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チバビズ探訪 バックナンバー(13~24)
Vol.24
千葉の物流
輸送飛行機
海の道と川の道
 江戸時代の物流は街道を使った陸路よりも、海や川で船を使って輸送する海運、舟運でした。日本海側から大阪へ向かう航路は北前(きたまえ)船、大阪から江戸へと向かう航路は菱垣回船(ひがきかいせん)や酒樽を積んだ樽回船(たるかいせん)、東北地方からは東廻り回船(ひがしまわりかいせん)などの定期船が運行していました。
 江戸幕府によって整備された利根川は、江戸に向けた物流の大動脈として機能するようになり、東北地方から物資を運んできた船が、銚子から入って利根川を通り江戸へと向かっていました。
 それによって利根川沿岸地域には、江戸の町の物流を支える拠点として、多い時には160もの河岸(かし)という物流拠点が作られ、更に地元で採れた米や農作物をはじめ酒・醤油・味醂などを利根川を使って江戸で販売することで潤っていました。
 また、東京湾沿岸の地域でも海運は盛んになり、現在の千葉港のある地域、登戸浦(現在の千葉市中央区登戸)、や曽我野浦(旧曾我野藩、曽我野県、現在の千葉県千葉市中央区蘇我)も、江戸への物流の拠点として発達していきました。
高瀬舟とジオラマ
利根川の運搬に使われた高瀬舟
川沿いにできた物流拠点の河岸

川から陸路へ
 明治初期の1873年(明治6年)に千葉県が誕生すると、舟運の中心となっていた市場町に県庁が置かれ、政治と交通の中心として栄えていきました。
 1910年(明治43年)には、県が出洲埋立地を作り、荷揚場をそこに移して港湾としての形態を整えました。この地域は1922年(大正11年)には港湾指定を受け、後の「千葉港」になりました。
 一方1872年(明治5年)に品川―横浜間に鉄道が開通すると、物流の動脈はしだいに海運から鉄道へと徐々に移っていきましたが、水運の発達していた千葉県は鉄道の敷設が遅れていました。
 1894年(明治27年)に総武鉄道が、市川―佐倉間を、1897年(明治30年)には佐倉―成東間をようやく開通させたことで、物流の主導権が徐々に鉄道に移っていきました。
 海運中心から鉄道へと移行していきましたが、道路に関しては舗装率が低く、トンネルや橋梁の建設技術が遅れたこともあり、旧態依然のままでした。
 しかし、1923年(大正12年)に起きた関東大震災で鉄道網が寸断され、震災時の応急バス輸送により道路整備の重要性が見直され、橋梁、道路舗装、街路等までが一新されていきました。
明治の鉄道と成東駅の魁の碑
明治に入ると次第に鉄道が引かれていく
成東駅にある総武鉄道創設をたたえる魁の碑

空の玄関口も手にした千葉県
 昭和初期には鉄道網や道路など交通機関が発達し、東京湾沿線や銚子、一宮などの九十九里浜沿岸、南房総には、避暑地や観光地が整備され、谷津遊園、中山競馬場などの娯楽施設が造られ、観光産業が盛んになってきました。
 太平洋戦争がはじまると、重要な食料生産拠点として食糧増産が行われ、東京に近い市川市・船橋市・津田沼町、千葉市にかけて軍需工場が次々と移転したことで、製造した物を運ぶ物流の必要性はさらに高まりました。
 戦後になると京葉工業地域の建設が進み、1978年(昭和53年)には新東京国際空港(通称:成田空港)が開港し、千葉県内に世界と繋がる空港が誕生しました。
 現在の成田空港は、平成30年の航空貨物の取扱量は国内1位、2位の東京国際空港(通称:羽田空港)の1.75倍の取扱高を誇っています。
 一方海運も拡大し、千葉港は港湾空間の規模では全国1位、更に木更津港も18位にランクされ、2018年の貿易額では、千葉港は輸出入合わせた総貿易額で全国第6位、木更津港は19位と空も海も上位を占める物流拠点に成長しています。
 「成田空港」と「千葉港」という空と海の世界への玄関口を抱えた千葉県は、東京湾アクアラインや高速道路の整備で半島性という制約から脱却し、東日本経済圏と西日本経済圏との物流拠点として、更に海外との物流拠点としてその重要性を高めています。
FedExと千葉港
成田空港では多くの貨物機を見ることができる
総貿易額6位の千葉港

物流施設
今も物流施設が拡大している
空港周辺には航空貨物に関わる多くの物流拠点がある

(2020/2/10)
Vol.23
成田山
成田山
全国に71ヶ所を擁す「大本山成田山新勝寺」
 成田山新勝寺は千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院です。日本の仏教には、本末制度という、「本山」の下に「本寺」「中本寺」「直末寺」「孫末寺」などの上下関係があり、真言宗智山派の総本山は京都の智積院、成田山はその次の格の「大本山」で、他に川崎大師、高尾山も肩を並べ、全国に71カ寺の別院・分院・末寺・末教会・成田山教会を擁しています。
 初詣での参拝客数では、ほぼ毎年千葉県では1位、全国でも寺院では1位、全体でも明治神宮に次いで2位を誇る寺院で、年間一千万人以上の参詣客が訪れています。
 整備された表参道には、成田名物の鰻などの川魚の料理屋、羊羹をはじめ、酒蔵、飲食店や土産物屋など様々な店が並び、常に参詣客で賑わっています。
 アクセスも、JR成田駅、京成成田駅から徒歩で向かうことができる好立地で、成田空港にも近いことから、外国人観光客も多く千葉県内では常に上位にランクされる観光スポットです。また、参道にも多くの外国人観光客が訪れる事から、参道の商店街の看板などに外国語表記が数多く見ることができます。
本堂と大本堂
本堂(右)と釈迦堂(左)、平和大塔(中央)を望む。
現在の大本堂。

平和大塔
紅葉の成田山公園から平和大塔を望む。
参道から平和大塔を望む。

江戸時代に観光客が訪れる地に
 成田山の開山は、平安時代940年(天慶3年)といわれています。
 平安時代939年(天慶2年)に関東で勢力を付けた平将門が関東を制圧して自らを新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとした「平将門の乱」が発生し、朝廷は軍を向け鎮圧をはかりました。
 仏教思想が浸透していた当時は、武力を向けるだけではなく国家の大事から日常の些事まで全て加持祈祷によって解決しようとする風潮が高まっていたため、朝廷は祈願を大きな寺や神社などに命じました。更に、真言宗の高僧の寛朝(かんちょう)に京都の神護寺に安置されていた真言宗の開祖、空海が作った不動明王像をもって千葉へ下る命を出しました。
 朝廷から命じられた寛朝は、大阪から船で千葉へと向かい、現在の横芝光町に流れる大布川河口付近に上陸し、そこから陸路で成田へと向かい、現在の成田山の地で護摩供(ごまきょう:火を焚いて祈祷する事)を行ったのが始まりです。
 江戸後期になると庶民の旅行が盛んになり、江戸から2泊3日とで気軽に旅ができる先として成田山までの旅は人気の旅でした。また、成田山でも江戸出開帳という本尊を江戸まで運んで見せる、いわばキャンペーンなどの活動もしていたため、関東一円に成田山の名前が広まりました。それに加え、歌舞伎の当時の人気役者初代の市川團十郎が成田山に子授けを祈願したところ後継ぎを授かりました。更に団十郎は成田の不動明王を題材にした芝居を興行し、それが成田山の人気に拍車をかけました。そして、市川家の屋号は「成田屋」になりました。
薬師堂と光明堂
薬師堂(1655年建立の初代市川團十郎が祈願した旧本堂)。
光明堂(1701年建立の旧本堂)。

釈迦堂と市川團十郎の石像
現在の本堂脇にある釈迦堂(1858年建立旧本堂)。 
奉納物を飾るためのお堂の額堂に七代目市川團十郎の石像。

鉄道アクセスが整備され更に人気が上がった成田山
 江戸末期から江戸に近くて気軽に旅ができる場所として人気があった成田山は、明治時代を迎え、鉄道網が発達し始めると更に人気を得ることになりました。
 1894年(明治27年)には現在の本所(現在の錦糸町)から佐倉まで総武鉄道が開通し、佐倉から乗り合いの馬車を利用すれば、これまで数日かかっていたものが3時間余りで行けるようになりました。
 更に1897年(明治30年)には佐倉から成田まで鉄道が開通し、2時間半程度で成田まで行くことができるようになりました。この事で、女性も子供も楽に成田山に参詣することができるようになり、益々観光客が増える事になりました。
 成田まで鉄道を開通しようとした発起人の総代は新勝寺の当時の貫主だった三池大僧正で、当時新勝寺の所有地に駅を作ろうと提案したといわれ、その場所が現在のJR成田駅です。その後成田鉄道は土浦まで繋がり更にアクセスが良くなり、当時の成田駅の乗降人数は53万人にものぼったという事です。
 成田駅と新勝寺の間は1kmほどの距離があったことから、1910年(明治43年)に成田駅前と新勝寺山門の間を翌1911年(明治44年)には佐倉市の宗吾霊堂近くまで延長された成宗電気軌道という千葉県初の電気で走る路面電車が開業しました。
 1926年(大正15年・昭和元年)には京成電気軌道(京成電鉄)の成田駅が開業し、昭和になって現在地に移転されました。
 1978年(昭和53年)には成田国際空港が開港され、国内のみならず海外までとその参詣者を増やしています。
 交通アクセスと共に発展してきた成田山はこれからも千葉の人気観光地として続いていくでしょう。
JR成田駅と京成成田駅
JR成田駅 
京成成田駅

電車道と参道
電車道(旧成宗電気軌道跡) 
参拝客でにぎわう参道。

(2020/1/10)
Vol.22
空港と飛行機
飛行機
世界の玄関口成田空港
世界の玄関になっている成田空港は、1978年(昭和53年)5月20日に新東京国際空港として開港し、2004年(平成16年)4月1日に成田国際空港株式会社法が施行された事で、それまで空港を管理する新東京国際空港公団が、政府の100%の出資で設立された成田国際空港株式会社 (Narita International Airport Corporation, NAA) に改組し民営化、正式名称を「成田国際空港」になりました。
1960年代はじめ、羽田空港が10年後には過密状態になるのとの予測が出され、1961年に新たな国際空港の建設計画が浮上しました。候補地となった現在の千葉県富里市や八街市などでは、住民の反対運動が繰り返され、1966年新たな案として成田市の三里塚が浮上し、7月4日閣議決定されましが、近隣住民らによる「三里塚闘争」という激しい反対運動が起きました。そして新左翼が介入したため、各種テロ事件や反対運動内部での主導権抗争など様々な事件が発生し、社会問題にもなりました。
2011年6月23日に開館した「空と大地の歴史館」は、成田空港と地域をめぐる歴史的経緯とともに当時そこに関わった様々な立場の人々の苦悩と想いを正確に後世に伝えるため作られました。
成田空港
成田空港
飛び交う貨物専用機

日本初の民間空港が千葉にあった
1877年(明治10年)2月11日、男爵・奈良原繁の次男として鹿児島に生まれた奈良原三次(ならはらさんじ)は元日本海軍軍属技士で、飛行機の研究をはじめ、臨時軍用気球研究会の委員になりました。
奈良は1910年(明治43年)自費で機体に丸竹を用い「奈良原式1号飛行機」を製作しましたが、離陸は失敗に終わりました。 海軍を退役後、引き続き飛行機を製作に取り組み、退役の翌年1911年(明治44年)に奈良原式2号飛行機を製作し、所沢飛行場で国産機による初めての飛行記録の高度約4m、距離約60mの飛行に成功しました。
その後、奈良原三次は1912年(明治45年)5月に稲毛海岸の干潟を滑走路にした日本で初めての民間飛行場を開設し、この飛行場から初めて飛び立ったのが、民間航空機が奈良原式4号機の「鳳号(おおとりごう)」でした。その後奈良原は白戸栄之助、伊藤音次郎らの民間パイロットを養成し、この地を拠点に活躍しました。 1987年(昭和62年)にこの鳳号が復元され、復元飛行したのを機に民間航空の資料を集めて、復元機とともに1989年(平成元年)4月29日に稲毛海浜公園内に「稲毛民間航空記念館」が開設されましたが、2018年(平成30年)3月31日をもって閉館しました。
今後施設は建物をリニューアル整備後、グランピング施設の受付場所・休憩施設として活用する予定で、施設改修後も鳳号の復元機はそのまま保存活用し、その他の展示物も可能な限り活用する予定になっているようです。
鳳号と稲毛の浜
奈良式四号機「鳳号」
かつては滑走路があった稲毛の浜

LCC、貨物はもとよりドローンでも産業に貢献を目指す
日本初のその歴史を引き継ぎ成田空港の開港で世界の玄関口となり、成田空港に隣接して航空科学博物館ができるなど、民間航空との結びつきは強く残っています。
羽田空港の拡張でその役割は変化していますが、現在でもLCCの就航は国内線4社・国際線15社と国内で最もLCCの就航が多い空港になっています。
また、航空貨物の量は、羽田空港をはるかに超える量で、航空貨物取扱量では世界9位にランキングしています。(2018年空港別貨物取扱量約1200空港を対象)
空の産業革命と呼ばれさまざまな分野への活用が期待されているドローン技術は、日本政府でもその技術を国家戦略として推進しています。ドローン特区として認定されている自治体は、宮城県仙台市、秋田県仙北市、徳島県那賀郡那賀町、そして千葉県千葉市です。
千葉市では海浜幕張地区で高層マンションを対象にした配送サービスや、セキュリティへの利用、薬の配送などを、2020年を目標に実用化させる方針で実験を進めています。
千葉県内にあるドローン練習場は、船橋市、八千代市、鴨川市、長柄町、袖ケ浦市、君津市、市原市、御宿町の他、千葉市には2箇所、更に千葉市には他に市の管理する施設等を活用し、法人向けのドローンの飛行場所「ドローンフィールド」が開設されています。
飛行機からドローンへ、千葉県は空の分野でも産業へ大きな貢献を果たし、これからも進んでいくでしょう。
航空科学博物館とドローン
航空科学博物館
ドローン

(2019/12/10)
Vol.21
台風15号の被害にあわれた皆様へ
 2019年9月9日に千葉県を襲った台風15号の影響で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。まずは日常生活を取り戻し、一日も早い復興を願っております。
 チバビズドットコムでは、微力ながらこれからも千葉の企業や産業、千葉のいい所を紹介し少しでもお役に立てるよう努力してまいります。
台風被害
過去最強クラスの台風で被害も甚大
 2019年(令和元年)9月5日に発生した台風15号(ファクサイ)は、中心気圧955hPa・最大風速45m/sの勢力を保ったまま9日午前3時前に三浦半島を通過し、東京湾を抜け北東に進み5時前に千葉市付近に上陸しました。
 強い勢力を保ったまま関東に接近するのは非常に珍しく、千葉市付近に上陸するときの勢力は中心気圧960hPa・最大風速40m/sの「強い」勢力で過去最強クラスだったそうです。
 航空機はもちろんのこと、鉄道各社の運転の見合わせ、復旧作業など多くの混乱を残しましたが、何より千葉県内に広域にわたって多くの被害をもたらしたのが停電でした。一時は93万戸が停電、台風上陸から12日後の21日午前6時半時点でも約4,600戸と発表されていました。
 9月30日現在でも実際には山間部など一部地域で解消されていない場所もあり、更に各家庭への引き込み線などの影響で通電しない場所も多くあるようです。また、電話回線も一部普通の場所が残っており、携帯キャリヤ各社も9月30日現在電源が復旧してもアンテナからの光ファイバーが復旧していないため、衛星などを経由して通信環境を復活するなどの対策を取っています。
屋根にブルーシート
風で飛ばされた飛来物が野立て看板に衝突
あちこちに屋根のブルーシートが見える

壊れた壁
高所作業車で屋根の修理を行っている家も
壁が崩壊してしまった家も

営業中止の施設も多く見かける
 台風15号の被害は、暴風による野立て看板の破損などの被害も多く見られますが、南房総ではコンビニエンスストアなどのポールサインという一番大きな看板などの破損も多く見かけました。
 房総半島の中部から南部にかけて、多くの建物は屋根の一部破損をブルーシートで応急措置が取られている建物を多く見かけましたが、報道がされていた通り鋸南町周辺は特に屋根の破損状況がひどく、ブルーシートが屋根全体にかかっている建物を多く見かけました。
 9月29日現在、報道されていたように富津市金谷港にある人気の観光施設「ザ・フィッシュ」では、海を眺めながら食事ができるガラス張りのレストラン部分のガラスは破損し休業状態に、鋸南町の保田漁協が経営する人気の漁師レストラン「ばんや」も一部破損し、部分営業を余儀なくされていました。
 房総半島の最南端、南房総市の白浜町ではホテルの窓と屋根全体が破損し、営業できない状態になるなど、いまだ復旧に向けての活動もできないような様子が見受けられました。
休館中の店
休館中の金谷港の「ザ・フィッシュ」
海に面したレストランのガラスが多数破損している

一部閉鎖で営業のばんや
鋸南町の漁師レストラン「ばんや」(災害前)
「ばんや」は施設の一部を閉鎖して通常営業

崩壊した屋根や店
南房総市白浜町のホテルは屋根が崩壊
君津市の国道沿いのファミレスは店が崩壊

がんばんべぇ千葉
 農業でも多くの被害が出ており、その被害額はかなりの額になるでしょう。漁業でも鋸南町の勝山漁協では養殖していた魚が全てだめになったという報道もあり、停電で電気が復旧するまではどの企業も営業ができない状態で、損失額まで合わせると膨大な金額なると思われます。
 電気が復活し、多くの企業は稼働し始めているようですが、一般の住宅の復旧はこれからで、義援金や多くのボランティアの方々の支援も支えになって何とか復旧へと進んでくれるでしょう。
 観光施設では被害が多かった木更津市の道の駅「うまくたの里」は、29日現在地元野菜などの販売も通常通り行っていますが、トイレが被害を受けたため仮設トイレを設置をして復興への努力をしていました。
 また、道の駅ブームをけん引した南房総市富浦町の道の駅「枇杷倶楽部」も通常通り営業はしているものの、ランドマークの塔の上部は屋根と壁が破損し、骨組みがむき出しになっています。停電も解消され観光施設では、破損はあるものの何とか営業を再開し、観光客が訪れるようになりはじめました。
 またネット上では手書きの南房総の観光マップがTwitterに投稿され、話題になっているようで、復興の声は既にSNSから発信がはじまっているようです。
 首都圏に近くて、海のものも山のものもある「観光地千葉」。来年にはオリンピックも開催されます。本格的な復活に向け「がんばんべぇ千葉」。チバビズドットコムでも応援していきます。
崩壊したビニールハウス
暴風で全壊したビニールハウスが至る所に
観光農園のビニールハウスも崩壊

うまくたの里と枇杷倶楽部
木更津の「うまくたの里」は仮設トイレで営業
「枇杷倶楽部」のむき出しになった屋根

お百姓市場と房総の駅とみうら
「枇杷倶楽部」に隣接する「お百姓市場」にも
ブルーシートが
鋸南インター前「房総の駅とみうら」でも施設の破損が

(2019/10/10)
Vol.20
特定非営利活動法人
NPOまちおこし佐原の大祭振興協会
菅原道真の人形
下仲町 菅原道真の人形(山車会館)

まちおこし佐原の大祭振興協会とは
 NPO法人まちおこし佐原の大祭振興協会は、2001年5月に設立認証されたNPO団体です。「佐原の大祭」と「佐原囃子(さわらばやし)や手踊りの振興」、そして大祭文化と佐原囃子文化の情報発信を通して佐原の「まちおこし」に参画する事で地域づくりに貢献することを目的としています。大祭時には企業ボランティアを含め多くの市民が活動しています。
 NPO設立のきっかけは、今から約30年前、平成元年に佐原の町の衰退に心を痛めた有志達が、佐原伝統行事として残っていた佐原の大祭を使って「まちおこし」につなげいこうと考えたことから始まりました。
 当時の佐原は、汚れた小野川、古い商家、酒と喧嘩の大祭と「佐原の三悪」と悪口をいわれたほどでした。「祭り=山車引き」という程で、祭りに参加している人だけが楽しむもので、観光客など相手にしていませんでした。
 有志たちは町の中心を流れる小野川を清掃し、河川敷に確保した駐車場から舟で町の中心に運べるようにしました。また、昔の記録を調査し本来の祭りの形に戻すように各町内の説得にあたりました。祭りに来てくれるお客様のための食事の確保、休憩場所やトイレの確保、小野川沿いにあったガードレールの擬木化や柳の植樹など町の景観改善も進めました。
 そのような有志が活動を続ける中でNPO法人まちおこし佐原の大祭振興協会が設立されました。
小野川
今では小野川も整備され観光舟が行き交う

商売繁盛になる祭り
 元々佐原の祭りは、1721年(享保6年)に始まった。現在の山車引きの祭りは、神事としての八坂神社・諏訪神社の祭りの余興として行われる附祭(つけまつり)として始まったものです。城下町でも門前町でもなかった佐原は、「見せる祭り」「参加してもらう祭り」「町にお金が落ちる祭り」「商売繁盛になる祭り」を目的に町が良くなるために活用していました。
 1877年(明治10年)にやっと今の25の町割りが整い、祭りの運営方法を整備してその記録を諏訪神社に収めていました。しかし、町のために行ってきた佐原の祭りは、太平洋戦争後から「祭りに参加している人だけが楽しむもの」に変化していました。
 佐原には住んでいる人が自分たちで町を作ってきたという歴史があり、特に(香取市になる前の)佐原市はその時代の流れを汲んで、民主導で行政は後ろから支えていくという立ち位置でした。再び佐原の繁栄を願う有志達に賛同して行政もそれに呼応して佐原の大祭を再び本来の姿に戻す活動が始まりました。そんな活動に呼応して様々なグループが作られ、それぞれの分野で活躍し始め、現在に至っています。
 2004年(平成16年)には「佐原の山車行事」として国の重要無形民俗文化財の指定、2016年(平成28年)には他の地域の32件の国指定重要無形民俗文化財である「山・鉾・屋台行事」として「ユネスコ無形文化遺産」に登録されました。
 また、祭りの運営は、交代で祭りを取り仕切る年番の町の関係者や、市役所、更に私たちNPO法人まちづくり佐原の大祭振興協会も参加した「佐原の大祭実行委員会」が設立され、交通規制やトイレの設置、また訪れたお客様へのおもてなしを行う等の祭りの運営を担うようになりました。
佐原の大祭
見せる祭りへ回帰

江戸優り(えどまさり)を継承する
 佐原の大祭に欠かせない伝統芸能に佐原囃子と手踊りがあります。佐原囃子は和楽器のオーケストラであり、祭りと同じ頃に出来上がったもので、作曲家を招き佐原に何年か逗留して佐原のために作曲してもらったものです。
 佐原周辺の北総地域には県をまたいで佐原囃子文化圏が存在し、小学校や中学校には伝統芸能部があります。町内には50ほどのお囃子のチームがあり、山車に乗れるのは24チームだけなので、毎週練習を行って腕を磨いているほどです。うまいチームは成田や潮来にも呼ばれて山車に乗って演奏しています。
 もう一つ祭りに欠かせない「佐原の手踊り」は、踊りの神様と呼ばれた七代目坂東三津五郎が振り付けた優雅な踊りもあり、佐原囃子とともに祭りに華を添えています。
 私たち協会は、佐原の大祭の山車祭りと佐原囃子、手踊りを守り世界に発信してもっと多くの観光客の方に来ていただけるよう日々努力しています。
 また、江戸の物流の要だった利根川は、佐原に文化まで運んでいました。商業で成功した旦那衆は町の繁栄のために尽くし、更に江戸を超えた文化づくりをしていました。「江戸優り」という言葉は今でも佐原の人たちのプライドとして残っています。
 このように祭りで町の発展を目指してきた佐原で私達協会は、これからも関連する団体との連携を取りながら、観光客へのおもてなしに磨きをかけ、「江戸優り」の文化を継承すると共に佐原の「まちおこし」を進めていきたいと思っています。
佐原の手踊り
佐原の手踊り

【取材先】
特定非営利活動法人NPOまちおこし佐原の大祭振興協会
事務局
〒287-0003 千葉県香取市佐原イ1689
(2019/9/10)
Vol.19
醸造業
醸造業
千葉の醸造業
醸造業とは微生物による発酵作用で食品を生産する産業をいい、主に味噌、醤油、酒などを指す言葉です。千葉県内にある味噌、醤油、酒など醸造業の会社はそれぞれ多彩な製品を製造し、国内外へ販売されています。
【味噌】
平安時代には高級品として食され、鎌倉時代には味噌汁として食されるようになり、一汁一菜という武士の食事の基本になりました。
室町時代になると大豆の生産量が増え、保存食としての味噌が庶民にも浸透し、江戸時代には江戸の人口が50万人にも達したことから、味噌の有名な産地の三河や仙台から送られていました。もちろん江戸のおひざ元、千葉でも味噌の製造は盛んに行われ、地元の消費はもとより、江戸にも送られました。
【醤油】
千葉県の醸造業の中でも規模が大きく特筆すべきものは醤油で、銚子と野田には国内はもとより世界進出した大メーカーがあります。
醤油は奈良から平安時代には食されるようになり室町時代には工業化も始まったようで、千葉の二大産地の一つ銚子には、地元の豪農が創業したヒゲタ醤油、紀州から銚子に渡って創業したヤマサ醤油の2社があり、もう一方の産地の野田は、豪族の高梨家、茂木家などを中心に発展し、明治20年(1887)には野田醤油醸造組合が組織され、その後野田醤油株式会社(キッコーマン株式会社の前身)になりました。
【味醂(みりん)】
味醂は、元々は、女性でも楽しんで飲むことのできると甘みのある高級酒として飲まれていました。調味料として使われたのが、江戸中期以降で、現在のように料理の調味料として多く使われるようになったのは、明治後期になってからです。
江戸中期までは三河(現愛知県)など西日本で生産され、江戸へも送られていました。その後、それまでの味醂が赤みを帯びたものだったのに対し、流山の醸造家、秋元家と堀切家が澄んだ透明に近い味醂の製造に成功し、前者を「赤味醂」後者を「白味醂」と呼ぶようになりました。「白味醂」は江戸で人気を博し、今では白味醂が主流になりました。
【清酒】
江戸の人口が爆発的に増えると、江戸の食糧供給基地である千葉の各地で盛んに清酒を作るようになりました。特に江戸への水運の大動脈だった利根川沿いの銚子から佐原にかけては次々と酒造家が生まれました。
伊能忠敬の伊能家もその一つで、佐原で最初の酒造家となり、それに続いていくつもの酒蔵ができ、江戸で消費される清酒の一大産地になりました。
清酒
利根川水運で発達した醸造業
日本の歴史の中では、朝廷や幕府は京都を中心とした関西圏にあり、文化の中心もまた関西圏が中心でした。食に関しても当然関西圏を中心に発達していましたが、転機となったのは江戸幕府の開府でした。
日本の実質的な首都が江戸に移ると、人口は急激に増え、一時期は世界で一番人口の多い都市へと成長し、徳川家康の利根川東遷によって利根川は江戸への物流の大動脈となりました。先にも述べたように、特に利根川沿いの地域にあった千葉の醸造業には大きな経済効果をもたらしました。
江戸時代後期になると清酒は灘の酒が全盛となり、千葉の清酒の消費地は、地元千葉に向けるようになっていきました。
千葉の醸造の技術は、元々は地引網などがそうだったように、関西圏から千葉へ伝承され、江戸の消費に対応してきました。明治になって物流が川から鉄道へと移っていくに従って、変化していきましたが、醤油と味醂だけはその地位を守り、醤油は世界へと羽ばたいていきました。
高瀬舟
江戸時代利根川輸送で使用された高瀬舟

千葉発の日本の醸造業が世界へ
日本食が世界に受け入れられるようになって、日本一の醤油を始め、日本酒、味噌、味醂など海外にも知られ、好まれるようになっています。
千葉県内には醤油メーカーは大小含め42社、味噌製造は21社、味醂製造は7社あります。
また、全国で400余りに拡大している「地ビール」とも呼ばれる「クラフトビール」は、千葉県内でおよそ20件、実際にビールを製造する「マイクロブリュアリー」と呼ばれる小規模醸造所は13社余りで、ビール造りもこれからも増えていくものと思われます。
他にもブランデー製造やワインセラーなどに挑戦している所も現れてきました。
地域の取り組みも始まり、木更津市は「地域特産物リキュール特区」に認定されたことで、地元の特産物を原料として使用し、市内の自己の製造場で製造する条件を満たせば、最低製造数量が6キロリットルから1キロリットルまで下げられるようになりました。この緩和措置によってリキュール製造のハードルが下がり、市場に参入しやすくなりました。
来年2020年東京オリンピックでは、幕張メッセ、一宮町などは会場となり、今まで経験したことのない数の海外からの観光客が訪れるでしょう。
江戸の食卓を支えた千葉の醸造業の製品が、彼らの胃袋を満足させ、お土産として買ってもらえるよう頑張りたいものです。そして、国に帰った観光客が千葉のそれぞれのブランドをアピールし、指名買いしてもらえるようになりたいものです。
日本酒と醤油
(2019/8/8)
Vol.18
鵜原理想郷(うばらりそうきょう)
鵜原理想郷
大臣村の建設計画
南房総の勝浦市から鴨川市にかけての海岸は、谷が沈んで出来た入り江が侵食でギザギザになったリアス式海岸です。鵜原理想郷は勝浦市鵜原地区の南東部にあり、木々や植物が岬の先端まで生い茂っています。
明治時代以降、政治家・財閥・華族等は、来日外国人を真似て西洋風の別荘レジャーを楽しむようになり、大正時代に入ると大手資本が箱根・軽井沢など、広大な山林・原野を取得し別荘地開発を行うようになりました。
観光開発のブームの中、当時の鉄道大臣大木達吉の秘書、後藤杉久が鵜原地区を別荘地として開発する計画を立てました。また、大臣たちの別荘「大臣村」の建設も計画し、東京から大臣を招いては大園遊会を開いていました。後藤杉久はその席上でこの別荘地の事を「鵜原理想郷」と呼んでいました。その後、大木達吉が正式に「理想郷」と名付け、昭和二年には鵜原駅を設置しその名を全国に広めました。
現在「鵜原理想郷」の入口にある宿「鵜原館」の経営者の伯父が後藤杉久だそうです。
理想館
鵜原理想郷のハイキングコースを示す看板
鵜原館

気軽に行けるハイキングコース
現在の鵜原理想郷はハイキングコースとして観光客が訪れています。1周2.3km程度で、多少のアップダウンはありますが、気軽に行けるスポットです。
黄昏の丘(たそがれのおか)は、海抜30mと理想郷で最も高い位置にあり、四方を見渡すことができます。北西に見えるのが鵜原海岸(うばらかいがん)で、「日本の渚・百選」に選ばれた遠浅で波静かな海岸で、夏は海水浴場として多くの人でにぎわいます。
白鳳岬(はくほうみさき)岬では鵜原島が、西に明神岬が見え、更に石切場と思われる跡地も見ることができます。
毛戸岬は、鵜原の最南端で、確報岬とはまた違った景色を楽しむことができます。
手弱女平(たおやめたいら)は、岬が東に向かって突き出た岩山で、理想郷のモニュメントの鐘があり、東に勝浦の海中展望塔が見え、その先に八幡岬が見えます。この岬から見える「ひとつやま」の右手には「青の洞門」と呼ばれる穴があります。波が岩を削り出来た穴で、潮が引いた時にこの洞門から見る海の色からそう呼ばれているようです。
2018年1月には、この手弱女平の散策路の脇で縄文土器片が発見され、手弱女平遺跡と呼ばれています。発見された土器片の一つは、縄文前期の「浮島式」と呼ばれるもので、もう一つは植物繊維が混じった土器で、縄文早期から前期のものだそうです。
的石岬と鵜原海岸
黄昏の丘から見える的石岬
日本の渚・百選に選ばれた鵜原海岸

石切り場の跡地
石切り場の跡地
海中展望塔と八幡岬

手弱女平
手弱女平の風化してあらわになった砂岩
手弱女平のモニュメントの鐘

青の洞穴
〇印が青の洞穴
手弱女平遺跡の碑

観光地化しない観光スポット
鵜原理想郷は大正時代、別荘地として開発されようとしていましたが、結局開発は実現しませんでした。その代わりに日本有数の景勝地として歌人の与謝野晶子、俳人の篠田悌二郎、作家の三島由紀夫他多くの文人に愛されました。
与謝野晶子は鵜原理想郷を訪れた際、全76首に及ぶ歌を詠み、三島由紀夫はここを舞台とした「岬にての物語」という小説を書いています。
太平洋戦争で海軍は1944年頃から特攻兵器「震洋」を作り、国内外に「震洋隊」として配置しました。その船のエンジンは自動車のエンジン、船体はベニヤ板で作られ、爆薬250kgを積んで、敵艦に体当たりするというものでした。
一億総玉砕が叫ばれていた1945年の終戦直前に鵜原にも「第55震洋隊」が配置されました。漁港周辺の断崖に掘られた倉庫も、かつては震洋の格納庫や司令部が置かれた場所でした。また、現在ハイキングコースとなっているトンネルは、人の手で掘った素掘りの軍事用施設だったところが多く、理想郷の周辺にたくさん見ることができるそうです。
縄文時代から現代まで、様々な形で人々とかかわってきた鵜原理想郷は、文人たちが愛したように、千葉のイチオシとして今のまま守って、「観光地化しない観光スポット」として愛され続けてほしいものです。
毛戸岬『篠田悌二郎』句碑
毛戸岬『篠田悌二郎』句碑
鵜原理想郷のガイドマップ

(2019/7/8)
Vol.17
ジオパーク
ジオパーク
ジオパーク銚子
ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所をいいます。
2004年にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の支援で設立された世界ジオパークネットワークが設立され、世界的に貴重な地質、地形、火山など地質遺産を複数所有する自然公園が世界ジオパークとしての審査・認定されています。
世界ジオパークに認定されるには、地質遺産の保護、地域の教育や科学振興、観光事業に活用することで地域社会の活性化に務めていることが必要になり、4年ごとの再審査で、適正や活動度がチェックされます。
日本で世界ジオパークに認定されているのは、北海道の洞爺湖有珠山、新潟県の糸魚川、長崎県の島原半島、京都府から兵庫、鳥取県までの山陰海岸、高知県の室戸、島根県の隠岐だけです。
一方NPO法人日本ジオパーク委員会が認定した「日本ジオパーク」は2018年9月現在44地域があり、千葉県内では2019年9月に銚子が認定されました。
犬吠崎灯台
犬吠埼灯台を望む君ヶ浜
犬吠埼灯台

銚子は地層の宝庫
千葉県の沖合には、北米プレートとフィリピン海プレートが沈み込み、そこに太平洋プレートも沈み込むという3つのプレートが重なる世界でも珍しい地域です。このプレートの影響を受けていることは、構成する地層の大部分が海洋プレートのかけらや海の堆積物から成り立っていることからもわかります。
千葉県で最も古い堆積岩は、白亜紀(今から1億3千万~1億1千万年前)に浅い海に堆積したもので、灯台のある犬吠埼で見ることが出来ます。
また、犬岩や千騎ヶ岩(せんがいわ)は犬吠埼よりさらに古い1億5千万年前の地質で、激しい地殻変動や風雨と波の浸食などによって出来上がったものです。
一方東洋のドーバーと呼んでいる屛風ヶ浦(びょうぶがうら)は、約300万年前に海底で堆積した地層の上に約10万年前の浅い海で堆積した地層が乗り、更に約5万年~1万年前に富士山などの火山灰が堆積した地層です。
屛風ヶ浦と千騎ヶ岩
屛風ヶ浦
千騎ヶ岩

犬岩
犬岩
岬は白亜紀の面影を残している

ジオパークで銚子を再発見
水産工業団地のそば、銚子ポートタワーの脇にある崖らしき所は、夫婦ケ鼻(めどがはな)という崖が続く景勝地でした。「メド=穴」「鼻=岬」という意味で、ぽっかりと洞穴の空いた岬でした。この地層は柔らかいものだったため、洞穴は1959年(昭和34年)に崩壊してしまいました。その後崖は漁港の改修工事で無くなってしまい、現在では銚子ポートタワー下に残っているだけになってしましました。
この地層は日本海形成の時代に堆積したものと同じ地層のため、日本列島が出来た秘密を解く鍵として注目されています。
この地層は今から1690~1650万年前に堆積したもので、鹿島沖の700~1100mで採取された改定の地層と同じということから、いかにこの辺りが隆起したかがわかります。
銚子の観光名所犬吠埼灯台には新しく犬吠テラステラスという商業施設もオープンし、観光客でにぎわっています。
都心から車で2時間余りのアクセスで、日本の大地の成り立ちがわかる。銚子のジオパークは千葉の一つの魅力として更ににぎわってほしいものです。
銚子ポートタワー
銚子ポートタワー
夫婦ケ鼻の跡を見ることが出来る

犬吠テラステラス
灯台の傍には2019年にオープンした「犬吠テラステラス」と老舗「ドライブインなぎさや」が並んで観光客を迎える

(2019/6/10)
Vol.16
飯高檀林(いいたかだんりん)
飯高檀林
檀林とは
「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」と言うたとえは、「香木の白檀(=栴檀)は発芽のころから香気を放つ」という意味で、転じて「優れた人は幼少期から優れている」という意味になります。
その「栴檀を僧侶」に、「集まりを林」にたとえ、仏教の学問所の事を栴檀林(せんだんりん)、略して檀林と呼びます。
徳川幕府は、僧侶が武士に対抗する勢力となった過去の事例を恐れて作ったのが檀林という僧侶の学校で、後進の育成、仏教の勉強・研究が行われていました。
中でも最古の飯高檀林は、1573年に現在の匝瑳市飯塚にある光福寺の要行院日統上人(ようぎょういんにっとうしょうにん)が勉強をする学室を開いたことが前身とされ、後に京都から教蔵院日生を招いて、1579年に土地の有力者・平山刑部の後援を得て飯高寺に移し、日蓮宗の仏教の学問所として明治になるまでその役割を果たしていました。
飯高檀林
大学のルーツ檀林
飯高檀林は日蓮宗の檀林で、初等教育から専門課程まで、1名目部、2四教儀部、3集解部、4勧心部、5玄義部、6文句部、7止観光部、8御書科の8階級の過程が設定されていました。飯高檀林の地位は高く、他の檀林で学んできた僧侶が編入してきた場合、一つ下から始めるというほどでした。卒業は無く、ある程度の段階まで学び、飯高檀林から巣立って地元に帰る僧侶もいたようです。
山梨県の身延山久遠寺、東京都の池上本門寺、鴨川市の小湊山誕生寺など、日蓮宗の関東の総本山や大本山級の住職は飯高檀林で修業を積んだ僧侶が多かったそうです。
飯高檀林が設立された後、小西檀林(妙高山正法寺=大網白里市)、中村檀林(正東山日本寺=多古町)が設立され、飯高檀林と合わせて関東三檀林と呼ばれていました。
檀林は明治になって学生が引かれ、明治8年にその役割を終えましたが、飯高檀林を礎にして開学されたのが立正大学です。
一方浄土宗では、関東十八檀林と呼ばれる檀林が設立され、その中の龍澤山大巌寺(千葉市)、仏法山東漸寺(松戸市)は千葉県内にあった浄土宗の檀林です。十八檀林のうち千葉市の大巌寺を礎に開学されたのが現在の淑徳大学です。
日本寺と正法寺
かつての中村檀林 正東山日本寺(多古町)
 かつての小西檀林 妙高山正法寺(大網白里市)

記念碑と立て看板
立正大学発祥の地の記念碑とそれを説明する立て看板

大学の礎を新たな資源に
明治時代以降、飯高寺ではいくつかの建物が取り壊されたり売却・移築されたりしましたが、江戸時代前期〜中期に建てられた講堂、鐘楼、鼓楼、総門は明治の廃檀当時からそのままの形で残されており、遺構として貴重かつ文化的価値が高いとして、昭和55年(1980年)に国の重要文化財に指定されました。
講堂は徳川家康の側室、勝浦城城主正木頼忠の娘、お万の方(養珠院)が寄進しましたが、その後焼失。現在の講堂は1651年(慶安4年)水戸藩の援助でたれられたものです。
檀林の周辺には徳川光圀(水戸黄門)のゆかりの黄門桜や、天神の森などもあり、NHKの朝のテレビ小説「とと姉ちゃん」「ゲゲゲの女房」「西郷どん」などのドラマ、映画「忍びの国」などのロケ地としても使われています。
また、匝瑳市教育委員会生涯教育課の主催で1995年から毎年ゴールデンウイークに開催さる「新緑祭」では檀林の講堂を舞台に、境内を客席にして、クラッシックなどのコンサートが開催されています。最古の大学としての役割を終えた飯高檀林ですが、歴史的価値だけではなく、別の用途でもその新しい価値を生み出しています。
朝ドラのロケ地
●所在地
妙雲山飯高寺(飯高檀林跡)
〒289-2141 千葉県 匝瑳市 飯高1789
(2019/5/13)
Vol.15
外房サイクルサポーターズ
外房サイクルサポーターズ
外房サイクルサポーターズとは
千葉県茂原市から勝浦市までの地域を訪れるサイクリスト達をサポートするための団体です。ロードバイク用のサイクルスタンドを設置し、水やトイレの提供、空気入れの貸し出しなどを行う「サイクルエイドステーション」として協力してくれる企業などを募る活動をしています。
参加してくれる企業には、サイクルスタンド、空気入れ、サイクリストたちの目印になるのぼり旗代として15,000円(税込み)を払っていただいています。それ以外の費用は一切発生しません。地道に活動したおかげで、会の趣旨に賛同いただいた加盟店の数は昨年2018年9月から現在までで47件になりました。
外房サイクルサポーターズの「サイクルエイドステーション」は2018年1月からJR東日本千葉支社が運行しているサイクルトレイン「B.B.BASE(BOSO BICYCLE BASE)」の「B.B.BASE協力施設」とも連携し、外房を訪れるサイクリストたちのサポートをする機能をはたしています。
私たちの活動を知ってくれた方達が役所に紹介してくれたり、仲間達が紹介してくれたりと、いすみ市から茂原市、御宿町、一宮町、白子町、長生村へとその輪はますます広がっています。
サイクルサポーターズの旗
サイクルエイドステーションにはサイクルサポーターズの旗が目印

外房を訪れるサイクリストたちのために
外房サイクルサポーターズを作るきっかけとなったのは、現在の事務局となっているピア宮敷にある「café pia miyashiki」の前をロードバイクの人が通っているのを見かけたことからでした。「なぜこんなところに」と思い調べてみると、千葉県のサイトでサイクリングを推奨していたり、JRのB.B.BASEなどサイクリングを紹介するサイトなどが出てきました。しかし、何故か茂原から勝浦までのサイクリストの協力施設がないことに気づきました。JR東日本に問い合わせてみると、自転車を立てるためのラックを用意すること、水を提供してあげること、トイレを貸してあげること、空気入れを用意してあげることを満たせば、「B.B.BASEエイドステーション」としてJR東日本千葉支社のB.B.BASEに掲載してくれるという事でした。
手続きは意外と簡単で、「ここだけでやっていても仕方がない」ということで、ボランティア活動などで知り合った仲間に声をかけ、活動メンバー4人で昨年2018年9月に「外房サイクルサポーターズ」として活動を始めました。この活動を千葉日報などでも取り上げていただきました。
café pia miyashikiり
café pia miyashikiには収集した各地のサイクルマップを置いてサイクリスト達をサポート

地域をつなぎ、企業をつなげる
旧いすみ町地域は田んぼしかない所で、今までは「何を売りにしたら良いか」といっていましたが、サイクリスト達はそんなところが好きです。この外房サイクルサポーターズの活動を通して、サイクリストの人達が来てくれて、地域にお金を落としてくれる。エリアの集まりで、多業種の集まりだから良いのだと思います。
飲料メーカーが私たちの活動に関心を示してくれて、加盟店がサイクリスト達に配るノベルティをお願いし、自転車メーカーにも協力を呼び掛けたり、大手企業にも協力をしてもらうようアプローチしています。
この活動に参加した人と人、企業と企業、地域と地域が出会って緩くつながって、地域活動やそれぞれの事業で誰かと一緒にやりたいことがあったら、その話に手を挙げてくれる人だけが一緒にやる。あえて緩い集まりとして地域に貢献しながら、それぞれの事業にも結び付けていければ良いと思っています。
私たちは本来は行政がやるようなベースづくりを民間の任意団体でやっていますが、補助金などは一切もらっていません。補助金などをもらうようにするには組織を作る必要がでてきますが、私達はそんな縛りをあえて作らず活動しています。
このしくみややり方は、やりたいという方がいれば、全てお教えします。その土地が好きな方がやるのが一番です。
今後も外房サイクルサポーターズの中心メンバー達は、本業を大切にしながら、無理なくやれるところで続けていきたいと思っています。
サイクルサポーターズの中心メンバー
サイクルサポーターズの中心メンバー

●取材先
外房サイクルサポーターズ
事務局
〒299-4504 千葉県いすみ市岬町桑田341-1ピア宮敷第1工房内
URL: https://www.sotobo-cycle.com/
Facebook: https://www.facebook.com/pages/category/Local---Travel-Website/%E5%A4%96%E6%88%BF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA-504589939999105/
(2019/4/8)
Vol.14
NPO法人いすみ竹炭研究会
いすみ竹炭研究会
いすみ竹炭研究会とは
いすみ竹炭研究会は、本気で大地再生に取り組む自然環境団体です。
全国的に竹の広がりが大きな問題になっていますが、千葉県もかなり竹が多く、繁殖力旺盛な竹は里山や森林の木々を枯らしながら凄いスピードで広がっています。
経済、便利社会の発展により、私たちの生活は山と離れ、放置は進む一方。
山に入っていた人も今は山には入れない高齢者・・・
このままだと全ての里山が竹山になるのも時間の問題です。
竹山になると、実の成る木々も枯れ、多種多様な生き物が住めなくなり、力を失った大地は水を吸わず、雨が降っても鉄砲水のように土の上を流れ、ミネラル豊富な水が山から流れなくなるので、川も農地も海も衰退して行きます。
農業、水産業が要であるいすみ市にとって、かなり大きな打撃となります。
私たちは、早急にこの問題を解決するために、無料で整備することを決め、今23現場目の竹林整備をしています。
整備面積は、2年間で約20,000坪、枯れ竹や弱った竹、古い竹を間引きして美しい竹林が生まれています。
整備して伐り出した竹は、開放炉で焼き、驚異的な大地再生(水、土、空気を健全な状態に戻す)をする、ポーラス(多孔質体)竹炭という資源にしています。
多くの人たちに、たくさんの竹炭を大地に還してもらいたいので、心を込めて作ったポーラス竹炭は、破格で提供しています。
月一回の竹炭イベント、年一回の竹炭シンポジウム、市の広報、HP、ポスター、チラシ等々で、私たちの存在は、かなり認知されるようになり、整備した現場の地主さんからの感謝の声が人から人へとクチコミで広がり、今現在整備依頼待ちが21件です。
美しい竹林と、大地再生のポーラス竹炭は、自然を愛する仲間たちの心で、どんどん増えています。
ポスターとチラシ
シンポジウム開催ポスター
里山再生を訴えるチラシ

竹炭で大地再生に取り組む
いすみ竹炭研究会の西澤代表は、東京生まれ東京育ち。生命保険のライフプランナー時代に生活習慣病やアレルギー、難病などの原因が「食」にあることに気づき、一大決心をしてオーガニックな作物を作る農業に転身しました。しかし、長年のハイヒールを履いた生活がたたって、腰痛を患い断念してしまいました。その後田舎生活を求めて、好みの物件を探していたところ、偶然に出会ったのがいすみ市の物件でした。
移住生活を始めて間もなく、「竹炭シンポジウムinいすみ」というシンポジウムに参加し、竹や有機物を使った大地再生の話を聞いて衝撃を受けました。
それは山を再生することで農地はもちろんのこと、川や海まで健全な状態になる好循環を作っていくというもので、当初目指していたオーガニックな農業の風上にあたる取り組みでした。
その後半年にわたって溝や穴を掘って竹炭や有機物を入れる里山再生プロジェクトに参加し、鉄砲水のように雨水が地表を流れていた所が、大地に浸透していく様を目撃しました。そこで、2016年11月にプロジェクトに参加していた仲間18名で「いすみ竹炭研究会」を発足しました。
山の再生と竹炭づくり
山肌も見え、土留めも設置されている
伐採した竹は手作りの炉で竹炭づくり

ノウハウもオープンに
今では会のメンバーは180人以上に増え、発足当初は月2回程度活動していましたが、それでは増える竹のスピードにも追い付かないし大地再生の竹炭もたくさん作れない、作業は日に日に増え一年半前頃からは、週5日のペースで活動するようになりました。
全国各地で私たちの活動を真似してくださるところが増えたら、地球がきれいになっていきます。そのために心がけているのは、「誰にでも負担なく始めれる仕組み作り」。
若い人たちにも取り組んでもらいたいので、極力お金をかけないように心がけています。
活動を始めるのには、道具が必要です。
県の財団や市の助成金を申請して準備しました。
今、会を支えてくれている柱が、善意の支援、皆様の任意の寄付金です。
まだまだ多くの人たちを雇用できるまでにはなっておりませんが、背中を押してくれる皆の心が私たちの原動力となっています。
これからの目標は認定NPO法人です。
寄付してくださった個人や企業が税制上の優遇を受けれるのでWinWinの関係になり、寄付してくれた企業のイメージアップにも繋がり社会貢献出来ます。 寄付の増加が期待できて、多くの人を雇用できる仕組みを作れることになり、ガンガン整備が進み、ジャンジャン竹炭ができ、グングン組織が膨らみます。 夢に描いているのは、竹炭や有機物で大地を再生した里山、農地などのモデル地を作り上げることです。
私たちの物語は始まったばかりです。
豊かな自然との共生に向かって、本気で挑んで参ります。
伐採した竹
伐採した竹は人手で積み上げられていく
伐採した竹の山

●取材先
いすみ竹炭研究会
住所非公開
Mail:isumi.tikutan@gmail.com
URL: https://www.isumitikutan.org/
Facebook: https://www.facebook.com/isumitikutan/
(2019/3/11)
Vol.13
NPO婆沙羅(きもの美人)
佐原きもの美人
NPO婆沙羅とは
NPO婆沙羅とは佐原で「きもの美人」という江戸情緒が残っている江戸優り佐原のまちを着物で散策してもらうためのレンタル着物サービスを提供する団体です。
江戸時代に栄えた江戸優り佐原は昔の風景が残る着物の似合うまちで、着物を着ることで普段と違う自分になってより佐原の魅力を感じてもらう事を目的としています。
代表のINOUE美容室の井上先生の志で、自分の持っている美容師の技術でまちに貢献したいという想いに賛同する人たちが協力し、婆沙羅が誕生しました。
婆沙羅の名前は、サンスクリット語でダイヤモンドを意味し、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉として使われていました。普段と違ったいでたちで楽しんでもらうというコンセプトから、婆沙羅とつけました。
婆沙羅の設立当初は、「千葉県の地域活性化プラットフォーム事業」を活用して2年間運用のための仕組みづくりを行い、佐原商工会議所がその支援を行いました。
小江戸佐原の街
綺麗に着物を着てもらいたい
婆沙羅の活動は、タウン誌などで市民の方々に呼びかけ、タンスで眠っている着物を提供してもらうことで、まちづくりに参加してもらうという呼びかけから始めました。その結果、市民の方々の賛同を得、50着もの着物が集まりました。
婆沙羅のサービスは着物のレンタルから着付け、ヘアセットまですべて含んで6,000円と通常では実現できない価格で提供しています。それは、ボランティア団体であることだけでなく、代表の井上先生が観光地でよくある着物レンタルのような中途半端な着せ方ではないきちんと着付けやヘアセットをして綺麗に着てもらい佐原のまちを歩いて欲しいという想いからです。
今では男性の着物も用意し、また、海外の旅行客が増えてきた事にも対応するため着幅や着丈を調整するなどの対応もしています。
また、海外からの観光客も全体の3〜4割ほどに増えて、英語圏だけではなくアジア圏の観光客など言葉が通じない場合も多くなってきたため、着付けに関しての注意事項などを書いた多言語カードなども手作りで用意し、外国人にも安心して楽しんでもらえるよう努力しています。
カップルで着物レンタル
佐原の有志たちとリンク
NPO婆沙羅の活動は、国土交通省観光庁「二ユーツーリズム創出・流通促進事業」で採択され、「着物で楽しむ佐原の町並みと食めぐり」という商品を作って、食と体験を加えた取り組みなども行いました。
他にも佐原で「食と文化の結合」をテーマに活動する「結いの会」が行なっている古典朗読会を着物姿で聞いてもらうなど、他の地域活性活動とも連携した活動を行なっています。
また、きもの美人のサービスをご利用いただいたお客様に、佐原のまちにあるお店で、お買い物をしていただくと、金額の10%を割引してもらえる「佐原まちめぐりパスポート」をお渡ししています。この「佐原まちめぐりパスポート」をご利用いただく事で、商店街の活性化にも貢献できるよう協力しています。
佐原が好きで、街のために一役買うことがミッションとして活動している仲間がたくさんいる中で、私たちNPO婆沙羅は他のまちおこしの団体とも連携を取り、着物を通して江戸優り佐原の良さを国内外に発信しています。
佐原まちめぐりパスポー
●取材先
NPO婆沙羅(きもの美人)
事務局
〒287-0003 千葉県香取市佐原イ525-1(佐原商工会議所内)
佐原きもの美人のお申し込み
参加料金:1日6,000円(内訳:着物レンタル一式、着付け、ヘアセット、佐原まちめぐりパスポート、お茶券付き)
毎週火曜日、第一・第三水曜日定休
きもの美人ホームページ: http://basara-sawara.com
予約:0478-52-2373(INOUE美容室)
(2019/2/12)
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