Chibabiz.com
千葉県企業の情報サイト
〈チバビズドットコム〉

HOME ぴかいちば チバビズ探訪 ちばのたね ホームページ道場 バックナンバー チバビズ・マルシェ
業界探訪 組合・団体活動情報
チバビズ探訪
千葉県内の業界組合、各種団体をご紹介。
異業種交流、団体加盟などに
ご利用ください。

チバビズ探訪 バックナンバー(61~72)
Vol.72 【ちばのへり】犬吠埼
犬吠埼
日本の灯台50選に選ばれた重要文化財
 千葉県の最東端にあたる銚子半島にある犬吠埼は日本一早い初日の出スポットとして知られています。日本三大河川のひとつ「利根川」の河口付近にあり、付近一帯は水郷筑波国定公園に含まれている景勝地です。
 沿岸には遊歩道が設けられており、岩場を散策できるようになっています。また隣接している君ヶ浜海岸は「日本の森滝渚全国協議会」が加盟自治体から選んだ「日本の渚100選」に選ばれています。
 銚子は醤油の生産地として栄え、更に銚子沖は魚介類が豊富で、多くの船舶が入出港していましたが、犬吠埼付近は岩礁や暗礁が多く、海流が複雑で「鳴門海峡」、「伊良湖岬沖」と共に海の三大難所といわれ多くの人が亡くなった場所で、その状況を変えるべく銚子漁港の改修と灯台の設置が求められ、1874年(明治7年)に「犬吠埼灯台」が竣工・初点灯しました。
 この「犬吠埼灯台」は日本を代表する灯台のひとつになっており、1998年(平成10年)11月1日の第50回「灯台記念日」の行事として海上保安庁が募集し一般の投票で選ばれた「あなたが選ぶ日本の灯台50選」に野島埼と共に選ばれました。また、国際航路標識協会が1998年(平成10年)に提唱した「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」で選ばれた日本国内の5つの灯台のひとつにもなっています。更に2010年(平成22年)には「犬吠埼灯台」が国の登録有形文化財に登録され、2022年(令和4年)には国の重要文化財にも指定されました。
利根川
岩場には散策路が作られている
利根川河口

犬吠埼灯台
銚子一帯は岩場が多く存在する
国の登録有形文化財になっている犬吠埼灯台

白亜紀の地層は江戸時代のオプショナルツアーで人気
 地球は表面を覆う十数枚の厚さ100kmほどの「プレート」に覆われています。千葉県の沖合は「北米プレート」に「フィリピン海プレート」が沈み込み、それに「太平洋プレート」が沈み込む3つのプレートがひしめき合っている世界でも珍しい地域で、更に房総半島はひとつの地層で成り立っているわけでなく、いくつかの地層が集まってできた半島です。
 南部の「安房丘陵」はプレート上の堆積物がはぎ取られ陸側に押し付けられたもので、中央部の「上総丘陵」は深海の泥と浅い海からの砂が交互に重なった層が陸化したもの、更に北部の「下総台地」は内海(かつての浅かった東京湾)であった部分が気候変動による海面水準の変化で陸化した土地と、異なった地層が集まって出来ています。
 一方銚子は下総台地から続く海岸線は海洋プレートに乗ってはるか遠洋の海底から運ばれてきた「チャート(堆積岩:放散虫など石英質の殻を持つ生き物が溜まって出来た石)」や、大陸の砂岩や泥岩が集まってできており、「安房丘陵」「上総丘陵」「下総台地」とも異なった地層で出来ています。更に犬吠埼の南端「長崎鼻」は人類も誕生していない1億4,550万年前から6,600万年前にあたる「白亜紀」にできた砂岩や泥岩、2000万年前の溶岩が固まった「安山岩」などが存在し、他の地域とは異なった成り立ちで出来ている事がわかります。
 房総半島のほかの地域とは異なった成り立ちの犬吠埼は、江戸時代には観光スポットとして人気を博していました。江戸時代の旅行で人気だったのが「伊勢神宮」参拝の代わりになるとされた「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」の三つを巡る「東国三社巡り」でした。また「オプショナルツアー」として銚子海岸を旅する「磯めぐり」も人気を博していました。「磯めぐり」は、「江戸前」東京湾とは違った太平洋に面した荒々しい海と岩場、「源義経」の愛犬が岬に置き去りにされ、主人を慕うあまり7日7晩泣き続けた事から「犬吠埼」と名付けられたその場所は、旅を感じる景色だったのでしょう。また、義経の犬が「犬岩」になったとされる伝説も旅心を掻き立てる要素だったかもしれません。
九十九谷
南房総に広がる安房丘陵
九十九谷と呼ばれている上総丘陵

犬岩
犬吠埼南端の長崎鼻
 源義経の愛犬が岩になったと伝説になっている「犬岩」

洋上発電と犬吠埼でかつての繁栄を取り戻す
 海の安全を守り観光の目玉になる「犬吠埼灯」と「犬吠埼灯台」、更に古代の地層を見る事が出来る「ジオパーク」と犬吠埼周辺が銚子観光の目玉になっている一方、昨今ではエネルギー政策の一端を担う「風力発電」の拠点としても注目を集めています。
 「東洋のドーバー」として知られる屛風ヶ浦がある「下総台地」は、太平洋に面し、年間の平均風速が6mを越える地域である事から、たくさんの風力発電の風車が建設され、巨大な風車の並ぶ景観はみごたえのある物になっています。
 また、風力発電の取り組みは「洋上風力発電」への取り組みへと新たな展開が始まっています。東京電力は2009年(平成21年)8月から国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の公募事業で銚子沖に国内初の着床式の洋上風力発電所を建設しました。更に研究を重ね、2013年(平成25年)からはNEDOと共同で実証実験を実施しましたが、心配された漁業への影響は、海中にある基礎部分に藻類が付着し、魚介類が住み着いていることが分かり、漁業との共生にも期待が持てる事がわかりました。この「洋上風力発電」は2019年(令和元年)には商用運転を開始しました。
 更に三菱商事は、共同事業体「千葉銚子オフショアウインド」を作り2028年(令和10年)に30基の風車が回る「洋上風力発電所」完成を目指して銚子市と共に新たな取り組みが始まっています。発電された電気は千葉県香取市にある東京電力の「新佐原変電所」を経由して首都圏に送られるようになります。自然減と都市部への流出で人口の減少と少子高齢化が進む銚子市は、産業の後継者不足が課題となっており、やりがいが感じられる雇用を早急に創出する必要があり、この「洋上発電所」建設のプロジェクトに大きな期待をしています。
 一方観光では銚子が「地質遺産」として2012年(平成24年)に「銚子ジオパーク」が日本ジオパーク委員会に認定され、観光の新しい目玉がひとつ誕生したものの、残念ながら2018年(平成30年)に「犬吠埼マリンパーク」が閉館になり、64年の歴史を閉じました。
 しかし、翌2019年(平成31年)元日に地域活性化・観光振興・情報発信を目的とした「犬吠テラステラス」がオープンし、地元産の魚の加工品や野菜などを販売するマルシェ、県内の物産を販売するマーケット、地ビール工房やカフェ、更に犬吠埼からの景観を楽しめる展望テラスなどで今では犬吠埼の大人気スポットになっています。
 また、日本財団が行っている「海と日本プロジェクト」の一環で展開されている全国88の灯台を擬人化した「燈の守り人(あかりのもりびと)」プロジェクトが2020年(令和2年)から始まり、犬吠埼を擬人化したキャラクターの贈呈式が2023年(令和5年)2月に行われました。このプロジェクトは、夫々のキャラクターを主人公に、声優によるボイスドラマの配信を皮切りに、漫画やイベントなど幅広い展開が行われ、若者たちの心を掴む取り組みも行われました。銚子電鉄はこの取り組みに参加し、車両のヘッドマークや中吊りを掲示するイベントを行った他、「犬吠テラステラス」ではキャラクターをプリントしたTシャツやバッグ、タオルなどが販売されています。
 「洋上発電」で地域創生に取り組み、犬吠埼の新たな観光スポットの登場で、かつての観光地「犬吠埼」復活と更なる発展に期待しましょう。
ヴィーナス岬
下総台地には沢山の風力発電の風車が並ぶ
洋上発電の実証実験で設置された風車と風力観測の塔

犬吠テラステラス
灯台下には手紙を出せば願いが叶うといわれるポスト
犬吠埼の新しい人気スポット「犬吠テラステラス」

(2024/3/8)
Vol.71 【ちばのへり】浜金谷
浜金谷
房州石の産地だった絶景スポット鋸山
 富津市の金谷は通称「浜金谷」と呼ばれ、現在は神奈川県の久里浜を結ぶ「東京湾フェリー」が就航している浜金谷港フェリーターミナルがある地域です。2000年(平成12年)には浜金谷港に隣接した場所に大型施設「ザ・フィッシュ」がオープンし、多くの観光客を集めています。また、金谷港の近くには1916年(大正5年)開業の千葉県の最西端に位置する内房線の「浜金谷駅」があります。
 この地域には国内外の多くの観光客がやってくる「地獄のぞき」で有名な「鋸山」があります。富津市と鋸南町にまたがる「鋸山」は凝灰岩でできた山で、建材に適している事から「房州石」と呼ばれ、江戸時代から盛んに採石が行われ、石材として金谷から江戸へと運ばれていたため、「浜金谷」は当時「房州石」の産地として知られていました。「房州石」の採石は江戸時代から昭和まで続きましたが、自然保護規制の強化によって1985年(昭和60年)に砕石は終了し、石切り場や石材を搬出する跡は今では「産業遺産」になっています。
 実は「鋸山」は725年(神亀2年)に開山された「日本寺(にほんじ)」の境内になっており、「日本寺」の山号になっている「乾坤山(けんこんざん)」が「鋸山」の正式名称で、かつて房州石の採石が盛んに行われ、岩を採取して露出した岩肌が「鋸の歯」の様に見える事から「鋸山」と呼ばれるようになりました。
 かつて賑わったこの地域に過疎化の波が訪れ、名産である「房州石」の歴史を振り返り「石と芸術のまち金谷」というテーマで町おこしを目的に2010年(平成22年)に「金谷美術館」がオープンしました。その後「金谷美術館」は2019年(令和元年)に「鋸山美術館」と改名し、現在も金谷ゆかりの資料や寄贈された美術品を収蔵しています。
東京湾フェリー
金谷と三浦半島の久里浜を結ぶ東京湾フェリー
JR内房線「浜金谷」駅

房州石
産地らしく今でも「房州石」の塀を見る事が出来る
「金谷美術館」改め「鋸山美術館」

軍事拠点だった浜金谷
 現在の金谷地域は、戦国時代の初期には「里見氏」が支配する安房と「真里谷武田氏」が支配する上総の境目に位置していたため、激しい攻防の影響を受けた地域でした。また、東京湾は単なる漁場だけでなく、東国の流通を支える大動脈となっており、東京湾岸に住む漁夫達は集団を形成し、漁業や海上輸送などに従事しながら自らの領域を侵犯された場合は成敗できる権限を持っていました。戦国時代になって安房を支配していた「里見氏」は、その権限を持った漁夫達を統制するようになり、「水軍」として機能していました。この水軍の拠点となっていた場所のひとつに金谷がありました。
 明治時代になると金谷周辺は、東京湾を守る軍事的な目的でも使われるようになり「浜金谷」がある富津市には軍事目的の施設がいくつも作られました。東京湾の入り口を塞ぐように突き出した富津岬は、横須賀の観音崎や猿島とともに幕末から太平洋戦争の防衛上の要となっており、明治時代から大正時代にかけ、外国の軍艦から首都を守るため、富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ東京湾口には海上要塞の第一海堡・第二海堡・第三海堡が築かれ砲台が置かれました。しかし実際には敵艦が東京湾を襲う事は無く、実戦で活躍する事はありませんでした。第一海堡と第二海堡は現在でも見る事ができますが、第三海堡は完成から2年後の1923年(大正12年)に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受け、構造物のほとんどが海中に没してしまい、暗礁化して航路障害になっていた事から、航行の安全を図るために2000年度(平成12年度)から2007年度(平成19年度)にかけて撤去工事が行われ、現在その姿を見る事は出来ません。
 また、関東大震災で被害を受けた第三海堡の代わりなのか、1923年(大正12年)に作られた応急砲台のひとつが「金谷砲台」で、金谷港の近く、鋸山北方の山上に建設され、東京湾に向けて4つの砲座が並んで設置されました。この砲台は太平洋戦争まで残っていましたが、太平洋戦争後の1960年代(昭和30年代)には跡地に「砲台山ハイランド」という遊園地が建設されましたが、1970年代(昭和40年代)に閉鎖になったそうです。
富津岬
東京湾に突き出した富津岬
富津岬の沖合には第一海堡と第二海堡

災害にもパンデミックにも負けない
 東京湾を守る重要拠点として軍事目的で利用される事が多かった「浜金谷」は、太平洋戦争後に占領軍GHQの命令で解散した「東亜海運」を母体として1957年(昭和32年)に設立されたのが「東京湾フェリー」で、1960年(昭和35年)に金谷―久里浜間の運行を開始しました。「東京湾フェリー」は東京湾を横断する人や自動車を運ぶ重要な動脈として機能するようになり、1994年度(平成6年度)の年間利用客は約280万人に達するまでになりました。しかし、1997年(平成9年)に開通した東京湾アクアライン連絡道(通称:東京湾アクアライン)によって、それまで東京湾を横断する唯一の手段だった東京湾フェリーは利用客減少の多大な影響を受け、「浜金谷」の象徴であるフェリーは経営危機に陥ったものの、様々な努力で現在も維持されています。
 2006年(平成18年)に金谷の町おこしを目的に周辺地域内外の有志が集まって設立されたのが「金谷ストーンコミュニティ」で、鋸山の調査研究の他、保全維持のため、住民や関係者と共に山の整備・清掃活動を行っている団体です。この団体が2019年(令和元年)に千葉県を襲った台風15号で鋸山の登山道が通行止めになるなどの復興を目的に「鋸山復興プロジェクト」を立ち上げ、クラウドファンディングで400万円近い資金調達をして尽力し、復活させました。
 このように金谷地区は様々な外的要因によって苦境に立たされ続けていましたが、かずさ地域の活性化と発展を目論見、この苦境を打破しようと富津市と鋸南町にまたがる「鋸山」を両自治体が協力して「日本遺産認定」を目指す活動が始まっています。この活動を応援する「2023年鋸山を日本遺産へ応援プロジェクト」が2023年(令和5年)12月に開かれ、鋸山とその周辺で「環境クリーン活動」や講演会、花火などいくつかのイベントが行われ、3年後の総括評価に向けた活動をサポートしています。
 また、台風15号では「鋸山」だけでなく周辺の住宅の屋根が飛ぶなど過去に経験した事が無いような壊滅的な被害を受け、断水や数日間にわたる大規模停電が続きました。富津市随一の観光客が訪れる施設「ザ・フィッシュ」も東京湾ビューを売りにしたガラスが割れるなどの被害を受け、営業再開まで1カ月間を要しました。しかしようやく台風の被災からようやく復興し観光客が戻り始めたものの、コロナ禍によっても引き続き大きな影響を受けました。
 復興した今では、奇岩が重なり合って独特の景観を持つ「鋸山の地獄覗き」、山頂からの眺望は東京湾をはじめ、富士山、三浦半島、伊豆半島から伊豆七島と関東一円を見渡す大パノラマ、夕日が美しい金谷港とともに訪れたいデートスポットになっている金谷には、恋人の聖地に登録され、「幸せの鐘」が設置されるなど若者たちの人気のスポットとして、「婚活ツアー」なども行われているようです。
 「日本遺産」に認定されれば、「浜金谷」にも今までよりも多くの観光客が訪れる事だろうと思います。無事「日本遺産認定」される事を願ってこれからの「浜金谷」に注目しましょう。
ヴィーナス岬
台風被害にあった鋸山
海に面した窓ガラスが割れたザ・フィッシュ

ヴィーナス岬
地獄覗きからは東京湾の絶景を見る事が出来る
フェリー乗り場の敷地にある恋人の聖地になった幸せの鐘

(2024/2/9)
Vol.72 【ちばのへり】犬吠埼
犬吠埼
日本の灯台50選に選ばれた重要文化財
 千葉県の最東端にあたる銚子半島にある犬吠埼は日本一早い初日の出スポットとして知られています。日本三大河川のひとつ「利根川」の河口付近にあり、付近一帯は水郷筑波国定公園に含まれている景勝地です。
 沿岸には遊歩道が設けられており、岩場を散策できるようになっています。また隣接している君ヶ浜海岸は「日本の森滝渚全国協議会」が加盟自治体から選んだ「日本の渚100選」に選ばれています。
 銚子は醤油の生産地として栄え、更に銚子沖は魚介類が豊富で、多くの船舶が入出港していましたが、犬吠埼付近は岩礁や暗礁が多く、海流が複雑で「鳴門海峡」、「伊良湖岬沖」と共に海の三大難所といわれ多くの人が亡くなった場所で、その状況を変えるべく銚子漁港の改修と灯台の設置が求められ、1874年(明治7年)に「犬吠埼灯台」が竣工・初点灯しました。
 この「犬吠埼灯台」は日本を代表する灯台のひとつになっており、1998年(平成10年)11月1日の第50回「灯台記念日」の行事として海上保安庁が募集し一般の投票で選ばれた「あなたが選ぶ日本の灯台50選」に野島埼と共に選ばれました。また、国際航路標識協会が1998年(平成10年)に提唱した「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」で選ばれた日本国内の5つの灯台のひとつにもなっています。更に2010年(平成22年)には「犬吠埼灯台」が国の登録有形文化財に登録され、2022年(令和4年)には国の重要文化財にも指定されました。
利根川
岩場には散策路が作られている
利根川河口

犬吠埼灯台
銚子一帯は岩場が多く存在する
国の登録有形文化財になっている犬吠埼灯台

白亜紀の地層は江戸時代のオプショナルツアーで人気
 地球は表面を覆う十数枚の厚さ100kmほどの「プレート」に覆われています。千葉県の沖合は「北米プレート」に「フィリピン海プレート」が沈み込み、それに「太平洋プレート」が沈み込む3つのプレートがひしめき合っている世界でも珍しい地域で、更に房総半島はひとつの地層で成り立っているわけでなく、いくつかの地層が集まってできた半島です。
 南部の「安房丘陵」はプレート上の堆積物がはぎ取られ陸側に押し付けられたもので、中央部の「上総丘陵」は深海の泥と浅い海からの砂が交互に重なった層が陸化したもの、更に北部の「下総台地」は内海(かつての浅かった東京湾)であった部分が気候変動による海面水準の変化で陸化した土地と、異なった地層が集まって出来ています。
 一方銚子は下総台地から続く海岸線は海洋プレートに乗ってはるか遠洋の海底から運ばれてきた「チャート(堆積岩:放散虫など石英質の殻を持つ生き物が溜まって出来た石)」や、大陸の砂岩や泥岩が集まってできており、「安房丘陵」「上総丘陵」「下総台地」とも異なった地層で出来ています。更に犬吠埼の南端「長崎鼻」は人類も誕生していない1億4,550万年前から6,600万年前にあたる「白亜紀」にできた砂岩や泥岩、2000万年前の溶岩が固まった「安山岩」などが存在し、他の地域とは異なった成り立ちで出来ている事がわかります。
 房総半島のほかの地域とは異なった成り立ちの犬吠埼は、江戸時代には観光スポットとして人気を博していました。江戸時代の旅行で人気だったのが「伊勢神宮」参拝の代わりになるとされた「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」の三つを巡る「東国三社巡り」でした。また「オプショナルツアー」として銚子海岸を旅する「磯めぐり」も人気を博していました。「磯めぐり」は、「江戸前」東京湾とは違った太平洋に面した荒々しい海と岩場、「源義経」の愛犬が岬に置き去りにされ、主人を慕うあまり7日7晩泣き続けた事から「犬吠埼」と名付けられたその場所は、旅を感じる景色だったのでしょう。また、義経の犬が「犬岩」になったとされる伝説も旅心を掻き立てる要素だったかもしれません。
九十九谷
南房総に広がる安房丘陵
九十九谷と呼ばれている上総丘陵

犬岩
犬吠埼南端の長崎鼻
 源義経の愛犬が岩になったと伝説になっている「犬岩」

洋上発電と犬吠埼でかつての繁栄を取り戻す
 海の安全を守り観光の目玉になる「犬吠埼灯」と「犬吠埼灯台」、更に古代の地層を見る事が出来る「ジオパーク」と犬吠埼周辺が銚子観光の目玉になっている一方、昨今ではエネルギー政策の一端を担う「風力発電」の拠点としても注目を集めています。
 「東洋のドーバー」として知られる屛風ヶ浦がある「下総台地」は、太平洋に面し、年間の平均風速が6mを越える地域である事から、たくさんの風力発電の風車が建設され、巨大な風車の並ぶ景観はみごたえのある物になっています。
 また、風力発電の取り組みは「洋上風力発電」への取り組みへと新たな展開が始まっています。東京電力は2009年(平成21年)8月から国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の公募事業で銚子沖に国内初の着床式の洋上風力発電所を建設しました。更に研究を重ね、2013年(平成25年)からはNEDOと共同で実証実験を実施しましたが、心配された漁業への影響は、海中にある基礎部分に藻類が付着し、魚介類が住み着いていることが分かり、漁業との共生にも期待が持てる事がわかりました。この「洋上風力発電」は2019年(令和元年)には商用運転を開始しました。
 更に三菱商事は、共同事業体「千葉銚子オフショアウインド」を作り2028年(令和10年)に30基の風車が回る「洋上風力発電所」完成を目指して銚子市と共に新たな取り組みが始まっています。発電された電気は千葉県香取市にある東京電力の「新佐原変電所」を経由して首都圏に送られるようになります。自然減と都市部への流出で人口の減少と少子高齢化が進む銚子市は、産業の後継者不足が課題となっており、やりがいが感じられる雇用を早急に創出する必要があり、この「洋上発電所」建設のプロジェクトに大きな期待をしています。
 一方観光では銚子が「地質遺産」として2012年(平成24年)に「銚子ジオパーク」が日本ジオパーク委員会に認定され、観光の新しい目玉がひとつ誕生したものの、残念ながら2018年(平成30年)に「犬吠埼マリンパーク」が閉館になり、64年の歴史を閉じました。
 しかし、翌2019年(平成31年)元日に地域活性化・観光振興・情報発信を目的とした「犬吠テラステラス」がオープンし、地元産の魚の加工品や野菜などを販売するマルシェ、県内の物産を販売するマーケット、地ビール工房やカフェ、更に犬吠埼からの景観を楽しめる展望テラスなどで今では犬吠埼の大人気スポットになっています。
 また、日本財団が行っている「海と日本プロジェクト」の一環で展開されている全国88の灯台を擬人化した「燈の守り人(あかりのもりびと)」プロジェクトが2020年(令和2年)から始まり、犬吠埼を擬人化したキャラクターの贈呈式が2023年(令和5年)2月に行われました。このプロジェクトは、夫々のキャラクターを主人公に、声優によるボイスドラマの配信を皮切りに、漫画やイベントなど幅広い展開が行われ、若者たちの心を掴む取り組みも行われました。銚子電鉄はこの取り組みに参加し、車両のヘッドマークや中吊りを掲示するイベントを行った他、「犬吠テラステラス」ではキャラクターをプリントしたTシャツやバッグ、タオルなどが販売されています。
 「洋上発電」で地域創生に取り組み、犬吠埼の新たな観光スポットの登場で、かつての観光地「犬吠埼」復活と更なる発展に期待しましょう。
ヴィーナス岬
下総台地には沢山の風力発電の風車が並ぶ
洋上発電の実証実験で設置された風車と風力観測の塔

犬吠テラステラス
灯台下には手紙を出せば願いが叶うといわれるポスト
犬吠埼の新しい人気スポット「犬吠テラステラス」

(2024/3/8)
Vol.70 【ちばのへり】大東岬
大東岬
リアス式海岸と灯台
 いすみ市は2005年(平成17年)夷隅町、大原町、岬町の3つが合併し千葉県で34番目に誕生しました。そのいすみ市の北東部、九十九里浜の南端にあたる太東海水浴場から更に南下すると、鋸の歯が連なったように続く「リアス式海岸」にあるのが太東岬です。
 太東岬は房総丘陵の東端に位置し岬の東端は標高が最高で68mにもなる断崖絶壁になっています。岬は主に火山から噴出された火山灰の堆積による凝灰岩で出来ており、他の石に比べもろい性質を持つ「海食崖(かいしょくがい)」になっています。1703年(元禄16年)に千葉県東方沖が震源地で関東地方を襲ったマグニチュード8.2の巨大地震「元禄地震」では太東岬が8kmにも渡って崩壊し海に沈んだそうです。
 この海食崖の影響なのか、いすみ市から勝浦市の沖合には「器械根(きかいね)」と呼ばれている水深20m前後の砂場と岩場が入り組んだ特殊な「磯棚」があり、そこは日本はおろか世界でも有数の漁場といわれています。「器械根」という名前は、かつてこの漁場で「器械潜水」という潜水服を着てアワビ漁などをしていた事からその名がついたとされています。この「器械根」がある場所は黒潮と親潮がぶつかる所で、プランクトンや鰯をはじめたくさんの小魚が集まるため、ヒラマサなど大型の魚も集まりやすく、更に海底にはカジメなどの海藻が生え、それを餌にしているサザエ、アワビなどが生息しています。浜からは沢山の釣り船が「器械根」にこぞって船を出し釣りをする姿や、浜で釣りを楽しんでいる姿を見る事が出来ます。
 このリアス式海岸の太東岬には太東埼灯台が設置されています。初代の太東埼灯台は1950年(昭和25年)に海沿いに設置されましたが、海食崖の浸食で倒壊の恐れがあったため、1972年(昭和47年)に太東岬展望台よりも100m陸側にセットバックした場所に改築されました。セットバックしても、高さ16mの塔は21海里先まで照らしているそうです。
太東岬の海食崖
切り立った太東岬の海食崖
器械根に集まる釣り船

太東岬灯台
器械根を望む磯でも多くの釣り愛好家が集まる
改築された太東岬灯台

日本初の天然記念物
 1972年(昭和47年)に設置された新たな太東埼灯台の前には、太東岬展望台が整備されています。太平洋戦争の最中にこの場所は米軍機の侵攻を探知するため、海軍が「電波探知機」を設置していました。ここには「電波探知機」を操作するための直径7~8mほどの円形地下操作室がありましたが、「海食崖」の崩落によって海中に沈んでしまい、礎石だけが残っているそうです。また、隣には「電波探知機」への攻撃に対抗するために設置された機関銃座の跡も残されています。
 整備された展望台は360度見渡せる絶景ポイントになっており、正面に太平洋を望み、北側には九十九里浜を見る事が出来ます。また、南側には夷隅川河口や干潟、更に「日在浦(ひありうら)」という「日在海岸」から「大原海岸」へ続く砂浜まで見渡す事が出来、遠くには房総丘陵の山々を見る事ができます。また、散策路が整備され小さな売店も置かれ、初日の出のポイントとしても知られています。
 この太東岬がある地域は南房総国定公園になっており、岬の南端にある砂浜には1920年(大正9年)日本で最初の国の天然記念物に指定された「太東海浜植物群落」があります。「海浜固有の植物群落があって特殊な生態を示している」という事で認定されたそうです。今では海蝕によって規模は小さくなり、クロマツは滅失してしまったそうで、現在は防波堤で守られています。今でも見られる植物はトベラ、ヤブニッケイ、マルバグミ、テリハノイバラ、ハマヒルガオ、ハマエンドウ、ハマボウフウ、ラセイタソウ、ハマニガナ、コウボウムギ、ケカモノハシ、イソギクなどがあります。
機関銃座跡
米軍の侵攻を探知する電波探知機の礎石が残っている
米軍の攻撃に対抗するため設置された機関銃座跡

九十九里浜
太東岬からは遠く九十九里浜を見る事が出来る
南側には干潟や日在浦、更に房総丘陵を見渡せる

太東海浜植物群落潮風
太東海浜植物群落潮風
黄色い小さな花を咲かせているイソギク

「恋のヴィーナス岬」と「恋する灯台」で新たな魅力
 地元の人たちが美化に取り組んできた太東岬展望台には、プロポーズや告白がうまくいくという伝説があるようで、別名「恋のヴィーナス岬」とも呼ばれているそうです。また、2019年(令和元年)には「恋する灯台」にも認定されました。
 「恋する灯台」は一般社団法人日本ロマンチスト協会が認定しており、日本財団が行っている「海を未来へ引き継ぐアクションプロジェクト」の一環として、灯台を「ふたりの未来を見つめる場所」と定義し、「ロマンスの聖地」へと再価値化する事を目的としています。日本全国の灯台からロマンスの聖地にふさわしい灯台を「恋する灯台」に認定し、更に灯台がある地域を「恋する灯台のまち」として認定する事で、灯台の地域の観光資源としての価値を見直し、その灯台を訪れる老若男女を増やす事で「再価値化」していく事を狙っています。
 2023年(令和5年)11月現在「恋する灯台」に認定されている場所が国内40箇所で、千葉県では太東埼灯台のほか、2018年(平成30年)に認定された飯岡灯台があります。
 2007年(平成19年)からは太東岬展望台では「太東埼灯台まつり」が行われており、コロナ禍で2年間は中止を余儀なくされましたが、2023年(令和5年)5月に復活し「第15回太東埼灯台まつり」が開催されました。メイン行事の「絶叫大会」のほかフリーマーケットも出店されて大いに賑わいを見せたそうです。
 太東岬はかつて国防を支えるポイントとして、今では太平洋を望み、九十九里浜、太平洋、房総丘陵と絶景ポイント、そして「恋のヴィーナス岬」と、地元の人々の努力と工夫によって更に注目されるポイントへと進化させてくれるかもしれません。
ヴィーナス岬
太平洋を望む太東岬展望台
恋のヴィーナス岬と恋する灯台

(2024/1/10)
Vol.69 【ちばのへり】香取神宮津宮一ノ鳥居(津宮鳥居)
香取神宮津宮一ノ鳥居(津宮鳥居)
香取神宮の玄関口「津宮一ノ鳥居(つみやいちのとりい)」
 道の駅「水の郷さわら」から1km程下った利根川の河岸にポツンとあるのが香取神宮の鳥居「津宮一ノ鳥居」です。この「津宮一ノ鳥居」は、かつて人々が香取神宮を訪れる玄関口として参拝客を迎える玄関口になっていました。今はサイクリスト達でにぎわう自転車専用道路「大利根サイクリングロード」が川沿いを通り、江戸時代とは違った賑わいを見せています。
 江戸時代に整備された利根川は、江戸への物流の動脈として機能し、川沿いの街の発展にも一役買っていました。また、戦国時代を経て平和になった江戸時代になると、次第に庶民の生活も豊かになり、レジャーの一環として旅行も行われるようになりました。船は荷物だけでなく移動手段として観光客を運ぶようになりました。
 中でも江戸から近い上に、香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の「東国三社巡り」が人気で、この三社を参拝すると「伊勢神宮に参拝したのと同じご利益が授かる」と多くの観光客が訪れていました。なかでも香取神宮と鹿島神宮は、元旦の早朝に天皇陛下が天地四方の神々を拝し年災消滅、五穀豊穣を祈っている神々の中の一社になっているほど天皇家とのゆかりの深い神社です。
 江戸時代に観光客は船で香取神宮を訪れるため、表参道は現在の場所とは異なり、利根川河岸にある「津宮一ノ鳥居」から香取神宮に続く道が表参道になっており、観光客はそこを通って香取神宮に参拝していました。
 当時の江戸庶民に流行っていた「三社詣(さんじゃもうで)」のコースは朝方に出発して日本橋小網町から船で行徳まで移動し、陸路で木下河岸(きおろしかがん)まで移動していました。木下河岸にある三社巡りをする遊覧船の「木下茶船(きおろしちゃぶね)」に乗り込み「神崎河岸」で船を降りで一泊します。翌朝神崎を発って「津宮河岸」で下船し、「津宮一ノ鳥居」を通って旧参道から香取神宮に参拝し、「津宮河岸」から再び船で移動して「息栖神社」と「鹿島神宮」も参拝していました。
 また「三社詣」のオプションとして「三社詣」の後に繁華街のあった潮来で宿泊し、稲敷市の大杉神社や銚子の磯巡り、成田山新勝寺の参拝などもしていたようです。
香取神宮
神武天皇18年創建といわれている香取神宮
利根川河岸に置かれた津宮一ノ鳥居

津宮一ノ鳥居
鳥居の横には大利根サイクリングロードが通っている
津宮一ノ鳥居から続く香取神宮の旧参道

「国譲り」の神話にかかわる「津宮一の鳥居」
 現在の利根川流域は、「香取海」という大きな内海が広がっており、香取神宮と鹿島神宮の二社の入り口は香取海の対岸に位置していました。日本書紀には大和朝廷は当時東北にいた蝦夷(大和朝廷に服属しなかった一族)を支配するため日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの香取の海を渡ったと思われる記述があるようで、「東国三社」と言われていた香取神宮、鹿島神宮、息栖神社はこの蝦夷を支配するための拠点として創建されたものだと考えられています。
 日本神話では「天照大神(あまてらすおおみのかみ)が暮らす「高天原(たかまがはら)」と死者の世界「黄泉の国(よみのくに)」の間にある「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めるのは天照の子供が治めるべきだと「葦原中国」を治めていた「大国主神(おおくにぬしのかみ)」の元へ使いを送り、その結果「大国主神」が国を譲る事になったという「国譲り」という物語にその経緯が書かれています。
 「天照大神」が「国譲り」の交渉のために使いとして送った「天穂日命(あめのほひのみこと)」、更に「天若日子(あめのわかひこ)」が失敗し、三度目に「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」と「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」二柱の武神を送ってが武力で解決しようと試み、ようやく国を譲る事になったというお話です。
 この「天照大神」が送った武神の「建御雷之男神」が祀られているのが鹿島神宮、そして「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」が祀られているのが香取神宮の主祀神になっています。更にこの二柱の神を東国への先導した「久那戸神 (くなどのかみ)」を祀っているのが息栖神社で、この三つの神社を併せて「東国三社」と呼んでいました。
 古代はいずれの神社の前に「香取海(かとりのうみ)」が広がっており、「建御雷之男神」と「経津主大神」はこの「香取海」から上陸したとされ、「経津主大神」は津宮一ノ鳥居の場所から上陸されたとされています。後に徐々に「香取海」が埋め立てられ、江戸時代になって「利根川東遷」行われても河岸には「津宮一ノ鳥居」が据えられました。
鹿島神宮一ノ鳥居と息栖神社一ノ鳥居
北浦に続く鰐川に建てられている鹿島神宮一ノ鳥居
常陸利根川沿いの息栖舟溜りに建つ息栖神社一ノ鳥居

十二年に一度やってくる神が上陸した地
 「津宮一ノ宮鳥居」の河岸には1769年(明和6年)に作られた夜道を照らす「常夜燈」が置かれており、この「常夜燈」は、香取市の文化財になっている他、文化庁が認定した「日本遺産」の「北総四都市江戸紀行 ~江戸を感じる北総の町並み~」の「構成資産のひとつ」になっています。
 また、江戸時代には蘭学者の「渡辺崋山」、俳人の「小林一茶」、文人の「川東碧梧桐(かわひがしへきごとう)」など多くの文人墨客も津宮を訪れ、1911年(明治44年)には夫の「与謝野鉄幹」と共に津宮を訪れた歌人の「与謝野晶子」は、蒸気船で利根川を遡り、「津宮一ノ鳥居」から香取神宮を訪れ、佐原で講演会と短歌会を開いて佐原から汽車で上野へと帰っていったそうで、晶子の詠んだ短歌の碑も置かれています。
 「国譲り」の神話になぞらえ、十二年に一度香取神宮で行われる「式年神幸祭」では、「経津主大神」が東国を平定した時の様子を表すもので、200人規模の氏子が平安時代の装束をまとい行列を組んで巡行した後「津宮河岸」から、位の高い人が乗る豪華な「御座船(ござぶね)」に乗り利根川を遡って鹿島神宮の船の出迎えを受ける様子を再現しています。
 「経津主大神」を祀り、香取神宮を総本社とする「香取」の名前を社名に持った「香取神社」は関東を中心に全国に400社にのぼるまでに拡大するなど大きな力を持っており、香取神宮の2023年(令和5年)の全国初詣参拝客数は、52万人にのぼり、全国で37位にランクされるほどの規模の神社に位置しています。
 今も「香取神宮」は数多くの参拝客を集め、「佐原のシンボル」として街の賑わい作りの大きな要素として機能しています。そして今でも主祀神を迎えた津宮河岸と「津宮一ノ宮鳥居」は、迎える参拝客がいなくなった今でも、十二年に一度開催される「式年神幸祭」のため、そして歴史遺産として残されていくでしょう。
八幡神社
香取市指定文化財になっている「常夜燈」
与謝野晶子の歌碑

(2023/12/8)
Vol.68 【ちばのへり】八幡岬(はちまんみさき)
八幡岬(はちまんみさき)
神が住んでいた八幡岬
 八幡岬は、勝浦湾の東側に突き出した細長い半島で北、西、南の三方は切り立った崖で、北東は山が迫る守りやすく攻めにくい天然の要害(ようがい)になっています。千葉県の「房総の魅力百選」に選ばれ、岬の突端からは勝浦湾や太平洋を望む事が出来、初日の出スポットとして知られています。また、岬の東側の根元にあたる海抜70mの「ひらめきの丘」にある1917年(大正6年)に設置された勝浦灯台は犬吠埼灯台や野島崎灯台と並び県内を代表する灯台のひとつになっています。太平洋戦争の末期にはアメリカの軍艦載機による20数回の攻撃で相当の被害を受け、その後数回にわたり機器の改良が行われ、1983年(昭和58年)には灯塔も改築され、今はタイル貼りの灯台になっています。
 八幡岬の突端から西方向の岩礁に鳥居があるのが見えます。この鳥居のある岩礁は富貴島(現在は平島)と呼ばれ、江戸時代までは「富大明神」という神社がありました。しかし、1601年(慶長6年)に発生した津波によって神社は流され、更に富貴島も1703年(元禄16年)に発生した元禄大地震によって沈んでしまって岩礁になってしまいました。現在は「富大明神」が勝浦市街に移され、「遠見岬(とみさき)神社」と名前を変え「かつうらビッグひな祭り」で広く知られるようになりました。
 「遠見岬神社」の祭神は「天富命(あめのとみのみこと)」で、四国から八幡岬に居を構え、麻を植えたり、養蚕、織物、製紙、漁業、建築などの技術を伝承して関東全域の発展に寄与されたとされています。この「天富命」は天皇家の祖先の「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が「天照大神(あまてらすおおみのかみ)」から地上を治めるように言われ、地上に降臨した際に従えていた「天太玉命(あまのふとだまのみこと)」の孫にあたる神様だということです。
八幡岬と勝浦灯台
勝浦海中展望塔の向こうに見えるのが八幡岬
ひらめきの丘に建つ勝浦灯台

遠見岬神社
写真右手の白波の所に遠見岬神社の鳥居が見える
ひな祭りではひな人形が並ぶ遠見岬神社

岬の先端にある城跡の公園
 八幡岬の突端には現在八幡岬公園がありますが、この場所はかつて「真里谷信興(まりやつのぶおき)」が築城したといわれる勝浦城がありました。
 真里谷氏の祖は、室町時代前期に甲斐国を治めていた「武田信満(たけだのぶみつ)」の次男「武田信長」が1456年(康正2年)に上総国を摂取し、1458年(長禄2年)に長南城(長南町)、真里谷城(木更津市)を築き上総武田氏の祖になりました。真里谷氏は信長の孫の「信興(のぶおき)」が興し上総国の戦国大名になりました。
 その後「真里谷家一族」は内紛で勢力が弱まり、里見家家臣の「正木時忠」が勝浦城に入りました。やがて時忠は里見氏からの独立を目論み北条氏に属するため、北条氏に5男の「頼忠」を人質に差し出しました。その後「頼忠」は「北条氏隆」の娘(智光院)と結婚し子供を設けました。その子供の中に「徳川家康」の側室だった「お万(のちの養珠院)」がいたといわれています。
 1575年(天正3年)に「頼忠」の父「時忠」が亡くなり、正木氏の家督を継ぐはずだった兄が急死したため、「頼忠」は小田原に妻や子を残したまま勝浦に戻り家督を相続しました。
 小田原に残された「頼忠」の妻子は、北条氏直の家臣「蔭山氏広」と再婚し、「頼忠」の娘「お万の方」は養女として育てられました。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で河津城の城主「蔭山氏広」は戦わずして開城し、「お万」は実の父「正木頼忠」を頼って勝浦城に逃れました。同年に「徳川家康」の家臣「本田忠勝」が勝浦城を攻撃した当時、14歳になっていた「お万」は炎上する勝浦城から母と幼い弟を連れ、岬の東側40mの断崖に「白い布」を繋いでロープ代わりにし、崖を降りて海から小舟で館山方面に逃れました。この事は「お万の布晒し」として伝承されています。この事で八幡岬の展望デッキには勝浦湾に向かって立つ「お万」の像が置かれています。
 逃げ伸びた「お万」はその後沼津の名主に養育され、「徳川家康」に沼津の本陣で見初められ側室となり、1602年(慶長7年)にはのちに紀伊徳川家の祖となった「徳川頼宣」出産し、1603年(慶長8年)には水戸徳川家の祖となった「徳川頼房」を出産し、その子「徳川光圀(水戸黄門)」の祖母になりました。
 1616年(元和2年)に「徳川家康」が亡くなり、1619年(元和5年))「お万」は「養珠院」となり1653年(承応2年)に亡くなりました。
勝浦城址の石碑とお万の像
八幡岬公園内にある勝浦城址の石碑
展望デッキに建立されたお万の像

勝浦湾に向いて立つお万の方像
お万の像脇に置かれているプレート
勝浦湾に向いて立つお万の方像

歴史の片鱗を見せる景勝地
 八幡岬公園には歴史にまつわる物がいくつか残されています。駐車場から八幡岬崎公園へと進んでいくと左手に八幡神社があります。この八幡神社の祭神は、第15代天皇の応仁天皇の「誉田別命(ほんだわけのみこと)」で武家の守護神として知られています。この神社は勝浦城があった当時の中核部分に建立されている事から、勝浦城の代々の領主から崇敬されていたものと思われます。
 八幡神社を過ぎ、更に岬の先端へ進んでいくと「忠霊塔」があります。この「忠霊塔」は日清・日露戦争から太平洋戦争の戦没者たちを慰霊するために建立されたもので、以前は勝浦市出水にある覚翁寺(かくおう寺)の裏山に1955年(昭和30年)建立されていました。山の上にあった当時は、管理が行き届かず荒れるに任せる状態が続き毎年市の職員と寺が力を合わせ、除草作業を行っていました。この「忠霊塔」では建立後60年もの間8月15日の終戦記念日には市の職員と遺族会が黙とうをささげ、真珠湾攻撃の日の12月8日には地元の仏教会が読経をしていました。しかし、高齢化する遺族にとって山道を登るのは大変で、年々訪れる人が減少していく状態だったため、2016年(平成28年)に市と遺族会で参拝しやすい場所として八幡岬公園が選ばれ建立されました。
 八幡岬は「房総の魅力百選」勝浦湾や太平洋を望み多くの観光客が訪れる景勝地になっていますが、一方で戦国時代からの歴史の痕跡を辿る場所でもあります。「勝浦のヘリ」「八幡岬」は歴史の片鱗を見せてくれる景勝地として観光客を迎える事でしょう。
八幡神社
代々の城主が信仰していた八幡神社
八幡岬公園先端の展望広場からは水平線が見える

勝浦周辺は断崖が続くリアス式海岸
戦没者を慰霊するための「忠霊塔」
勝浦周辺は断崖が続くリアス式海岸

(2023/11/10)
Vol.67 【勝手に注目】ジビエ
ジビエ
日本におけるジビエ
 ジビエ(gibier)とはフランス語の「狩猟」という意味で、食材として捕獲された野生の鳥獣やその肉を指す言葉です。かつてフランスでは上流階級の人々しかジビエを入手できなかったため、高級食材として貴族などが食べていました。
 日本でも古くからジビエを食べる習慣はあったものの、仏教が殺生を禁じている事から、1871年(明治4年)までは表向きは禁止されていました。肉食が解禁されてからも家畜肉が普及し、ジビエ肉は生産量が少ないため、庶民にとっては高根の花でジビエ肉を食べる文化が定着する事はありませんでした。また、太平洋戦争後には食糧生産に力を入れた結果、畜産も盛んになり、鶏肉や豚肉が安く手に入るようになったため、食の欧米化が進んで肉食が定着してもジビエを食べる習慣は一般に定着しませんでした。
 近年では野生動物が住宅街に出てきて襲われたり、農作物が被害にあったりと社会問題になっています。一方、ジビエを調達する狩猟免許の所有者数は1975年(昭和50年)に51.8万人でしたが、2018年(平成30年)には20.7万人と半分以下に減少しています。その理由は野生動物の保護が騒がれていた事と、猟師の高齢化、更に過疎化などが大きく影響しています。
イノシシの肉を使ったボタン鍋
イノシシの肉を使ったボタン鍋
捕獲されたイノシシ

千葉県の有害鳥獣の現状と県の取り組み
 農林水産省が発表した2023年(令和3年)度の「全国の野生鳥獣による農作物の被害状況」によると、全国の有害鳥獣による農作物の被害額はシカの被害が609,700万円で1位、次いでイノシシが391,000万円で2位となっています。千葉県はシカの数が少なく被害額も大きなポジションを占めていませんが、イノシシに関しては被害額が11,667万円と関東では1位、全国でも11位の被害額になっています。
 他にも千葉県は外来種の「キョン」の被害も多く問題になっています。「キョン」はシカの一種で、中国南東部及び台湾に自然分布し、ニホンジカよりも小さな動物で、千葉で繁殖してしまったのは、かつて勝浦市にあった観光施設の「行川アイランド」から逃げ出したものが野生化した事だそうです。「キョン」は繁殖力が高く外来種で生態系のかく乱に繋がると心配もされています。
 そこで千葉県は地域・市町村・県が一体となって、防護・捕獲・生息環境整備及び資源活用の野生鳥獣対策を総合的に推進するため、2007年(平成19年)に県・市町村・関係団体で構成する「千葉県野生鳥獣対策本部」を設置し野生鳥獣被害対策を進めています。また、県内で捕獲され、県内の食肉加工施設で適切に処理されたイノシシやシカの肉は「房総ジビエ」として料理コンテストやフェアを開催するなど、消費拡大に取り組んでいます。
 千葉県内で房総ジビエを提供する飲食店は2023年8月現在66店舗、東京都には6店舗までに拡大しており、入手できる飲食店向けの販売店が12件、消費者向けの販売店が10店舗までに拡大しています。また、最近では食肉卸業者を経由して県内のスーパーや道の駅などでも販売されるようになってきました。
東京湾フェリー
千葉市内のスーパーでも房総ジビエ肉が販売されている
フラミンゴショーが有名だったかつての行川アイランド

鯛の浦観光船
千葉県内ではいちばんの厄介ものイノシシ
外来種のキョン

野生鳥獣被害を解消するための様々な取り組み
 牛、豚、鶏など家畜は毎日安定的に飼料を与えられ、更に小屋などで飼われているため肉の脂肪分は多く柔らかくて脂身のジューシーですが、ジビエは自然の中を駆け回っていたので、肉はあっさりとした赤身でヘルシーな肉として認知されるようになってきました。
 一方で野生動物を捕獲する「猟師」として生活していける環境が整わないと担い手を確保する事が出来ません。猟師が猟師として生活できる環境を作っていく事が大きな課題になっています。
 以前チバビズでも紹介させていただいた、「ALSOK千葉」のジビエ工房では各地域で仕掛けた罠で捕獲されたイノシシを引き取りから精肉までを請け負い、茂原の「ジビエジャポン茂原」を通して販売しています。一方チバビズで紹介させていただいた「猟師工房」では猟師の育成や精肉した肉を傘下の「猟師流通」を経由して千葉県内に限らず全国レベルでジビエを流通させる取り組みが行われています。更に猟師工房は2023年4月に君津市の片倉ダム記念館内に「ジビエ」をテーマにした施設「猟師工房ドライブイン」をオープンし、ジビエ関連の直売と普及に取り組むなど、民間企業の取り組みが始まっています。
 また、農林水産省は「農林水産業流通マッチングナビ『agreach』」を用意し、ジビエ肉の販売先確保を助けています。
 野生動物には様々な細菌や病原体を保有しているリスクがありますが、ジビエ肉の流通は猟師の「自己責任」で行われているケースが多いようで、安全が担保されない状態で流通している事が多いようです。本来、飲食店や個人に「販売」する場合は、食品衛生法が適用されますが、実態は食品衛生法に抵触している物が流通している場合が見受けられるようです。そこで厚生労働省は2023年(令和5年)6月には「野生鳥獣肉の衛生管理に関する指針(ガイドライン)」を一部改正し、食の安全性を担保するため様々な取り組みが進んでくると思われます。
 野生鳥獣被害を解消していくためには民間企業の努力だけでなく、国・県・市町村が協力して、ジビエ文化を浸透、猟師の育成、流通機構の構築、安心・安全な精肉環境の確保などまだまだ課題は多そうです。
ケーズハーバー
「竹りん」で提供されている
2023年に君津市にオープンした「猟師工房ドライブイン」

(2023/10/10)
Vol.66 【勝手に注目】観光船
観光船
海にある道の駅「海の駅」
 「道の駅」は既に観光の目的地にされるほど知られていますが、「海の駅」があるのはご存じでしょうか。一般の人にはあまり馴染みが無い施設ですがが、「海の駅」とは国土交通省により登録された、一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)をいいます。当初は大型のヨットやモーターボートなどの利用環境整備や情報ネットワーク化と提供を目的に設置が推進されました。「海の駅」として登録される条件として、「来訪者が利用できる係留施設を有する事」「来訪者が利用できるトイレを有する事」「係留予約等に関する情報提供を行うガイドを配置している事」などがあります。
 海の駅は2000年に設置された広島県の「ゆたか海の駅」が第一号として指定され、2023年8月の時点で全国に178駅、千葉県内には「ちょうし海の駅」「海の駅九十九里」「いすみ海の駅」「かもがわ海の駅」「海の駅館山」「きさらづ海の駅」「うらやす海の駅」の6か所があります。全国にある「海の駅」の中には、観光船やクルージングが体験できる海の駅もあり、千葉県内では「きさらづ海の駅」はクルージングサービスも提供しています。
 また、海・川・沼と多くの水辺がある千葉県には船を持たなくても楽しめる観光船があちこちにあります。普段は見る事が出来ない水上からの景色はまた格別で、千葉を楽しむ一味違うレジャーになるのではないでしょうか。
海の駅九十九里
海の駅九十九里
人気の「ばんや」は
「きょなん・ほた海の駅」にもなっている

交通手段が観光船になる
 千葉県は海に囲まれ他の県とは川で区切られており、江戸幕府は江戸防衛のために川に橋をかけませんでした。街道に続く渡し舟は厳しく管理されていましたが、一方で対岸に農地を持つ農民のための渡船は許されていました。旅人の中には事情により街道の経由がはばかられ、農民に扮装して川を渡る者もあったといいます。現在も残っている渡し船は、歌にも歌われている「矢切の渡し」で、生活用の渡し船というよりは観光要素として現在も運航されています。また、現在の渡し船「東京湾フェリー」も下船せずに往復乗船ができるなど、観光船として楽しむ事が出来ます。
 一方千葉県北部には、江戸時代に栄えた町「佐原」にも、川から江戸情緒を楽しめる「舟めぐり」や水郷地区をめぐる「加藤洲十二橋めぐり」などの観光船があります。また、印旛沼の「印旛沼観光船」や印西地区の川をめぐる「いんざいぶらり川めぐり」という観光船が就航しており、訪れた観光客に人気になっています。
 一方県内には海の生き物を側で見る事が出来る「ウオッチング」を目的とした観光船があります。「日蓮上人誕生の地」鴨川市には、上人が誕生した際に「真鯛が浮上して躍り出た」と伝わる「鯛の浦」は世界有数の真鯛の群生地で、「鯛の浦観光船」では間近でタイの群生を見る事が出来ます。また銚子には「銚子海洋研究所」が運航する観光船では銚子付近を泳ぐイルカやクジラを間近で見る事が出来る「イルカ・クジラウオッチング」が人気を博しています。更に、内房にも外房にも船に乗るだけで海の中を観察できる「野島崎海底透視船」や「館山スタークルーズ号」など「海あり県」ならではの観光船も就航しています。
東京湾フェリー
下船せずに往復で乗船を楽しめる東京湾フェリー
佐原の「小野川」にも人気の観光船がある

鯛の浦観光船
天然記念物の鯛を見る事が出来る「鯛の浦観光船」
銚子海洋研究所ではイルカやクジラを見られる観光船がある

全国一位の千葉港を観る観光船
 「東京湾」は「伊勢湾」「大阪湾」と共に「日本三大港湾」といわれ、東京湾にある「千葉港」は「名古屋港」「横浜港」と並び「日本の三大貿易港」と呼ばれています。
 「千葉港」は市川市から船橋市、習志野市、千葉市、市原市、袖ヶ浦市までと複数の市にまたがった大きな港で、全国で102港あまりある「重要港湾」に指定されています。また、千葉港は政令により特に重要として定められている全国に18か所ある「国際拠点港湾」のひとつにもなっています。また、京葉工業地帯の拠点となっている港として、貨物の取扱量は全国2位を誇っています。
 この港のほぼ中央に位置する千葉市にある千葉中央旅客船桟橋に隣接して「ケーズハーバー」が整備されています。この「ケーズハーバー」は国土交通省に登録された港に関する交流施設・旅客ターミナル・緑地・マリーナなどを活用した交流拠点・地区の愛称「みなとオアシス」にもなっています。
 「ケーズハーバー」からは千葉ポートサービス株式会社が運営している「千葉港めぐり観光船」や「幕張メッセ沖合遊覧」「納涼船」などに乗船する事が出来、人気を呼んでいます。また、夜間クルーズでは「日本八大工場夜景」にも選ばれた工場夜景を海上から眺める事ができます。
 コロナ禍で観光客が激減する等、観光船にとっても厳しい時期を経て廃止された観光船もあるようですが、全体としては復活の兆しにあるようです。このように観光船はマリンスポーツや釣りなどの体験とも連動し、マリンレジャーのひとつとしてその幅を広げつつ千葉に観光客を呼ぶツールのひとつとしての役割を果たしていくでしょう。
ケーズハーバー
旅客戦ターミナル等複合施設ケーズハーバー
千葉港をめぐる観光船「あるめりあ」

千葉ポートタワー
海から千葉ポートタワーを望む
結婚式場「アマンダンセイル」(左)と
レストラン「オーシャンテーブル」(右)

(2023/9/10)
Vol.65 【勝手に注目】釣り
釣り
釣りが趣味として発展したのは江戸時代から
 釣りの歴史は縄文時代の狩猟採集生活の時代から始まります。レジャーとしての釣りは712年(和銅5年)に編纂された古事記には神様が釣りを楽しんでいる様子がかかれているようですが、これが始まりといえるかどうかは微妙な状況です。
 釣りが明らかにレジャーとして扱われるようになったのは江戸時代からだそうで、幕府の勢力下で社会が安定し、寺院の勢力が弱まり仏教思想が弱まった事で「殺生」の抵抗感が弱まった事が原因だといわれています。
 江戸幕府が行った「利根川東遷」など江戸周辺は埋立てと河川の整備が行われた事で、河川が運んだ土砂によって東京湾には「洲(す)」が出来、多くの魚介類が獲れる最高の漁場になりました。また、江戸時代は平和な時代で武士達の生活にも余裕が出来、近くに絶好の釣果があがる漁場があった事で、釣りは絶好のレジャーとして発展していきました。
 また釣りが発達したもう一つの要因は、半透明な釣り糸の「テグス」が普及した事も大きく影響を与えました。テグスの原料になるのは、中国に生息する「テグスサン」という蛾の幼虫の体内から絹糸腺(けんしせん)で、これを抜き出して酢に浸して引き伸ばし陰干しにして作ったものでした。伸びやすい性質を持つ丈夫な糸で、日本が中国から輸入した薬の梱包で使われていたそうです。大阪の漁師がそれを見つけ、その評判を聞きつけ江戸にも入ってきたそうです。日本では「テグス」として普及しましたが、産地の中国で釣り糸として使われなかったのは、川の水が濁っているためだったようです。
 更に性能の良い釣り竿は、江戸時代に「戦(いくさ)」が無くなって需要が減った弓矢を作っていた職人たちが転業し、弓矢と同じ竹を加工する技術を使って作っていました。更に「錘(おもり)」も鉄砲玉を作る技術を使って作られ、表面には漆を塗るなど高度な技術が使われており、その技術は世界最高水準を誇っていたといわれ、輸出までされていたそうです。平和になったからこそ生まれたのが日本の釣り具の技術でした。
船橋三番瀬公園
東京湾に広がる干潟 船橋三番瀬公園
豊富な漁場だった利根川

海釣り・川釣りと両方が楽しめるスポットが充実
 今やコロナ禍と相まって密にならないレジャーが人気になりました。そのおかげでキャンプをはじめとしたアウトドアブームが到来し、県内各地にも豪華なキャンプ施設「グランピング」施設も増えています。更に釣りもコロナ禍でも安全に楽しめるアウトドアレジャーとして人気が更に上昇しているようです。
 三方を海に囲まれている千葉県は、干潟や三番瀬など広大な干潟には小魚が多く集まり、更にそれを餌にする魚が集まるなど、内房地区は海釣りには最適な環境下にあります。また、太平洋に面した外房地区は岩礁で釣る「磯釣り」も盛んで、内房とは違った魚種が存在します。千葉県は首都圏にある最適な環境が整った場所だといえるでしょう。
 また海釣りは「護岸釣り」や「磯釣り」に加え、釣り船で沖合に出て釣る「船釣」も盛んで、外房や内房共に多くの船宿が点在し、賑わっています。
 一方千葉県にある釣り場は、養老川、小櫃(おびつ)川、湊川、夷隅川などで渓流釣りが出来るほか、印旛沼、手賀沼なども釣りスポットになっています。更に千葉県の南房総地区は高い山は無く、降った雨は直ぐに海に流れ出てしまう土地で、大きな川も無く雨が少ないと直ぐに水不足になる地域のため、ダム湖や農業用水を確保するための貯水池「野池」が点在しています。このダム湖や野池も釣りスポットとして活用されている所もあるなど県内全域に釣りが出来るスポットがあります。
 江戸時代に身近になった釣りは、レジャーとして浸透し現在に至って「観光資源」として定着しています。また、良く釣れる時間帯は早朝と夕方から夜にかけてである事から、日帰りで行ける千葉県は恵まれた環境にあるいえます。また南房総など都心から離れた地域は宿泊を伴った観光になる事も期待でき、日帰り以上に地域経済に影響を与えるものと考えられます。
稲毛の浜
人工海浜に作られた稲毛の浜の突堤
江戸川は休日には釣り人たちでにぎわう

人口的な釣り施設も大人気
 公益財団法人日本生産性本部が発行した「レジャー白書2022」では、2010年(平成22年)の釣り参加人口が940万人でしたが、2022年(令和4年)には560万人まで減少しています。一方釣り具市場は1999年(平成11年)の2,760億円の売り上げを上げたのをピークに、2010年(平成22年)には過去最低まで下がったものの、2021年(令和3年)には1,830億円まで回復し、若干増加傾向になっています。更に釣りにかけた平均費用は2015年(平成27年)3万円程度でしたが、2021年(令和3年)には4万円を超え、釣りに行く回数も10回程度が15回までに増えています。このデータから見る事ができるようにコロナ禍の影響もあってか、様々なレジャーがある中で「釣り」はいずれも増加傾向にあります。
 房総半島沖は親潮と黒潮が交差する場所のため、魚種が豊富で恵まれた環境にあります。また、このような恵まれた環境に加え、初心者やファミリー層が気軽に楽しめるような施設が存在します。
 鴨川には太平洋にも面した釣り堀「太海フラワー磯釣りセンター」や市原市が作った京葉工業地帯の一角にある市営の海釣り施設「オリジナルメーカー海釣り公園」を作りました。東京湾に釣り用の「桟橋」を作り、海底には捨て石や漁礁などを配置し魚の住処までを用意、投げ釣りなどを行わなくても桟橋の上から釣りを楽しむ事が出来る施設です。休日には開園前から行列ができるほどの大人気の施設になっています。
 更にスポーツフィッシング色が強く、経験者が楽しめる釣り堀の「管理釣り場」も10軒を超えています。「管理釣り場」とは湖や沼、河川、海などの一定の範囲を区切って魚が流出しないようになったもので、釣り堀よりも本格的なスポットとして人気を博しています。
 東京湾と太平洋、一級河川の利根川、県内を流れる大小の川、更に釣り施設と初心者、上級者を問わず楽しめる施設を持った千葉県は、釣りも重要な観光資源として今まで以上に釣り客を意識した施策を進めてはいかがでしょうか。
オリジナルメーカー海釣り公園
市原市の釣り施設「オリジナルメーカー海釣り公園」
保田漁港に停泊されている釣り船

(2023/8/10)
Vol.64 【勝手に注目】サーフスポット
サーフスポット
初のオリンピック開催地一宮町
 サーフィンは第二次大戦後に日本に駐留した米兵が神奈川県のビーチでサーフィンをしたのがきっかけだったという説があり、神奈川県が発祥の地といわれているようです。
 2021年(令和3年)7月23日から8月8日までの17日間開催された東京オリンピックで初めて開催されたサーフィン競技は、千葉県一の宮町の「釣ヶ崎海岸」で行われ、日本選手は男子が銀メダル、女子は銅メダルを獲得する事ができました。
 東京オリンピックのサーフィン競技の会場になった一宮町の「釣ヶ崎海岸」はその南端に位置する場所で、特に海岸の11号突堤付近にある「志田下ポイント」と呼ばれている場所には四季を通して多くのサーファーたちが訪れています。
 一宮町はサーフィンが普及していった1970年(昭和45年)頃からは、年間を通して良質な波が押し寄せる事が愛好者の中で知られ、次第に多くのサーファーたちが集まるようになりました。その結果2009年(平成21年)に役場内に一宮町を「サーフタウン」としてPRする移住推進担当を置くようになりました。2015年(平成27年 )に策定された「一宮町まち・ひと・しごと創生総合戦略」の中で、「一宮版サーフォノミクス」を打ち出すなど、サーファーが集まる事による経済効果を目指しています。
 サーファーというと不良っぽかったり、チャラいイメージがありましたが、オリンピック競技になった事でイメージが変わってきたようです。他のスポーツの様に幼少期からコーチやトレーナーを付けて練習する子も増え、改めて「スポーツ」として認識される様になってきました。
 東京オリンピックは、残念ながらコロナ禍のために無観客競技開催となったため期待された経済効果を得る事ができませんでしたが、オリンピック会場としての知名度はさらに高まったものと想像され、今後の経済効果は大いに期待できるのではないでしょうか。
一宮町釣ヶ崎海岸
オリンピックが開催された一宮町釣ヶ崎海岸
釣ヶ崎海岸は上総十二社祭りの祭典場として
神聖な場でもある

オリンピック開催記念モニュメント
オリンピック前に釣ヶ崎海岸に掲示されていた横断幕
設置されたオリンピック開催記念モニュメント

外房地区はサーフィンのメッカ
 サーフィンが普及し始めた1965年(昭和40年)に愛好者が集まって日本サーフィン連盟を発足し、翌年には第一回全日本選手権大会が鴨川で開かれるなど、千葉県は日本のサーフィンの歴史と切っても切れない関係になってきているといっても良いでしょう。
 また、1976年(昭和51年)には若者向けの雑誌として人気だった「POPEY(ポパイ)」が創刊し、アメリカ西海岸のライフスタイルが紹介されました。1978年(53年)にアメリカで公開されたサーフィン映画「ビッグウエンズデー」がヒットし日本でも翌年公開され、サーフィンブームが加速されました。その影響で、サーフィンはしないがサーファーの格好を真似る「陸(おか)サーファー」が登場するまでのブームも生みました。
 「陸サーファー」は死語になった今でも、源頼朝が名付けたといわれる60kmを越えた砂浜が広がる九十九里浜のどの海岸にも週末に限らずウイークデーも多くのサーファーたちが訪れています。
 また、千葉県にはサーフスポットとして知られている九十九里浜やオリンピック会場になった一宮町以外にも、サーファーが集まるサーフスポットがあります。
 北は銚子の犬吠埼灯台の側、君ヶ浜海岸や屏風ヶ浦を望む銚子マリーナに始まり、南房総には御宿町、勝浦市、鴨川市、南房総市と外房側の至る所でもサーファーを見かける事ができます。またサーフスポットとして挙げられているのは外房だけではありません。南房総市富浦の南無谷海岸、岩井海岸、富津海岸など波の穏やかな内房も初心者向きではあるものの、サーフスポットして認識されているようです。
御宿海岸と七浦海岸
御宿海岸でサーフィンをするサーファー
南房総市千倉町の七浦海岸

マリンスポーツは大切な観光資源
 サーフィンが盛んな外房に比べ内房地区は他のマリンスポーツの場にもなっています。帆を使う「ウインドサーフィン」や「カイトサーフィン」の他、パドルを使う「スタンドアップパドル(サップ:SUP)」や「シーカヤック」などを教えるスクールも数多くあるようです。また、外房地区にヨットハーバーは「銚子マリーナ」と「カツウラマリンハーバー」2つですが、内房には市川、浦安市、千葉市、木更津市、富津市に合わせて7つのヨットハーバーがあり、マリンスポーツの拠点にもなっています。
 千葉県の観光には欠かせない資源になる海は、「海洋プラスチックごみ」などで大きな問題になっていますが、それを改善する活動で今注目されている活動のひとつに、SDGsスポーツ「プロギング」があります。「プロギング」は、スウェーデン語の「plocka upp(拾う)」と英語の「jogging(走る)」を合わせてできた造語で、「ジョギング」しながら「ゴミ拾いをする」というもので、2016年(平成28年)にスゥエーデンで発祥し、今や大ブームになり世界100か国以上で楽しまれています。日本では2020年(令和2年)に一般社団法人プロギングジャパンが設立され、全国各地でプロギングイベントが開催され、千葉県でもイベントが行われています。
 また、日本財団は海洋ゴミ対策の「海と日本プロジェクト」を行っており、2022年(令和4年)の9月には「海ごみゼロウイークPLOGGING MAKUHARI」を開催するなどサーフィンをはじめとした千葉県の観光資源になる「海」のためのイベントが開催されました。
 「海あり県」千葉は三方を海に囲まれ、都心に近いメリットを生かし、サーフィンだけでなく様々なマリンスポーツと共に、更に海を綺麗にする活動までもレジャーとして楽しめるようにしながら、これまで以上にマリンスポーツのメッカになる事で大きな経済効果を得ることができるでしょう。
富津海岸と稲毛海岸
富津海岸ではウインドサーフィンを行う人が
稲毛海岸でもウインドサーフィンをする人の姿が

(2023/7/10)
Vol.63 【勝手に注目】海底ケーブルとデータセンター
海底ケーブルとデータセンター
海外との情報が行きかう動脈「海底ケーブル」
 現在日本のインターネットをはじめとした海外との国際通信の99%は海の底にケーブルを張る「海底ケーブル」によって成り立ち、世界で447本のケーブルが張りめぐらされているそうで、衛星を使った通信はわずか1%にも満たない状況のようです。日本で初めて海底ケーブルが施設されたのは1871年(明治4年)で長崎と上海及び長崎とウラジオストク間に引かれました。
 日本の海底ケーブルの中継地点になる「陸揚げ局(りくあげきょく)」の大半は北茨城、志摩半島、そして千葉県に置かれています。つまり千葉県は世界と繋ぐ通信の要の一端を担う重要拠点に位置付けられているといって良いでしょう。千葉県にある海底ケーブルは、国内3社と外資2社、合わせて7つの陸揚げ局は外房の鴨川市から南房総市の沿岸部に集中しており、「海底ケーブル銀座」と呼ばれているようです。その理由は、海底の地形が良い事、また海底ケーブルがあるこの地域は、基地が造れない国立公園ではなく、基地建設が可能な国定公園だった事、更に首都圏に近い事があげられます。
 2011年(平成23年)の3月11日に発生した東日本大震災では、茨城沖や銚子沖に引かれている海底ケーブルに障害が発生し、海外の10か国以上に繋がる回線がダメージを受けました。また、発生した福島第一原子力発電所の事故による電力供給低下により実施された計画停電では、中継所のある一帯は重要インフラがある場所として対象外になるほど重要な位置づけになっています。
海底ケーブル陸揚げ局とデータセンタ―
海底ケーブル陸揚げ局とデータセンタ―の分布
KDDI(株)千倉第二海底線中継所

海底ケーブル陸揚げ局とデータセンタ―
KDDI(株)千倉海底線中継所
ソフトバンク(株)千倉中継所

ソフトバンクとNTTコミュニケーションズ
ソフトバンク(株)丸山国際中継所
NTTコミュニケーションズ(株)
新丸山ランディングステーション

リーチ・ネットワークスとタタコミュニケーションズ
リーチ・ネットワークス(株)
和田海底ケーブル陸揚げ局
タタコミュニケーションズ・ジャパン(株)
江見海底ケーブル陸揚局

世界に名前を知られている印西市
 印西市は東洋経済新報社の「住みよさランキング」では2012年(平成24年)〜2018年(平成30年)まで7年連続で全国1位、また日経BP社の「人口増減率ランキング2020」では全国17位を誇っています。都心や成田空港へのアクセスが良好な上、通勤・通学にも便利で教育施設や医療施設、また大型の商業施設もあり幅広い年代が暮らしやすい街として知られています。また下総台地に位置し、巨大地震を引き起こす活断層がないという事で、災害に強いという事も人気の大きな理由になっています。
 一方、「データセンター」を建設するための条件は、交通アクセス、地盤の強固さ、耐災害性、電力供給力などと並んで、陸揚げ局からの距離も考慮されます。印西市は「住みよい街」だけでなく、「データセンター」にも最適な地域として認められています。それは、県内にある陸揚げ局に近く、陸揚げ局と東京都を結ぶ中間地域である事、更に活断層が無い強固な地盤で、開発可能な土地がある事で、データセンターに適した場所として広く海外にも知られるようになりました。
 近年は続々とデータセンターが建設され印西地域は集積地になりつつあり、今も国内外のデータセンターの建設ラッシュが続いており、大和ハウス工業株式会社は印西牧の原地域に2025年(令和7年)までに14棟のデータセンターを建築する予定で開発が進められています。この施設が完成すると印西市は日本一の「データセンタータウン」になるかもしれません。
人気の印西市
人気の印西市は北総線沿線に住宅や商業施設が立ち並ぶ
計画されているダイワハウス印西牧の原データセンター

「Googleの国内初進出」反対があるものの
千葉に好機を呼ぶ最先端施設
 2023年(令和5年)4月には、日本で初めてGoogleのデータセンターがオープンしました。Googleは印西市のデータセンターの開所にあたり、NPO法人と協力して地元印西市や千葉県に住む児童生徒を対象にしたプログラミングなどのデジタル教育活動の支援も行っていくとされています。
 印西市は「データセンター」以外にも成田空港にも近い事から、物流センターの建設も進んでおり、住宅地周辺に物流センターと「データセンター」という大型の施設が立ち並ぶ地域として発展を続けています。また、印西市以外にも隣接している白井市や柏市、八千代市などにも「データセンター」と物流基地が建設され、印西市をコアに「データと物」の基地が拡大しています。
 一方では、地域住民が必ずしも「データセンター」建築に賛成するとは限らず反対意見で計画が進んでいない地域のひとつに流山市があります。流山市は1992年(平成4年)に常磐自動車道(常磐道)の「流山インターチェンジ」が出来た事、更にインターチェンジ周辺は農地で土地があった事から、複数の事業体が盛んに物流基地の建設を行い、今でも続々と建設されています。そういう理由もあったからか、流山でも「データセンター」の建設計画が動いているようです。
 建設場所としてあげられているのが市役所の南側の空き地、流鉄株式会社の流山駅東口に面した場所で、市は公聴会を開き市民に説明をしていたようですが、市民は「得体のしれない施設」の建設に反対し、署名を寄せられ計画は難航しているようです。
 更に柏市でも新たな「データセンター」建設の計画があるようですが、市民の反対の声があがっているようで、こちらも難航しそうな状況です。
 「データセンター」というある意味「得体のしれない」施設に抵抗がある人も多いと思いますが、これからの産業の中心に位置するコンピューター関連の施設が千葉県に続々と出来る事は県の発展において重要なファクターではないでしょうか?千葉にある「最先端」にこれからも注目していきたいと思います。
データセンター建設計画
印西にオープンしたGoogleの日本初データセンター
印西にオープンした三井不動産のデータセンター施設

(2023/6/9)
Vol.62 【勝手に注目】ご当地ラーメン
ご当地ラーメン
もはや全国区の「勝浦タンタンメン」
 ラーメン博物館のホームページによると室町時代の1488年(長享2年)には日本初の中華麺「経帯麺」が食べられ、それを機に中国の麺料理も日本に伝わったとされています。現在のラーメンが本格的に広まったのは、1910年(明治43年)にオープンした「淺草 來々軒」がきっかけで、中華料理と共に日本中に広まっていきました。ラーメンは次第に「日本食」として定着すると共に、全国各地で地域特性を取り込んで様々な変化をしながら地域に根付き発展してきました。1998年(平成10年)には「旭川ラーメン」が話題になり、それがきっかけで「ご当地ラーメン」のブームが起こり、全国各地のご当地ラーメンが全国区へと広がっていきました。
 千葉県の3大ラーメンとされているのが「勝浦タンタンメン」「竹岡(式)ラーメン」「アリランラーメン」で、多くの人達が現地までわざわざ食べに出向いて来るのを見かけるようになりました。
 いちばん有名な「勝浦タンタンメン」は、1954年(昭和29年)に創業した大衆食堂「江ざわ」が担々麺を真似て現在のスタイルにレシピ化した物が始まりとされ、海女や漁師など海仕事の後に冷えた体を温めるメニューとして定着しました。
 2006年(平成18年)に「地域おこし」を目的に始まったB級グルメのイベント「B1グランプリ」で第7位入賞、2012年(平成24年)には第8位、2013年(平成25年)には「ブロンズグランプリ」、2014年(平成26年)には「シルバーグランプリ」を獲得、翌年の2015年(平成27年)にはついに「ゴールドグランプリ(1位)」を獲得し、広く全国に知られるようになりました。
 2011年(平成23年)には「勝浦タンタンメン」を正規に提供する団体「ONE勝浦企業組合」を設立し、地域団体商標を取得しています。その後地元企業から「土産品」として販売されて、大手インスタントラーメンメーカーからも全国に向けてカップ麺が販売されている他、大手パンメーカーから「勝浦タンタンメン風」ランチパックやカレー、ポテトチップスなど「勝浦タンタンメン味」の商品までが発売されるようになりました。
勝浦タンタンメン
勝浦タンタンメン
大手食品メーカーが発売した勝浦タンタンメン

カップ麺にもなった残り二つのご当地ラーメン
 一方「竹岡(式)ラーメン」は、富津市の「梅乃家」と「鈴屋」が発祥といわれ、「出汁」を使わずチャーシューを煮込んだ醤油ダレに麺を茹でたお湯を入れただけのスープで仕上げたシンプルなラーメンです。この「竹岡式ラーメン」はレシピの制限をかけていない事から周辺地域にも広まりました。また、隣接する木更津出身のミュージシャンもメディアで紹介するなど広く知られるようになり、「ご当地ラーメン」としてテレビでも紹介されるようになりました。
 レシピがシンプルな事もあり、知名度が増えていくに従って「竹岡ラーメン」をメニューに掲げる店がどんどん増えていきました。また発祥の店舗に習い、味の決め手になっている富津市の宮醤油店の醤油を使っている店舗もあるようですが、次第に進化系として「出汁」を使った物など工夫を凝らしたラーメンも登場するようになりました。更にインスタントラーメンを製造する大手メーカーから「ご当地ラーメン」としてカップ麺が登場するなど、次第に全国区になっていきました。
 残る一つ「アリランラーメン」は長柄町の国道14号線沿線にある「八平の食堂」が発祥で、「アリラン」という名前は店が峠にあり、峠越えができるような「スタミナがつくラーメン」だという事で、朝鮮民謡で知られている「アリラン峠」から付けられたとされています。玉ねぎをベースに、ニラ、にんにく、豚肉、ネギなどを使ったピリ辛ラーメンですが、その詳しいレシピは門外不出とされ、「アリランラーメン」を現在提供しているのは、本家の親族が経営しているいくつかの店舗のみになっています。しかし、ホームページには「独立支援制度」が掲載されており、3年間の修業で独立できるとされています。
 このアリランラーメンも千葉三大ラーメンにあげられた事から、地元企業が袋麺やカップ麺の商品開発をして販売された事があったようです。
竹岡式ラーメン
竹岡式ラーメン
カップ麺で発売されている竹岡式ラーメン

「町おこしラーメン」で地域に貢献
 「千葉三大ラーメンに続けと」他の地域でも「町おこしラーメン」といえる「ご当地ラーメン」が登場しています。
 酪農が盛んで生乳の生産が県内トップクラスの袖ヶ浦市は、特産品である牛乳を使用したご当地グルメを作ろうと考え2011年(平成23年)に開催された「袖ヶ浦ご当地グルメ王座決定戦『袖-1グランプリ』」で優勝したのが「牛乳」を使ったラーメン「ホワイトガウラーメン」です。市内の中華料理店「ホサナ」が開発した商品で、現在は「ホサナ」の他市内の3店舗で提供されているようです。
 他にも2010年(平成22年)から茂原市のご当地ラーメンとして提供されるようになった「もばらーめん」、市原市内のラーメン店と中華店の有志が集まって結成された「市麺会」が提供している「いちはらーめん」など三大ラーメンに続けとばかり、「ご当地ラーメン」化に向けた活動をみる事ができます。
 一方で「地域おこし」として開発されたものではなく自然発生的に誕生し、改めて「ご当地ラーメン」として販売されるようになったものもあります。
 船橋市には元々太平洋戦争後に中華料理店で「ダイヤキ」という名前で提供されていたソースベースのスープを使ったラーメンがあり、それを船橋名物「ソースラーメン」と名前を変え、「ご当地ラーメン」化しています。この「船橋ソースラーメン」は現在市内の4店舗ほどで提供されているようです。
 更に香取市小見川にも「ソースラーメン」に似た「ご当地ラーメン」が存在しているようで、ソースベースのスープに入った麺に別添えで「カレー粉」が付いていて、お好みでカレー粉を入れて食べるものだそうです。船橋では「ソースラーメン」という名前になっていますが、小見川では「カレー焼きそば」という名前で提供されており、現在は小見川地区の数店舗が提供しているようです。
 このように各地で工夫を凝らしたご当地ラーメンの登場は、同業者や地域と共に「ラーメン愛好者」や「観光客を呼ぶ活動」として地域に貢献している活動だといえます。これからも人を呼ぶ新たな「ご当地ラーメン」の登場と、その発信力に期待したいと思います。
ホワイトガウラーメン
ホワイトガウラーメンの元祖となった「ホサナ」
袖-1グランプリを獲得したホワイトガウラーメン

(2023/5/10)
Vol.61 【勝手に注目】クラフトビール
クラフトビール
千葉県内にも20のブリュワリーがクラフトビールを提供
 ビールに関する法律はかつて「年間最低2000㎘を作らなければならない」とされており、小さい醸造所で作る事は出来ませんでした。しかし、1994年(平成6年)に法律が変わり、年間の最低製造量が「60㎘」とされ、小さい醸造所でも作る事が可能になったのが、「地ビール」誕生のきっかけになりました。当初は「地ビール」が製造される目的が土産品扱いで、おいしさにこだわった物が少なかったため、「地ビール=おいしくない」という烙印を押されていたようです。
 千葉県のクラフトビールは、山武市にある1883(明治16)年創業の酒蔵「合資会社 寒菊銘醸」が1997(平成 9)年にビール製造免許を取得し、「九十九里オーシャンビール」の製造が開始されました。更に翌年1998年(平成10年)には南房総市の農業法人安房麦酒が「安房ビール」の製造を開始し、2001年(平成13年)迄で4件のブリュワリー(ビール醸造所)ができましたが、その後10年間は新たなブリュワリーは出来ませんでした。
 千葉県内に再度新たなブリュワリーのオープンが始まったのは2012年(平成24年)からで、現在までの11年間で16件の醸造所がオープンしています。2012年から新たなブリュワリーの開設が始まったきっかけは、2000年代にアメリカでクラフトビールの人気が高まった事が影響しているようです。日本でも徐々にクラフトビールが注目されるようになり、お土産品ではなく「おいしいビール造り」が始まりました。また、そのネーミングも「おいしくない」というイメージがついてしまった「地ビール」と差別化するため、「クラフトビール」という名前で次第に人気が高まっていきました。
 2023年(令和5年)2月現在、千葉県54市町村のうち柏市に4件、千葉市・船橋市・南房総市に各2件、浦安市・松戸市・習志野市・佐倉市・木更津市・成田市・銚子市・山武市・鋸南町・白子町の10市町で各1件、合計14市町で20件のブリュワリーが出来ています。  千葉県のホームぺージ「元気半島、ちば!」でも「ちばの地ビール特集」で紹介しています。
千葉のクラフトビール
九十九里オーシャンビールの醸造元寒菊銘醸
九十九里オーシャンビール

組織化とコラボで更に広がるクラフトビール
 クラフトビールは、作り方によって「ラガー系」と「エール系」に大別されます。低温で長期間発酵させて作るのが「ラガー」で、酵母が麦汁の下へ沈んでいくために「下面発酵(かめんはっこう)」と呼ばれています。「ラガー」は低温で発酵させるため、雑菌があまり繁殖する事無く、常に品質を一定に保ったままビールを作る事ができます。
 一方「エール」は「下面発酵」よりも歴史が古く、やや高温であまり時間をかけずに発酵させる方法で、酵母が麦汁の上に浮き上がっていくため「上面発酵(じょうめんはっこう)」と呼ばれています。この製法は大量生産には向かないものの、味わい深さと飲みごたえで根強い人気で、多くのクラフトビールは「エール」を製造しています。
 「ラガー系」の「ピルスナー」は世界のビールの7割を占めるといわれていますが、千葉県内のクラフトビールで作られている「ラガー系」は「シュバルツ」が多いようです。
ラガー系とエール系の比較
 全国にブリュワリーが広がっていった事で、1994年(平成6年)に「日本地ビール協会」が、1999年(平成11年)には「全国地ビール連絡協議会(JBA)」が発足、更に2010年(平成22年)「日本ビアジャーナリスト協会」が発足されました。それらと共に、3つの団体を結ぶ「日本クラフトビール業界団体連絡協議会」が2022年(令和4年)に発足されるなど、「クラフトビール」が次第に社会に定着してきている事を示しています。
 このようなクラフトビールの3つの団体には所属せずに活動している千葉県内のブリュワリーも数多くあります。そして個別のブリュワリー同士のコラボレーションも盛んに行われているようです。
 2018年(平成30年)に八街市で地産地消をコンセプトに「ちばクラフト青空ビアガーデン」が開催されました。「ちばクラフト青空ビアガーデン」は県内の飲食店、生産者を応援する活動で、「銚子ビール」「こまいぬブリュワリー柏ビール」「九十九里オーシャンビール」のクラフトビールブリュワリー3社が集まって始めたもので、2019年(令和元年)には県内13か所で開催されました。しかし、2020年(令和2年)にはコロナ禍に入ってしまい開催が出来ない状況になってしまいました。そこで自宅でもクラフトビールを楽しめるようにと、3社のコラボ商品「ちばクラフト青空ビアガーデンEpisode0 -East Coast IPA-」を発売するなど3社のコラボレーションを続け、コロナ禍でも普及活動は継続されています。
銚子ビール
銚子チアーズ犬吠埼ブリュワリー
銚子ビール

地域食材や企業とコラボし更に進化
 千葉県内のクラフトビールブリュワリーは、単にビール製造をするだけでなく新たな取り組みを行う所が増えています。
 木更津市の有限会社ベアーズは、千葉県初の自社生産オーガニッククラフトビールを2022年1月に発売、他にも地域食材を使ったビール(発泡酒も含む)造りにも取り組んでいます。
 千葉市のY.Y.G.BREWINGは、第一弾は西船橋の小松菜と八千代のパクチー、第二弾は市川の梨、第三弾は船橋の苺と習志野の人参を使った「千葉県民のためのエール」などを製造販売しました。
 山武市で九十九里オーシャンビールのブリュワリー「合資会社寒菊銘醸」は、千葉県産のコシヒカリを使用したクラフトビール「KUJUKURI OCEAN RICE ALE」を製造し、2022年(令和4年)に開催された50カ国・地域の3200銘柄のビールが様々な分野で競う「ワールド・ビア・アワード2022」で、「ワールドベスト・スタイル」に選ばれました。日本からは82銘柄が参加し、他にも4銘柄が受賞するなど日本のクラフトビールの実力が上がっている事を表しています。
 たとえば千葉市初のクラフトビールブリュワリー、「幕張ブルワリー株式会社」は、千葉の老舗パンメーカー「株式会社川島屋」とコラボし、クラウドファンディングで資金調達を行い、廃棄されてしまうパンを原料に使った「パンからつくったペールエール」(発泡酒)を製造し、フードロスに取り組みました。
 また、地域の食材だけでなく他の企業や団体とのコラボレーションも積極的に取り組んでいる事例も増えました。「幕張ブルワリー株式会社」は千葉市に誕生したプロバスケットチーム「アルティーリ千葉」とコラボした「ALTIRI CHIBA CRAFT BEER - AMBER ALE」という名のエールビールと「ALTIRI CHIBA CRAFT COLA」を製造しました。「銚子チアーズ株式会社」の「犬吠埼醸造所」は、「成田国際空港株式会社」とグループ会社の「株式会社グリーンポート・エージェンシー」との共同開発で成田空港オリジナルクラフトビール「成田空港エール」を発売しました。
 千葉県の総合企画部地域づくり課ブランド戦略室が発信している「元気半島、ちば!」でも千葉県のクラフトビールを取り上げ、一部のブリュワリーを紹介する等これからの千葉のクラフトビールには目が離せません。
成田空港エール
ワールドベスト・スタイルを受賞した
KUJUKURI OCEAN RICE ALE
成田空港エール

幕張ブリュワリー
幕張ブリュワリー
幕張ブリュワリーのホワイトエールとペールエール

(2023/4/10)
< 最新記事に戻る >
HOME ぴかいちば チバビズ探訪 ちばのたね ホームページ道場 バックナンバー チバビズ・マルシェ
お問い合わせはこちら

チバビズドットコム制作委員会
株式会社 翠松堂BTL
© 2017 chibabiz.com Production Committee
トップへ戻る