伝統の「ひ志お」を
発酵調味料として現代にお届けする。
発酵調味料「ひ志お」の専門店
銚子山十は、「ひ志お」(ひしお)という大豆と大麦を麹で発酵させた「発酵調味料」を製造販売しています。
「ひ志お」は漢字で「醤」と書くようにその歴史は古く、紀元前の中国で醤(じゃん)として使われていました。大和時代に帰化人と共に日本に伝えられ、奈良時代には穀物を発酵させた「ひ志お」として、日本人が長く親しんで愛用してきたものです。
見た目は味噌のようですが、味は醤油に近く、そのままご飯に載せて食べたり、生野菜に付け食べるか、または醤油よりうまみ成分が多いため「発酵調味料」として利用することもできます。
銚子山十の「ひ志お」作りは、一度に国産の大豆を200kg、大麦を100kgから麹を作り、天日塩で作った60kg塩水を麹と混ぜて仕込みます。それを一冬に4回から5回、トータルで約2tの仕込みを行います。出来上がったものは1年半から2年程度かけて熟成させ、商品として販売しています。
販売は自社の店舗、ホームページのほか、銚子市内の観光土産を販売している店舗や料理店などにも販売しています。
銚子と共に生きてきた銚子山十
銚子は江戸時代の1654年(承応3年)には徳川家康の利根川東遷事業により、利根川が銚子を流れるようになり、江戸への水運の拠点として発達していました。
同じ頃、銚子は紀州から鰯を追いかけてきた漁師たちの前線基地にもなっており、それがきっかけで紀州の広村(現在の和歌山県広川町)との交流が始まり、1630年(寛永7年)銚子に進出し醤油の醸造を始めました。
1700年に名入り銚子で改良され、作られた高品質な濃口醤油は、舟で利根川を経由して江戸まで低コストで輸送できたため、江戸の町民は高品質で安い醤油を入手できるようになり、千葉の醤油は爆発的に売れていました。
1860年には山十と同じ紀州から進出したヤマサ、更にヒゲタ、野田のキッコーマンなどが肩を並べ、幕府から「最上醤油」として評価されていました。
醤油を製造するためには麹を大量に作る必要があり、職人たちはそのために24時間麹の温度管理をする必要がありました。そこで当時の醤油蔵にはたくさんの職人が住み込みで働いており、食事の世話をする必要がありました。どこの醤油屋でも「ひ志お」は手元にある材料で作れる職人たちの「まかない」として作られていましたが、銚子山十では当時から「ひ志お」を商品として販売もしていました。