Bocchiブランドで
生産者にも
米と落花生の問屋から
更に落花生の栽培、
食品加工までも手掛ける
株式会社セガワは、農家から米を買って卸す米問屋の加瀬商店として1946年(昭和21年)に私の祖父が創業しました。その後落花生の卸もはじめ、米と落花生が主な商材になっています。
旭工場では収穫した落花生を焙煎して卸しを、匝瑳工場ではOEMのドライフルーツの袋詰めなどもしていますが、メインは自社の落花生を使ったピーナツペーストをはじめ様々な落花生の加工食品の製造をしています。
落花生というと八街が有名になってしまいましたが、元々千葉で落花生が初めて栽培されるようになったのは私たちの地元、現在の旭市です。しかし、落花生は1年1作で農家さんにとって儲かる作物ではないため、栽培する農家さんが減少傾向にあるのが課題です。
商材となる落花生は全て千葉県産で、最も多いのはブローカーさんから仕入れていますが、農家さんから直接買い取っている物と自社で栽培をしている物もあります。
直接取引している地元の農家さんだけでは落花生の絶対量が足りません。ブローカーさんは農家さんの人手不足を補うため、脱穀などを手伝う支援も行いながら落花生の調達をしてくれているので、セガワにとっては大切な存在です。
また、セガワが直接買い付けている農家さんも、支援が必要になってきている所が増えてきています。商材の量を確保するために自分たちでも栽培を始め、作業内容が分かるようになってきているので、直接買い付けをする農家さんで人が足りない所はセガワでお手伝いができるようになってきています。
跡を継ぐ決心をする
元々私は後を継ぐつもりはなく、父からも「お前の好きなようにやれ」と言われていました。父は中学を卒業して東京に出て就職していたこともあり、「うちにいたらダメだ」「他人の飯を食ってこいというスタイルでした。
私は学校からは推薦での大学進学を薦められましたが、大学にはまったく興味が無かったので大学には進学せず、高校の時に好きだったギターと子供の頃に興味を持った大工仕事が重なってギターを作る専門学校のギタークラフト科に進むことにしました。
2年間の学校生活で気づいたのは、この仕事では食べていけないという事でした。自分の稼ぎで暮らせるようになるために選んだのが、まったく畑違いの空調メンテナンス会社への就職でした。
そして3年間その会社で働いている間に結婚したい相手ができ、それを報告するために実家に帰った時に父に言われたのが、当時落花生の卸先だった加工工場を買い取ったので、そこをお前に任せたい。「だから帰ってこい」という事でした。
薄々自分自身でも帰るという選択肢も考えていたので、それを機に実家に戻り落花生の仕事をすることにしました。
私は子供の頃から父親の運転する車の助手席に乗って米の集荷などの手伝いをしていました。その時に、父がいつも言っていたのが「いいか、あんちゃん。商売人は稼ごうとする人間だ。サラリーマンでは決まった額しか儲けられないぞ。」という言葉でした。
実際にサラリーマンの経験をした事と、この言葉が知らず知らずに自分の中にある商売人の血を呼び起こしたのかもしれません。