駅の向かいにある「睦沢郵便局」は、睦沢町に「新しい特産品」を作りたいと、日本郵政株式会社初の「敷地内に干し芋工場とさつまいもの保管庫がある郵便局」として話題を集めています。工場で作った干し芋は「むつぼしいも」として郵便局の窓口や道の駅でも販売されている他、郵便局のカタログ通販でも販売されています。このことが話題になりテレビでも取り上げられるなどして人気商品になっています。この干し芋を作るための蒸し工程でも睦沢町の天然ガスが利用されるなど「スマートウェルネスシティ」の副産物も誕生しました。これからも睦沢町に新たな取り組みが生まれてくることに期待しましょう。
つどいの里むつざわ
かつての睦沢町の道の駅「つどいの里むつざわ」
ガスエンジン発電機
道の駅むつざわの裏に設置されているガスエンジン発電機

干し芋工場
道の駅の向かいには睦沢郵便局の干し芋工場
郵便局の干し芋
道の駅でも売られている郵便局の干し芋

(2024/2/9)
長柄町(ながらまち) 市津湖
地図
千葉の水がめとして機能する「市津湖」
 昔は房総半島でも井戸を掘って水を確保していましたが、県東部の九十九里地域や南部の地域の井戸の水量は不安定で、そこで生活している人々は苦労をしていました。また、九十九里地域は砂地で水が溜まる地層が無く、井戸を掘っても深い所は海水になってしまいました。一方、南房総地域は岩の地層で地下水を手に入れることが難しい状況でした。更に、東京湾に沿った西側は比較的安定して井戸水を得ることができたものの、太平洋戦争後にできた京葉工業地帯でも安定した大量の工業用水が必要でした。
 47都道府県で一番標高が低い千葉県は、生活用水や工業用水などの要望を満たせる水源が無いため、利根川からそれらの地域に水を供給することになり、南部の大多喜町までの約100kmの距離になる「房総導水路」の建設が行われました。
 「房総導水路」には東金市と長柄町の2か所にダムが作られ、長柄町北部に作られた「長柄ダム」によって出来た人造湖は「市津湖」という名前が付けられました。その由来は、現在は市原市に統合された「旧市津町」と接する所があったため、その名が付いたということです。
 1985年(昭和60年)に完成した「市津湖」は、コンクリート製ではなく土を盛り上げて作った「アースダム」形式で、高さ52m、長さ250mある湖の満水時には、総貯水量は1,000万㎥になり、水面は海抜75.1mにも達するため、このタイプのダムの中では高さが国内4位に位置する最大級のダムです。ダムの周辺は安全のためフェンスで囲われ、立ち入り禁止になっていますが、それを乗り越えてバス釣りを楽しむ人達もいるようです。
 長柄湖に蓄えられた水は水道用水として千葉市から君津市に至る地域、九十九里沿岸地域、八日市場地域、茂原地域などへ供給されている他、京葉工業地帯の南部へも供給される重要な役割を果たしています。
房総導水路
房総導水路
東金ダム
東金ダム

長柄ダム
東金ダムから送られた水が集まる長柄ダム
人造湖「市津湖」
長柄ダムによってできた人造湖「市津湖」

長柄町へ観光客を集める施設たち
 「市津湖」の周囲には桜の木が約3,200本植えられ、桜の季節には「ながらさくらマルシェ」も開催され周辺は賑わいを見せ、夜はライトアップされます。また、秋には紅葉に染まった山々を眺めながら散策する事も出来るなど、春と秋には観光客を集めています。
 桜や紅葉の季節には観光客を集めている「市津湖」ですが、元々観光目的で作られたものではないため、四季を通して多くの観光客を集められるような観光資源にはなっていません。一方、町内の施設では地元産の新鮮な野菜を買うことができる「道の駅ながら」の他、千葉県内に二つのゴルフ場とリゾート施設の「リソルの森」など大型の施設は多くの観光客を集めていますが、ゴルフやリゾートなど特定の利用に限られた施設になっています。
 他に日帰り客も含め不特定多数に向けた観光施設としては、入場無料で牛馬を見ることができる「秋元牧場」、秋元牧場に隣接した「自家栽培の蕎麦」の食事、地元農産物も購入できる「太陽ファーム」などの新たなスポットが観光客を集めています。また、町内には千葉県の三大ラーメンのひとつ「アリランラーメン」を提供する「八平の食堂」があり、休日には開店前から多くの人が行列を作っています。
 コロナ禍ではさまざまな施設の休業や制限がかかり、催し物は中止されるなど観光客を迎えることが難しかった時期はありましたが、多くのランナーを集めて開催されていた第60回を迎える「長柄町一周駅伝大会」も2023年(令和5年)12月17日に復活するなど、長柄町の観光もようやく正常化し始めています。
駅ながら
地元野菜の販売で人気の道の駅ながら
秋元牧場
観光牧場になっている秋元牧場

長柄太陽ファーム
長柄太陽ファーム
八平の食堂
「アリランラーメン」で有名な「八平の食堂」

千葉県の水がめ「市津湖」
 長柄町の生活圏は隣接する茂原市になっていて、町内には特に繁華街のようなエリアは存在せず、「市津湖」の周辺に町の施設が集まっています。湖の周辺には4.4kmの周遊道が作られ、「杉の子」「竹の子」「どんぐりの子」と名付けられた公園「遊びのステーション」の他、野球場も設けられています。また湖に隣接した「長柄町都市農村交流センターワクワクながら」にはコテージやバーベキューハウス、町営プールもあり、「市津湖」を訪れる人たちに憩いの場を提供しています。
 民間の施設では、「市津湖」に隣接した広場に長柄町産の大豆と米麹だけを使った無添加の「長生き味噌」や地元産の野菜などを使ったメニューを提供している「太陽ファームキッチン&カフェ」の他、「長柄町農産物加工施設」では「長生き味噌」を製造しています。
 この場所には他に珍しい施設も作られています。それはショッピングモールとしての形をした、イベント会場やローケーション撮影用のスタジオとして利用されている「ロングウッドステーション」です。元々は2004年(平成16年)に「アウトレットコンサート長柄」という名前のアウトレットモールが作られ、当初は話題になったものの「高級ブランド店」や「有名スポーツメーカー」などの出店はありませんでした。最寄りの駅やインターチェンジも無くアクセスが悪かったことから、次第に経営が悪化し親会社の倒産と共に閉鎖されてしまいました。その後経営が変わって「現在のロングウッドステーション」として活用されています。
 「市津湖」は観光地としてたくさんの人々が訪れる場所ではありませんが、県内各地に水を供給する重要な役割を果たしている湖です。
ワクワクながら
長柄町都市農村交流センターワクワクながら
キッチン&カフェ
太陽ファームキッチン&カフェ

加工施設
長柄町農産物加工施設
ロングウッドステーション
ロングウッドステーション

(2024/1/10)
神崎町(こうざきまち) 発酵の里
地図
「発酵」をテーマにした町
 酒、みりん、味噌、醤油など発酵食品は、古くから日本人が毎日食べてきたものでしたが「食の欧米化」と共に毎日口にする食品ではなくなってしまいました。しかしコロナ禍の影響もあり、腸内環境を整える事が免疫力アップにつながると「腸活」ブームが到来し、腸活に役立つ「発酵食品」に関心が高まっています。
 ネットリサーチ会社「マイボイスコム社」が2021年(令和3年)の「発酵食品」に関して調査したところ、「健康のために意識して摂取している発酵食品」の1位は「納豆」で59.8%、2位は「ヨーグルト」で53.7%、3位は「みそ」で32.1%、4位は「チーズ」で27.0%、5位は「酢」で19.5%でした。調査結果を女性だけで見てみると、「みそ」「ヨーグルト」「チーズ」の比率が高い事がわかりました。
 また、普段飲食している発酵食品の中で最も多かったのは日本人の食事に定着している「みそ」と「しょうゆ」で各90%弱、次いで「納豆」「ヨーグルト」「チーズ」が各70%台でした。一方女性は「塩こうじ」「豆板醤」「酢」「本みりん」など調味料や、「甘酒」「紅茶」「ヨーグルト」「チーズ」の数が多いのに対し、男性は「ビール」の比率が高くなっていました。
 そんな時流に追従したわけではありませんが、神崎町は「発酵の里」として町民と町役場が共同して「発酵」を前面に押し出した「町おこし」に取り組んでいます。また2015年(平成27年)に町政60周年記念として神崎町が作成した神崎町町政要覧は、「神崎発酵ものがたり」と題し酒蔵をはじめ、醤油、味噌などの店舗を紹介するなど「発酵」をキーにした発信が行われています。
神崎発酵ものがたり
60周年で発行された神崎発酵ものがたり      
イラストマップで発酵に関わる店舗を紹介している
「発酵の里こうざき」を商標登録する
 江戸時代には利根川が物流の大動脈として機能し、100万人ともいわれている世界一の人口を抱えた江戸に食糧を供給していました。利根川河岸地域には河岸(かし)ができ、物流の中継地として機能し、江戸に向けた様々な物も作られるようになり、なかでも今も日本一になっている醤油をはじめ、味噌、酒などの発酵食品が盛んに作られていました。
 神崎町も「発酵食品」を作ってきた町で、酒どころ神戸の「灘」になぞらえ、かつては「関東灘」と呼ばれていたそうで、利根川河岸という肥沃な大地で米や大豆が生産され、半径500mの範囲に7軒の酒蔵や味噌蔵、醤油蔵が立ち並ぶ醸造の街として栄えていました。
 明治時代に入ると物流の中心が水運から鉄道に移った事で、神崎町もその影響を受けて醸造業も衰退し、千葉県でいちばん小さな町、そして人口が少ない町となって、今では酒蔵は2社、味噌蔵・醤油蔵はそれぞれ1社と少なくなったものの、発酵産業は今でも残っていました。
 人口減や高齢化などで活気がなくなっていた神崎町は、以前から発酵食品の効能に注目していた酒蔵2軒と有機農業に取り組んでいた農家らが集まって、観光客の呼び込む事で、街の活性化図ろうと「発酵の里」作りに取り組む事になりました。更にそれまで寺田本家、鍋店(なべたな)の2軒の酒蔵が新酒の季節に開催していたイベントを同時に開催しようという事になり「発酵の里協議会」が結成され、「発酵文化」をキーワードに官民一体化の町おこしが始まりました。
 2009年(平成21年)からは酒蔵2社を中心に町ぐるみのイベントとして「発酵の里こうざき酒蔵まつり」として開催されるようになり、6,000人あまりの人口の町にその8倍にあたる5万人が訪れるまでになりました。
 今では「発酵の里こうざき酒蔵まつり」は多くの農産物や、酒・みそをはじめとした発酵文化を広くアピールし、町の商工・観光振興を目的に開催されています。「発酵の里こうざき酒蔵まつり」では2軒の酒蔵を中心に酒蔵周辺1kmを歩行者天国にして、発酵食品や地元農産物などを販売する店舗や地元商店なども参加し、町をあげての祭りとして賑わいを見せています。更に町は2013年(平成25年)に「発酵の里こうざき」の商標を登録もしています。
寺田本家
寺田本家
神崎東蔵
鍋店 神崎東蔵

「発酵」が街を活性化する
 町は西端を通る「首都圏中央連絡自動車道」の開通に合わせて神崎インターチェンジに隣接した場所に2015年(平成27年)に活性化の活動拠点となる施設「道の駅 発酵の里こうざき」をオープンしました。この道の駅は地元産の発酵食品をはじめ、全国の発酵食品を取り寄せ日本初の「発酵」をテーマにした道の駅になりました。
 発酵の里を支える重要な存在となっている農家は、農薬や化学肥料に頼らない米や大豆を生産し、酒蔵に米を提供するだけでなく、安全でおいしい農作物を消費者に直接届ける活動をしています。また、ふるさと納税でも米、さつまいも、れんこんなどの農産物の他、酒をはじめとした発酵食品、発酵化粧品などが提供されています。
 農業は2019年(令和元年)から「スマート農業技術の実証プロジェクト」が行われ、GPSを使った無人トラクタやドローンの活用など農業において最先端の取り組みの実証実験が行われています。
 このように発酵文化を支える農業の取り組みも始まっている他、消費者側に対する働きかけも行っています。生産者と消費者との信頼関係を築くため、田植えや稲刈りなどの農業体験イベントや、収穫した野菜を小学校の給食で食べてもらうなどの「食育」活動の推進、首都圏で開催されるナチュラルマーケットへ出店する等、幅広い活動も続けています。
 発酵に関する消費者への働きかけは、2020年(令和2年)には神崎町が「発酵定食スタンプラリー」を始めました。「発酵定食スタンプラリー」は参加飲食店の対象メニューを飲食してスタンプを集めると、景品がもらえるという仕組みで町内の飲食店の活性化をはかっています。また、町が発行する「発酵の里カレンダー」に使う写真を広く一般から募集する取り組みや2022年(令和4年)5月には、中学生以上はハーフマラソン又は10km、小学生から大人は3kmを選んで走る事が出来る「第1回神崎発酵マラソン2020」も開催し、翌2023年(令和5年)5月には第2回も開催されるなど、新たなイベントも始めています。
 このように、「発酵」というひとつのテーマをキーにして様々な展開を進める神崎町の取り組みとその結果に注目していきたいと思います。
発酵市場
全国の発酵食品を販売する「発酵市場」
販売されている発酵市場
発酵市場には全国から集めた発酵食品が販売されている

オリゼ
発酵メニューを提供する併設のレストラン「オリゼ」
はっこう茶寮
情報発信とカフェを兼ねた「はっこう茶寮」

(2023/12/8)
千葉市(ちばし)
地図
千葉県の県庁所在地
 千葉市は全国に20ある政令指定都市のひとつであり、千葉県で唯一の政令指定都市に指定され、かつ県庁所在地になっています。臨海部と河川の下流領域に該当する地区は関東平野の平地になっており、内陸部は下総台地の台地になっています。また、業務核都市、国際戦略特区、構造改善特区、都市再生特別地区、国際会議観光都市、保健所政令市、グローバルMICE都市の7つの特区に指定されています。
 都市化の進展で農地は減少していますが、農業は近郊型農業が中心です。落花生やニンジンなど畑作が中心で、果樹の栽培、酪農なども行われています。
 工業は京葉工業地帯の一角に含まれる臨海部を中心に食品や金属加工関連の事業所が多く、また北部地域は鉄鋼加工や機械工業が多くなっています。
 商業はかつて千葉駅周辺が中心になっていましたが、幕張新都心や蘇我副都心部に大型商業施設が相次いでオープンしたことでその中心が移行しています。
 鉄道アクセスは、臨海部をJR東日本の京葉線が縦断し6駅があります。京葉線に並行して総武線も縦断し6駅が、更に千葉駅からは総武本線が市を横断しています。千葉駅からは外房線が分岐し、蘇我駅で京葉線、外房線が合流。そこから外房線と内房線が分岐し、内房線は浜野駅の1駅、外房線は3駅が市内にあります。私鉄は京成千葉線がJR戦に並行して縦断し9駅があり、千葉中央駅からは京成千原線が並行して通っており、4駅があります。また、2001年(平成13年)には世界最長の懸垂式モノレールとしてギネス世界記録に認定された千葉都市モノレールがあります。
 高速道路は東関東自動車道が市を横断しており、市内には湾岸千葉インターチェンジ、宮野木インターチェンジ、千葉北インターチェンジの3つのインターチェンジがあります。また、有料道路の京葉道路が市を縦断しており、幕張インターチェンジ、武石インターチェンジ、宮野木インターチェンジ、貝塚インターチェンジ、松が丘インターチェンジ、蘇我インターチェンジの6つのインターチェンジがあります。国道は14号、16号、51号、126号、357号が複雑に絡み合いながら通っており、県内で最も国道が通っている市になっています。
ショッピングセンター
商業地域となりつつある大規模ショッピングセンター
モノレール
ギネスブックに載った懸垂型モノレール

京葉工業地帯
臨海部に広がる京葉工業地帯
ウッドデッキ
人気の稲毛海浜公園の海へ延びるウッドデッキ

千葉氏の本拠地千葉県
 若葉区の桜木には世界で最大規模といわれる縄文時代中期の貝塚と集落の跡「加曾利貝塚」があることから、古代より千葉市のエリアには人が暮らしていた地域であるといえます。また、日本書紀の中には古代の官職である「千葉国造」が登場していることから、645年(大化元年)の「大化の改新」以前から「国造」の官職が置かれていた可能性が高く、701年(大宝元年)に作られた「大宝律令」成立後には「下総国千葉郡」が成立していました。
 平安時代になると、「千葉常重」は1126年(大治元年)に父の「常兼」より千葉郡を継承して猪鼻城を築き、千葉氏の初代当主になり、近くを流れる都川周辺は城下町として繁栄しました。また、重種の子「常胤」は、源頼朝の重鎮となり、室町時代まで「下総国守護職」として周辺を支配していました。その後1455年(享徳3年)に室町幕府の8代将軍足利義政の時代に発生した内乱「享徳の乱」に乗じて千葉氏14代当主千葉満胤(ちばみつたね)の次男「馬加康胤(まくわりやすたね)」によって千葉氏宗家が滅び、現在の千葉市花見川区幕張町に居を構えた後は、千葉氏の守護神として信仰されていた千葉妙見宮(千葉神社)の小規模な門前町になってしまいました。
 江戸時代になると現在の市域の大半が佐倉藩の所領となり、それ以外の市域は生実藩と曽我野藩の二つの藩が置かれたほか、幕府領になっている地域もありました。江戸と佐倉城を結ぶ佐倉街道(千葉街道)や東金御成街道が整備され、将軍が休息や宿泊をする千葉御茶屋御殿が造られるなど宿場町になっていました。江戸末期には海運業が盛んになり、曽我野浦(現在の中央区蘇我地区)や登戸浦(現在の中央区登戸)は物資を運ぶ拠点になっていました。
 明治時代に入り廃藩置県で千葉市の地域は印旛県に組み込まれ、1873年(明治6年)に印旛県と木更津県が合併されて千葉県が誕生し、両県の境で千葉氏の本拠地でもあった千葉市に県庁が設置されました。それ以降1894年(明治27年)の総武鉄道の開通などもあり政治と交通の中心地になっていきました。
 市制施行で1921年(大正10年)に千葉市が誕生し、その後周辺の町村を合併しながら1969年(昭和44年)に土気町を合併して現在の千葉市になりました。
 太平洋戦争後1948年(昭和23年)には戦災復興都市計画の一環として川崎製鉄株式会社を誘致し京葉工業地帯の中心都市として再建されました。
 1956年(昭和31年)に制定された「首都圏整備法」により千葉市が近郊整備地帯に指定されたため、1960年(昭和35年)には大宮団地の整備事業が開始、1967年(昭和42年)には海浜ニュータウン計画が発表され、その後幕張新都心構想が決定されました。
馬加康胤の首塚
馬加康胤の首塚
千葉神社
千葉氏が信仰していた千葉神社

千葉城
千葉氏の居城だった千葉城(猪鼻城)
ベイタウン
幕張新都心に出来た人気のベイタウン

幕張新都心を中心に発展する千葉市
 1989年(平成元年)に開業した「日本コンベンションセンター国際展示場(通称:幕張メッセ)」、1990年(平成2年)に多目的野球場として開場した現「ZOZO千葉マリンスタジアム」、人工海浜「幕張の浜」等、幕張新都心はイベント会場としてもその存在を広く知られるようになりました。
 千葉市には野球の千葉ロッテマリーンズ、サッカーのジェフユナイテッド市原・千葉、バスケットボールのアルティーリ千葉などプロスポーツの本拠地になっている他、幕張海浜公園には主にサッカー日本代表のトレーニング施設として使われる「高円宮記念JFA夢フィールド」ができるなど、スポーツとの関わりも多く、県外からも観戦客が集まってきます。コロナ禍の中、当初から1年遅れで開催された「2020東京オリンピック・パラリンピック」の競技会場としても幕張メッセが使われました。
 幕張新都心のエリアはビジネスだけでなく居住地としても注目を集めました。なかでも幕張ベイタウンは幕張A地区として計画された地域の一部で、魅力的な市街地で最寄りにアウトレット、ショッピングモールなどがあるなど、大人気のエリアになっており、現在も幕張ベイパークの開発が進んでいます。海浜幕張のエリアに入居が始まり既に28年余り経っても、住宅ローン専門金融機関のアルヒ株式会社が行っている「本当に住みやすい街大賞2022」の関東ランキングでは5位にランキングされるなどその勢いはとどまる所をしりません。
 これまでにJR総武線の千葉駅を中心に発展してきた千葉市は新たな中心地として幕張新都心で取り組みが行われるようになりました。国家の成長戦略実現に必要な規制・制度改革を実行して世界で一番ビジネスがしやすい環境を創出する事を目的とした「国家戦略特区」に指定され、2021年(令和3年)からはドローンの社会実装に向け「ドローン宅配」をはじめ、ドローンを活用した実証実験が始まりました。
 また「千葉市無人航空機操縦者技能証明取得支援事業」も始まり、ドローン操縦ライセンス取得を支援する補助金制度を創設しています。更に民間事業者が市内で新たにドローンを活用して実施する業務やサービスに対しても補助金による助成が行われています。
 他にも回遊性の向上、賑わいの創出を目指し多様なモビリティ(移動のための装置)を導入する事で、拠点間の移動の負担を軽減する実証実験も行われています。ひとり乗りの移動手段(パーソナルモビリティ)の活用、シェアリングサービス、自動運転、更に自動運転バスの公道実証実験など、最先端の実証実験が行われています。
 2023年(令和5年)3月には京葉線の新習志野駅と海浜幕張駅間にイオンモール、千葉市、千葉県も出資した「請願駅」の「幕張豊砂駅」が新たに開業し、千葉市は幕張新都心を中心に千葉県を代表する最先端の街として進化していくでしょう。
メッセとスタジアム
幕張メッセと千葉マリンスタジアム
幕張メッセ国際会議場
幕張メッセ国際会議場

千葉市花火大会
幕張海浜公園で行われる千葉市花火大会
高円宮記念JFA夢フィールド
高円宮記念JFA夢フィールド

(2023/11/10)
船橋市(ふなばしし)
地図
鉄道路線が充実している船橋市
 船橋市は千葉県北西部の位置し、市の中央部は下総台地、臨海部は沿岸流で形成された砂丘地帯、その間は平地が広がっています。県内では千葉市に次いで人口が多く、政令指定都市外の人口ランキングで642,907人(2023年7月)と全国一位になりました。
 農業は大都市の周辺で行われる農業で、都市に新鮮な農畜産物を周年的に供給することを目的とした近郊農業が中心です。人参の栽培は全国第二位、県内では第一位を占めています。また梨の栽培も盛んで、非公式キャラクターによって更に知られるようになりました。
 東京湾沿岸部の三番瀬は数多くの魚が生息する漁場で、特に「スズキ」の漁獲量は日本一で、水揚げ直後の鮮度をPRするためにプライドフィッシュ「船橋瞬〆すずき(ふなばししゅんじめすずき)」という商標で売り出しています。また、江戸時代より海苔の養殖が行われていますが、最近では外来種のホンビノス貝が繁殖するようになり、新たな名産品として知られるようになってきました。
 工業は沿岸部を京葉工業地帯の一部としており、主に食品コンビナートと重化学工業が中心になっています。
 商業は古代より食糧物資を主とする物資の集積地・流通地として重要な役割を果たしてきた地域でした。江戸時代以来、遊郭など花街も形成されてきた土地で、1955年(昭和30年)に開業した船橋ヘルスセンターや中山競馬場などの娯楽施設も整っていました。船橋駅に隣接して1967年(昭和42年)に「西武百貨店」、1977年(昭和52年)に「東武百貨店」が進出、1981年(昭和56年)には船橋ヘルスセンターの跡地に作られた「ららぽーとTOKYO-BAY」など、大型店が進出したことで、千葉県内でも有数の商業地帯になっています。
 船橋市への鉄道のアクセスはJR東日本の総武線、京葉線、武蔵野線の3線、地下鉄の東西線、第三セクターの東葉高速鉄道、私鉄では京成電鉄、東武鉄道の2線の合計7つの路線が通っており県内屈指の鉄道路線が充実した状況になっています。
 道路は市の南部を東関東自動車道が横断していますがインターチェンジはありません。東関東自動車道に並行して京葉道路も通っており、こちらは市内に船橋インターチェンジがあります。国道は14号線と357号線が並行し南部を通っていて、東部は297号線が縦断しています。
船橋漁港
船橋漁港
境ららぽーとTOKYO-BAY
ららぽーとTOKYO-BAY

どの時代でも栄えた船橋
 船橋市の下総台地エリアには多くの遺跡が残っており、3万年ほど前から人が住んでいたものと思われます。飛鳥時代には市の南部から中央部にかけて皇室や伊勢神宮、下賀茂神社の領地だった夏見御厨(なつみのみくりや)があったとされています。平安前期には当時の歴史書「日本三代実録」に「下総国意富比神社(船橋大神宮)」の名前があり、927年(延喜5年)に成立した「延喜式」には「意富比神社(おおひじんじゃ)」と「二宮神社」の名前があることから、両神社はこの頃には既に創建されていたことがわかります。
 室町時代になると船橋市のエリアは千葉氏の家臣の領地となっていましたが、のちに北条氏へと支配が移り、1590年(天正18年)に北条氏滅亡に伴い徳川氏が関東に入府し、徳川家康の五男の徳川信吉の領地となり、市の中部エリアには小金牧が設置されました。
 江戸時代になると徳川信吉は佐倉藩へと移り、主な街道筋は天領に、他は旗本の知行地として統治されていました。また、1614年(慶長19年)には将軍の東金での鷹狩を目的に御成街道が整備され、将軍が休憩や宿泊をする船橋御殿が造られました。
 幕末の戊辰戦争下では1868年(慶応4年)に船橋が戦地となり本陣があった意富比神社をはじめ、現在の船橋本町エリアの大半は焼失してしまいました。
 1894年(明治27年)には総武鉄道(現JR東日本総武線)の市川~佐倉間が開通し、船橋駅が開業し1897年(明治30年)には全線開通したことでアクセスが良い船橋は商業・レジャー都市としての性格が強くなっていきました。
 昭和に入って1937年(昭和12年)には船橋町、葛飾町、八栄村、法典村、塚田村が合併して、船橋市が誕生し、1941年(昭和16年)に太平洋戦争に突入すると市内には軍需工場が進出し、東京からの疎開者と併せて船橋市の人口は急激に増加しました。1944年(昭和19年)に受けた東京及び周辺都市へ空襲がありましたが、幸いなことに船橋市内の被害は軽微なもので済みました。
 太平洋戦争後には京葉工業地帯の計画が進み1956年(昭和31年)から埋め立てを開始し、1964年(昭和39年)には中小企業向けの工業団地が造成され、その後南習志野などでも造成が始まり軍都から新たな役割を持つようになりました。
二宮神社
二宮神社
下総国意富比神社
下総国意富比神社(船橋大神宮)

東照宮
船橋御殿跡にある東照宮
石碑
船橋御殿跡を示す石碑

ショッピングモールからイベント会場としても進化
 船橋は江戸時代には成田山参詣の宿場であり、江戸を支える重要な魚・農産物の集積・供給地として栄えていました。明治時代に入っても軍都を支える経済都市として発展し、更に太平洋戦争後の食糧不足の時代には闇市の一大拠点になるなど各時代において商業の街としての側面で栄えてきた土地です。
 高度成長期の時代には農地の多くに大規模な団地が作られ、首都圏のベッドタウンになりました。しかし、船橋ヘルスセンター跡地に「ららぽーと」がオープンしたことをきっかけに、再び商業の街として開花し、日本が広大な敷地を持つ大型ショッピングモールの時代へと進むきっかけを作りました。また、1981年(昭和56年)にはイケアの日本第一号店「IKEA Tokyo Bay」も進出し、南船橋駅周辺は「ららぽーとTOKYO BAY」と共に更に集客力を持った地域へと発展しました。
 スポーツでは、Bリーグの「千葉ジェッツふなばし」をはじめ、ラグビーの「クボタスピアーズ船橋・東京ベイ」、更に野球の独立リーグ「ベイサイドリーグ」に所属する「千葉スカイセラーズ」の球団事務所があるなど、スポーツチームが活躍することで船橋を発信できるようになりました。
 「千葉ジェッツふなばし」の本拠地「船橋アリーナ(船橋総合体育館)」は2024年(令和6年)からは、「Bリーグ」の入会審査で求められている「5,000人以上収容できるアリーナ」の条件を満たしていないことから、条件を満たす新アリーナが必要になり、JR南船橋駅付近に「(仮称)LaLa arena TOKYO-BAY」を建設し、2024年4月からはここを本拠地とすることになりました。またこの施設はコンサートやスポーツイベントなども開催できる多目的会場として活用できるようになっており、隣接して「三井ショッピングパーク ららテラス 東京ベイ」の建設が進んでいます。こちらも2024年4月からオープン予定になっています。この施設の周辺には冷凍倉庫を始め物流拠点として既に機能しており、隣接した場所まで新しい物流センターが作られています。
 江戸時代には宿場町として賑わい戦後は闇市として多くの人が訪れていた船橋は、「ららぽーとTOKYO BAY」「IKEA Tokyo Bay」にイベント会場としても機能する「(仮称)LaLa arena TOKYO-BAY」が加わり、これからも数多くの人が集まる市として進化していくでしょう。
船橋アリーナ
現在の千葉ジェッツ本拠地船橋アリーナ
LaLa arena TOKYO-BAY
現在建設中の仮称LaLa arena TOKYO-BAY

IKEA Tokyo Bay
IKEA Tokyo Bay
物流センター
物流センターも建築されている

(2023/10/10)
市川市(いちかわし)
地図
東京のベッドタウン
 市川市は千葉県の北西部に位置し江戸川を挟んで東京都江戸川区に接しています。市の南部は平野、北部は下総台地になっており、年間平均気温は15.8℃とおおむね温暖な気候です。人口は約50万人で千葉県内では千葉市、船橋市、松戸市に次いで第4位の人口規模の市で、西側は東京都と接しており、ベッドタウンとして発展しています。
 市川市における梨栽培の歴史は大変古く、江戸時代から行われており、現在「市川の梨」と「市川のなし」が地域ブランドとして商標登録されています。市川に初めて梨を伝えたのは、寺子屋の師匠をしていた川上善六という人で、市川の土地は梨の栽培が適していることがわかると、美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)から梨の枝を持ち帰り、葛飾八幡宮の境内で試験栽培をはじめました。当初は八幡、市川、中山地域で栽培されていましたが、この地域が都市化されていくにしたがって、次第に北部へと移り、現在は大町、大野町、柏井町を中心に栽培されています。他に「花き」生産も盛んです。
 工業は、内陸部に中小の事業所が立地している他、臨海部には金属、鉄鋼、石油、化学等の大型事業所が集約されおり、京葉工業地帯の一翼を担っています。
 商業は、JR総武線の市川駅、本八幡駅の他、地下鉄東西線の行徳駅、妙典駅周辺など東京湾沿岸部が中心になっており、他にもニッケの工場跡地には大型商業施設のコルトンプラザなどもあります。
 市川へのアクセスはJR東日本の総武線が横断しており、市内には市川駅と本八幡駅の2駅があります。また市の南端には京葉線が横断し、塩浜駅、二俣新町駅の2駅があります。更に二俣新町駅に接続した武蔵野線は市の東北部を縦断し、二俣新町駅の他に市川大野駅があります。一方、私鉄は京成本線も同様に市の中央を横断し、市内には国府台駅、市川真間駅、菅野駅、京成八幡駅、鬼越駅の5駅が、北総線は市の北端を横断し、北国分駅があるなど北から南まで鉄道路線が横断しています。また、他にも地下鉄の都営新宿線が市の中心部まで到達し、市内に終点の本八幡駅があります。
 高速道路は市の南端を東関東自動車道が横断し、千鳥町インターチェンジがあります。市の中央部には京葉道路が横断し、京葉市川インターチェンジ、原木中山インターチェンジの2つのインターチェンジがあります。東京外環自動車道が東関東自動車道と京葉道路に繋がり市を縦断し、市川北インターチェンジがあります。国道は14号線が市の中央を横断、357号が市の南端を横断しています。
梨園
内陸部には梨園が点在し、シーズンには梨を目的に賑わう
境界になっている江戸川
市川との境界になっている江戸川

古くから栄えた街
 市内北部の台地地区には旧石器時代の遺跡が数多く存在しています。縄文時代の遺跡には堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚など国の史跡になっている遺跡があり、貝塚を含めた遺跡数が60か所にのぼり、集中した地域としては国内最大級の規模で残っています。これにより市川が縄文時代に栄えた場所だということがわかります。
 奈良・平安時代の律令国家では、国庁と国府が置かれて下総国の中枢になっており、国分寺と国分尼寺が所在していました。国分寺は今も残っている国分寺と、100mほど先には国分尼寺跡が国分尼寺跡公園として残されています。
 平安時代には八幡地区は寛平年間に創建された「葛飾八幡宮」を中心に発展しました。平安時代末期になると「石橋山の戦い」に敗れ安房国に落ち延びた源頼朝が、上総広常と国府台で合流して軍勢を立て直したことはよく知られています。また、1260年(文応元年)には中山法華経寺が創建され、中山地区周辺は「門前町」として栄えました。
 室町時代後期になると関東で活躍していた「太田道灌」の弟「太田資忠」が国府台城を築城し、城跡は里見公園内に残されています。また、国府台は戦国時代に里見氏と北条氏をはじめとした房総半島の諸将の間で起こった「国府台合戦」の戦場にもなりました。
 江戸時代に市川市域は天領や旗本領になり、市川地区や八幡地区は「佐倉街道(成田街道)」の宿場町として栄えました。また、徳川家康の命により塩の供給を得るため「行徳塩田」が整備され、水路を使って江戸へと運ばれていました。
 明治時代になり、1885年(明治18年)には陸軍教導団が置かれ、1899年(明治32年)には廃止されたものの陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院なども置かれ、市川は軍都として栄えました。太平洋戦争終戦後、陸軍が使っていた広大な土地は病院や大学、高校などの施設になりました。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20年)日本画家の東山魁夷は、市川市に居住し、1999年(平成11年)に90歳で亡くなるまで市川市で創作活動をつづけたことから、自宅の隣に2005年(平成17年)に市川市東山魁夷記念館が造られました。
明戸古墳石棺
里見公園内にある明戸古墳石棺
葛飾八幡宮
葛飾八幡宮

中山法華経寺
中山法華経寺
東山魁夷記念館
東山魁夷記念館

産官学のチームワークで発展する
 市川市内は歴史がある分、狭い道や、入り組んでいる路地が多く存在します。また、幹線道路も狭く、特に市の南北の交通の便に問題を抱えていました。2018年(平成30年)に開通した国道298号および東京外環自動車道が開通したことにより、南北間の交通事情が激変し、それに合わせて市川市初の道の駅「道の駅 いちかわ」も誕生しました。市川産の農産物や千葉のみやげ品の販売のほか、有名イタリア料理店の姉妹店やカフェなどができたことで、地元はもちろん観光客の人気も集め、市川の発信拠点として機能しています。
 高度成長期で市川市は急激に人口増加し、市川駅周辺は急速に都市化が進んだものの、ライフラインなども不完全状態でした。公共施設が不足するなど多くの問題を解決するため市川市は「市川駅南口地区第一種市街地再開発事業」を実施し、建設されたのが「I-linkタウンいちかわ」です。先進的で住みやすい都市型住宅(超高層マンション)の供給を図ると同時に駅前広場および道路の整備を行い、暮らしやすい街を開発することを目的としてこの計画は始まりました。
 2005年(平成17年)に着工しましたが、2007年(平成19年)に書類審査で鉄筋不足が発覚し、強度不足を解消する補強工事を実施した後2009年(平成21年)に竣工しました。市川駅南口に直結し低階層には商業施設や公共施設が入り、A街区の高層階は分譲マンション、B街区の高階層は介護付き有料老人ホームのライフ&シニアハウス、更に都市再生機構の賃貸住宅になっています。また、A街区の45階には無料で一般開放されている展望施設もあり、観光名所にもなっています。
 千葉県市川市に所在する千葉商科大学、和洋女子大学、東京医科歯科大学教養部、昭和学院短期大学、東京経営短期大学の5つの高等教育機関があります。そしてそれらが教育資源や機能等の活用を図りながら幅広い分野で相互に連携協力し、教育研究の質的向上を図り、地域社会の発展に資することを目的として、2018年(平成30年)11月に「大学コンソーシアム」が設立されました。更に市川市の発展を目的とした地域課題の解決に取り組むため、市川市、市川商工会議所と産官学連携包括協定を締結し、「大学コンソーシアム市川産官学連携プラットフォーム」が形成され、併せて2021年(令和3年)には産業界の京成電鉄株式会社、東京ベイ信用金庫、千葉税理士会市川支部、株式会社市進ホールディングスの4つの機関とも協定を結びました。このプラットフォームを通じて、12の取り組み目標と取り組みを掲げ市川市の発展に取り組んでいます。
道の駅いちかわ
道の駅いちかわ
I-linkタウンA棟
I-linkタウンA棟

(2023/9/8)
松戸市(まつどし)
地図
東葛地区の商業拠点のひとつ
 松戸市は江戸川を挟んで東京に隣接している関東平野にあり、市の東部は下総台地の西端に位置し、西部は水路が縦横に広がり宅地化が進んでいるものの、川沿いなどには田畑を見ることができます。また、東京都への通勤率が高いことから「千葉都民」といわれる人が多く住んでいます。
 松戸市の特産の「矢切ねぎ」は、江戸川の氾濫でできた砂と粘土が適度に混ざった土壌がねぎに適していることから明治初期から本格的に作られるようになり、「地域団体商標を取得しています。他にも柏と同様に「かぶ」の生産も盛んです。また、梨の生産も盛んで、梨の品種「二十世紀」は明治時代に松戸市で発見されたもので、松戸市二十世紀が丘梨元町の「二十世紀公園」には記念碑があります。
 工業は市内に「北松戸工業団地」「稔台工業団地」「松飛台工業団地」の三つの工業団地があり、食料品製造業、金属製品製造業、各種機械器具製造業、電子部品等製造業、プラスチック製品製造業の割合が高くなっています。
 産業の中で最も多いのは商業などの第三次産業で、松戸駅西口の旧宿場町は、商業の拠点として機能しています。また、1960年代(昭和35年~)には大規模住宅地が造成され、常磐線や京成線の駅周辺、更に国道6号線(水戸街道)沿線などにも商業施設が進出するなど柏に次ぐ東葛地区の商業の拠点になっています。
 松戸へのアクセスは、JR東日本の常磐線が南西から北東に向かけて縦断し、松戸駅・馬橋駅・新松戸駅・北小金駅の4駅が、武蔵野線は南部から北部に縦断し、東松戸駅・新八柱駅・新松戸駅の3駅があります。私鉄は新京成線が市を横断し、松戸駅・上本郷駅・松戸新田駅・みのり台駅・八柱駅・常盤平駅・五香駅・元山駅の8駅が、更に北総線(京成成田空港線)は市の南を横断し、矢切駅・秋山駅・東松戸駅・松飛台駅の4駅があります。加えて市の中部の馬橋と流山を結ぶローカル線の流鉄が縦断し市内には馬橋駅・幸谷駅・小金城跡駅の2駅があるなど鉄道路線も充実しています。
 高速道路は南西を東京外環自動車道が通り松戸インターチェンジがあります。国道は南西から北東に向けて6号線(水戸街道)が縦断し、南を水戸街道から分岐した464号が横断しています。
二十世紀梨発祥の地碑
二十世紀梨発祥の地碑
矢切ねぎ
松戸市の特産の矢切ねぎ

常磐線の馬橋駅
流鉄線が乗り入れている常磐線の馬橋駅
北松戸工業団地
北松戸工業団地

徳川家とゆかりの地が軍都へと変わる
 松戸には縄文時代の遺跡が多数見つかっており、古くから人が居住していたことを示しています。また奈良・平安時代には下総国葛飾郡に属しており、「松戸」という地名の由来は「更級日記」に書かれた「まつさとのわたりのつ」が元になったといわれています。鎌倉時代から戦国時代にかけては幕府の御家人だった千葉氏の一族や家臣が統治していました。
 江戸時代になると松戸市の地域は天領や大名領、旗本領が入り組んだ状態で、江戸川沿いの低湿地を水田化し、更に台地には畑を開発した「新田」村が生まれるなど農業地域になり、市の東部の下総台地にかかる辺りは幕府の放牧地「小金牧」がありました。また、松戸地区や小金地区は水戸街道の宿場町で、小金地区には水戸藩の本陣が置かれるなど江戸の徳川将軍家と水戸徳川家との強いつながりがありました。現在JR東日本の松戸駅付近にある松戸神社には水戸藩の二代藩主徳川光圀(水戸黄門)ゆかりの銀杏の木があり、松戸には水戸藩最後の十一代藩主「徳川昭武」が建てた「戸定邸(旧水戸藩主別邸、後の松戸徳川家本邸)」が残されています。
 歌謡曲でも有名になった「矢切の渡し」は、江戸時代初期に徳川幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつで、松戸と葛飾区の柴又を結んだ渡し船です。現在でも運行が続いており、「房総の魅力500選」や環境省の「「日本の音風景100選」にも選定されており、かつては官営で運営が行われていましたが、現在は民間が運営しています。
 明治時代に入り1878年(明治11年)には東葛郡役所が置かれ、1896年(明治29年)には現在の常磐線が開通、1905年(明治38年)には松戸競馬場が誕生しました。この競馬場は陸軍から「工兵学校」の敷地にしたいと要望があり、競馬場は1919年(大正8年)に中山競馬場に移転しました。また現在の千葉大学園芸学部は、1909年(明治42年)に日本で唯一の園芸系専門学校の「県立園芸専門学校」として設立されたものです。
 1939年(昭和14年)には当時の「逓信省」の「中央航空機養成所」(のちの「松戸高騰航空機上院養成所」)が建設され、民間パイロットを養成するする施設として機能していましたが、太平洋戦争が始まると、事実上陸軍の施設として利用されるようになり軍都の色が濃くなっていました。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20年)に「陸軍工兵学校」跡に「東京工業専門学校」が移転し、1949年(昭和24年)に千葉大学の工学部になるなど千葉大学にも縁のある地という側面もあります。
 戦後の高度経済成長の波に乗り、松戸市は東京のベッドタウンとして毎年2万人のペースで人口が増加していました。市は道路・下水道・学校などのインフラ整備を急ピッチで進めたものの、市民の身近な問題についてすぐに対応できず、いわゆるお役所仕事というイメージが根付いてきました。そこで当時の市長でドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者松本清市長が1969年(昭和44年)に「すぐやる課」を誕生させたことで、全国でも知られるようになりました。
銀杏の樹
松戸神社の銀杏の樹
戸定邸
徳川昭武が建てた「戸定邸」

矢切の渡し
現在も運行されている矢切の渡し
松戸市役所
松戸市役所

アーティストと子育てで繁栄
 松戸市は2020年(令和2年)に「次期松戸市総合計画の策定」にあたり、「まつど未来シナリオ会議」を開催しました。会議では「2030年(令和12年)の日本における私たちの暮らし」をテーマに、職員と共に市民や事業者も交えてり、将来起こりうる複数のシナリオを作成し、松戸市がチャンスや課題に備えるための対応策などを検討するなど新しい街づくりに向けた様々な活動が行われているようです。
 「株式会社まちづくりクリエイティブ」は、現在JR松戸駅前を中心に半径500mを「コアエリア」にして街づくりプロジェクトの「MAD City」を展開しています。「MAD City」は松戸駅付近の古民家を借り受け、アーティストやクリエイターのスタジオなどで活用するスペースとしてレンタルしています。他にも同会社が運営する「いろどりマンション」は、1974年(昭和49年)に出来た中古の賃貸マンションですが、独自にリノベーションをすることが認められていて、アーティストなどこだわりの多い人たちに人気のマンションになっているようです。
 更に「株式会社まちづくりクリエイティブ」は松戸市と提携し、おしゃれな松戸の実現に向け何が必要かを調査・研究するラボ型プロジェクト「MAD STUDIES」を立ち上げました。このプロジェクトでは松戸駅周辺で店舗を持ちながら活動している事業者と市の職員が、様々なジャンルから視野を広げてくれるゲストを招き「公民連携」の取り組みを行う官民共同のプロジェクトを展開しています。
 他にも「一般社団法人PAIR」もアーティストの滞在・制作場所を一定期間提供し制作活動を支援する「PARADISE AIR」という名前の「アーティスト・レジデンス」を運営し、こちらも国内外のアーティストが行き交う文化・芸術のトランジットポイントを目指し街の反映に貢献するなどアートの街、アーティストが集まる街としての街おこしが進められています。
 このように街おこしが行われる一方、松戸市は子育てでも評価されています。日経新聞と日経XWOMAN(クロスウーマン)は43の評価項目で「自治体の子育て支援制度に関する調査」を実施し、全国160自治体から得た回答を基に、2021年(令和3年)版「共働き子育てしやすい街ランキング」をまとめました。その結果、松戸市は83点で1位、浦安市が78点で2位を獲得しました。2022年(令和4年)の調査では残念ながら松戸市は2位だったものの、1位の豊島区とその差は2点差で惜しい結果になりました。
 松戸市は市民と共に新たな街づくりを推進すると共に、子育て支援を充実させ更に良い街へと進化していくでしょう。
松戸駅(西口)
駅の改修が進む松戸駅(西口)
いろどりマンション
いろどりマンション

旧・原田米店
古民家スタジオ 旧・原田米店
PARADISE AIR
PARADISE AIR

(2023/8/10)
柏市(かしわし)
地図
東葛地域の商業拠点
 柏市は千葉県の北西部に位置し、市域の大半は下総台地と谷津田から構成されており、利根川沿いや手賀沼に近い地域は低地になっています。また柏市には飛地のようなエリアがあり、わずか100mに満たない巾で繋がり流山市江戸川台に食い込んでいる所が西原地区です。更に南端の藤ヶ谷地区には白井市と鎌ケ谷市の間にある場所で、東西の巾が100m、南北1200m位の細長いエリアと50m四方のエリア、更に東西巾100m南北20m程度の二つの小さな飛地になっています。
 柏市の人口は千葉県内で5位に位置しており、産業は卸売・小売業が約4割を占める東葛地域ではトップの商業地域で、製造業、建築業がそれに続いています。
 産業の上位に位置する商業は、1992年(平成4年)に柏駅東口に大手デパートが進出し、隣接した商業ビルが立ち並んだことで一大ショッピングエリアになっています。また、柏駅西口にも小規模店舗が並ぶ商店街が賑わいを見せています。更に2005年(平成17年)に開業した「つくばエクスプレス」の「柏の葉キャンパス駅」周辺には、「ららぽーと」が進出するなど大小様々な商業施設が形成され、こちらも新しいショッピングエリアになっています。
 一方工業は市内に複数の工業団地を抱え、「柏の葉」駅付近には東京大学柏の葉キャンパスや東葛テクノプラザなど先端技術の研究開発機関が集まる「柏サイエンスパーク」が作られています。
 農業は利根川沿いに大きな農地が広がり米の生産が行われていますが、全国有数の生産量を誇っているのはカブ、ネギ、ホウレンソウ等、野菜の栽培が盛んに行われています。また、1975年(昭和50年)頃に日本で初めてチンゲンサイやザーサイなどの中国野菜も柏で栽培されました。
 柏市へのアクセスは、市の中部に「JR東日本」の常磐線が横断し「南柏駅」「柏駅」「北柏駅」の3つの駅が、市の北部を横断する「つくばエクスプレス」には「柏の葉キャンパス駅」「柏たなか駅」の2駅があります。更に「東武アーバンライン」が市を縦断し、「高柳駅」「逆井駅」「増尾駅」「新柏駅」「柏駅」「豊四季駅」の6駅があります。
 一方道路は「常磐道」が市の北部を横断し、「柏インターチェンジ」があります。また国道は16号線が市を縦断し、中部を6号線が横断しています。
道の駅しょうなん
道の駅しょうなん
ららぽーと柏の葉
ららぽーと柏の葉

豊四季台団地
豊四季台団地
つくばエクスプレス
田園部風景の中を通るつくばエクスプレス

かつての宿場町が「最先端の街」に発展する
 市の北部、利根川近くにある東海寺は、平安時代の807年(大同2年)に空海が嵯峨天皇の勅願で創建されたといわれ、「布施弁天」の名で親しまれています。水運が発達した江戸時代には船で参詣する人が多く小林一茶も訪れたとされ、大いに栄えていました。
 1479年(文明11年)に起きた太田道灌と千葉氏の合戦跡は、酒井根地域に「合戦場跡」として多く残っていたようでしたが、光が丘地区の開発などでたくさんあった塚は埋め立てられてしまいました。現在は団地の隙間などに一部残っているようですが、目立った史跡は少ないようです。
 水運が盛んだった江戸時代には川沿いの集落が栄えており、布施地区は流山市にあった河岸と松戸市にあった河岸を結ぶ鮮魚の輸送ルート「鮮魚街道(なまかいどう)」として賑わっていました。一方現在の柏市の中部にあたる地域は、水戸街道の小金宿と我孫子宿の間にであったため特に栄えることはありませんでした。
 明治時代になり、1896年(明治29年)に常磐線が開通し、更に大正時代になって北総鉄道(現在の東武アーバンパークライン)が開通したことで柏駅は乗換駅になり、柏駅を中心に市街地が形成されました。
 太平洋戦争後の1960年代に入ると、東京のベッドタウンとして人口が急増するようになり、1969年(昭和44年)に施行された「都市開発法」の第一号として柏駅前が再開発され、それ以降大手デパートなどの進出で、「東京の衛星都市」のような商業地として栄え、東葛地域の商業拠点としての地位を得ることになりました。
 鉄道網が引かれたことで、賑わっていた布施弁天は次第に参拝客が減り、寺の改築費を捻出するため一部の土地を柏市に売却しました。売却された土地は「あけぼの農業公園」になり、桜の季節には多くの花見客で賑わいを生み、その影響もあってか布施弁天の参拝客も増え改善されたようです。
 更に2005年(平成17年)つくばエクスプレスの開通を機に「柏の葉キャンパス駅」付近には東京大学、千葉大学、産学連携施設を中心にした「新しい街」が誕生したことで、移住する人も増えるなど人気を博しています。
布東海寺 
布施弁天 東海寺
あけぼの山農業公園
あけぼの山農業公園

柏駅
JR東日本・東武鉄道が乗り入れする柏駅
気象大学校
気象大学校

「公・民・学」の力で街を発展させる
 1997年(平成9年)に柏市が策定した「柏市商業振興ビジョン」では、周辺の野田市・我孫子市などの「リーダー的都市」として発展していくために官民一体の振興策が必要とされました。そこで商店街関係者を中心に「柏駅周辺イメージアップ推進協議会」が組織され、更に柏商工会議所青年部の「ストリート・ブレイカーズ」は、柏駅周辺に集まる若者の力に着目し活性化を図りました。今では柏駅周辺に古着やセレクトショップ、雑貨店などが次第に集まるようになり、原宿の「裏原宿」にならって自然発生的に「裏カシ」と呼ばれるようになったエリアも生まれました。また「裏カシ」には「ウラカシ百年会」というグループも誕生し若者文化の発信源となる様相を呈しています。  更に柏市は2023年(令和5年)には「柏のために何かしたい」という35歳未満の柏の若者たちが集まって「柏の中に眠っている機会」を探し、そこから新たな価値を作り出す市民公益活動団「KIKAI~カシワワカモノプロジェクト~」を立ち上げ、情報発信も行われています。
 また、「公・民・学」の組織がそれぞれ資金や人、施設を出し合って共同で運営組織を行い、地域資源を生かしより魅力的なものにしていく「街づくりの活動」も行われています。街づくりを行う団体「アーバンデザインセンター(UDC)」は、現在全国に20か所以上に広がっていますが、2006年(平成18年)に出来た「柏の葉アーバンデザインセンター」が日本初で、今でも柏の葉の街づくりを担っています。更に元々の繁華街、柏駅周辺地区の新たな街づくりを行っていくため、2015年(平成27年)に「柏アーバンデザインセンター(UDC2)」が設立され、柏周辺の街づくりに取り組むなど、柏市には「公・民・学」で街づくりを行う二つのUDCが街の発展に大きく寄与しています。
 それに加え、柏市をホームタウンにしているプロ・実業団のスポーツチームがあることから、「スポーツタウン柏」を掲げてスポーツを通した地域おこしの活動も盛んに行われています。このように柏市は今まで市の中心を担ってきた「柏駅周辺」と新しい街「柏の葉」を中心に「公・民・学」の力で千葉県をリードするような街に発展していくことでしょう。
東大柏キャンパス
東大柏キャンパス
フクダ電子アリーナ
東大ベンチャープラザ

東葛テクノプラザ
東葛テクノプラザ
柏の葉キャンパス駅前サテライトUDCK
柏の葉キャンパス駅前サテライトUDCK

裏かしわ
街のあちこちで若者向けの店舗が目立つ裏かしわ
高層住宅
柏キャンパス駅周辺を中心に高層住宅が立ち並ぶ

(2023/7/10)
市原市(いちはらし)
地図
工業、住宅地、農業、そして地磁気逆転の痕跡がある街
 市原市の人口は千葉県内では柏市に次ぐ6位の規模で、その面積は368.2㎢と千葉県内ではトップ、関東で14位の広さです。市域は房総半島の中部まで南北方向に細長く延びて、養老川が市を縦断しています。南部は房総丘陵に位置しており、北部の沿岸部は温暖で南部の内陸部は寒冷な気候になっています。2004年(平成16年)7月には県内最高気温の40.2度を観測しましたが、高滝湖や養老渓谷付近は夏も涼しく、標高の割に冷涼な地域になっています。
 市の南部には「チバニアン」として話題になった約77万年前に地磁気逆転の痕跡を見ることができ、「養老川流域田淵の地磁気逆転地層」の名称で国の天然記念物にも指定されています。
 農業は就業人口全体の2%弱と少なく、加茂地区の伝統的な作物「加茂菜」や姉崎大根、皇室献上品になった「姉崎いちじく」、セリなどが特産物で、市内唯一の道の駅「あずの里いちはら」などでも販売されています。
 工業は就業人口の30%弱を占めるほどで、市の沿岸部には国内最大規模の石油コンビナートや県内で唯一造船所があり、工業地帯の製造品出荷額は全国で第2位、県内では第1位を占めています。
 市原市へのアクセスは、市の北部の海岸に沿ってJR東日本の内房線が横断しており、五井駅、姉崎駅の2駅があります。また、五井駅からは小湊鉄道が通っており、市内には五井駅、上総村上駅、海士有木駅、上総三又駅、上総山田駅、光風台駅、馬立駅、上総牛久駅、上総川間駅、上総舞鶴駅、上総久保駅、高滝駅、里見駅、飯給駅、月崎駅、上総大久保駅、養老渓谷駅の17駅があります。
 道路は東関東自動車道館山線と国道16号がが市の北部を横断しており、更に297号が縦断、409号が中央部を横断しています。
チバニアン
地磁気逆転の地層「チバニアン」
工業地帯
沿岸部に広がる市原市の工業地帯

あずの里いちはら
地元の農産物を販売する道の駅「あずの里いちはら」
小湊鉄道
市内を走る小湊鉄道

律令国家では上総の中心だった
 市原市を縦断する養老川流域には古墳が点在し、古くからヤマト王権とのつながりがあったことを示す出土品があります。飛鳥時代には当時13設けられた大国のひとつ「上総国」として正式に一国になり、行政機関である国府が置かれるようになりました。大国に位置していることから国を管理する国守は皇族から任命されますが実際には現地に赴任せず、上総介(かずさのすけ)という次官級の役人が現地に着任しました。
 有名な「更級日記」は当時の上総介だった菅原孝標(すがわらたかすえ)の次女が書いた回想録で父が上総国での任期を終え京の都へ帰るところから書かれた回想録であることから、JR内房線の五井駅前の更科通りにはこの菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の像が置かれています。
 741年(天平13年)には聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じ、上総国にも建立されました。市役所の西側にある国分寺跡は、上総国分寺として残っており、東側にあった国分尼寺跡は、「史跡上総国分尼寺跡」として展示館が作られ、復元された建物の一部を見学することができます。
 その後、戦国時代には千葉氏に続いて里見氏の勢力下に置かれ、江戸時代には五井藩、鶴巻藩の旗本領になっていました。
 931年(承平元年)当時の下総付近で反乱を起こした平将門が、奈良の大仏を模して現在の市の東部に建立させたのが「奈良の大仏」で、江戸時代の資料によると当初は銅製の「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」が建立されていたとされていました。その後何度か作り直しが行われたようで、現在この地に残っているのは江戸時代の1804年(文化元年)に建てられた高さ1.7mの釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)です。この像は東日本大震災で台座から落ちて破損してしまったそうですが、市と住民が費用を折半して修復をしたそうです。今は無くなってしまった大仏ですが、今でも「廬舎那仏」の名前と、この地域の「奈良」という名称だけが残っています。
 明治時代になり1871年(明治4年)の廃藩置県では、現在の市原市は菊間県、鶴牧県、鶴舞県となり、1873年(明治6年)に他の県と合併して千葉県が誕生しました。
 太平洋戦争後には東京湾の埋立てが進み、市原市の沿岸は千葉港の一角に組み込まれ、特に石油産業などの化学工業を主とする企業が進出しました。
姉崎二子塚古墳
住宅街の中にある姉崎二子塚古墳
菅原孝標女の像
五井駅前の更科通りに置かれた菅原孝標女の像

ジオラマ
ジオラマで再現された上総国分尼寺と一部再現された尼寺
釈迦如来像
市原市奈良にある奈良の大仏(釈迦如来像)

さまざまな面を通して
 千葉県内で最大の面積を持つ市原市は沿岸部に面しているエリアが狭く、内陸部に大きく食い込み、それぞれ工業地帯、住宅地、農地、山間部とさまざまな顔を持っています。沿岸部はほぼ工場で覆われているものの、唯一市民に開放されているのが市営の桟橋スタイルの釣場「オリジナルメーカー海釣り公園」で、釣り好きはもとより家族連れも楽しめる施設として多くの人を集めています。また、住宅地は海岸寄りのエリアに広がっていますが、内陸部の千葉市とエリアを共有する「ちはら台」は新しい住宅地として開発・整備され、新しい街並みが続々広がりつつあります。
 「ちはら台」のように新しい街並みができつつある一方で、人口減少、過疎化の悩みを抱えています。その対策として市原市は提案型スタイルで「地域おこし協力隊」を募集し、採用されたそれぞれのアイデアで活性化に貢献しています。いちはら湖畔美術館の広場では、毎月「湖畔のマルシェ」が開催され、地域で活動する店が出店し賑わいを見せています。また地域おこし協力隊」の任期3年を過ぎても、それまで培ったネットワークを活用して活動を続けていることで徐々にその輪が広がり、活性化の一助となっているようです。
 一方、企業活動でも市原市を盛り上げる活動が起きています。市内を走る小湊鉄道は市民の足として機能するだけでなく街おこしの活動の他、里山を走る路線を生かしてトロッコ列車を運行することで観光客誘致に貢献しています。また、1946年(昭和21年)に創部した古河電機工業サッカー部は、東日本旅客鉄道と共同出資でジェフユナイテッド株式会社を設立し、1993年(平成5年)に創設された日本サッカーリーグ(通称Jリーグ)に市原市をホームタウンとして「ジェフユナイテッド市原」とし参戦、その後2005年(平成17年)からは「ジェフユナイテッド市原・千葉」になったものの、サッカーを通して市原市に貢献しています。
 更に市原市は、まち・ひと・しごと創生総合戦略のリーディングプロジェクトとして2014 年(平成26年)から3年毎に「房総里山芸術祭いちはらアート×ミックス」を開催。地域の資源を現代アートと融合させるという取り組みをしている他、2021年(令和3年)には内閣府地方創生推進室のSDGsの達成に取り組んでいる都市を選定する「SDGs未来都市」に千葉県の自治体で初めて認定され、更に特に先導的な取組である「自治体SDGsモデル事業」にも選定されるなど先進的な取り組みを行い、住みたくなる街づくりを進めています。
海釣り公園
桟橋スタイルのオリジナルメーカー市原海釣り公園
フクダ電子アリーナ
ジェフユナイテッド市原・千葉のホーム
「フクダ電子アリーナ」

市原湖畔美術館
高滝湖の湖畔にある市原湖畔美術館
湖畔のマルシェ
月一度開催されている湖畔のマルシェ

(2023/6/9)
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