醸造技術で
海外にも挑戦。
完千葉の醤油メーカー「ちば醤油」
ちば醤油株式会社は、香取市(旧小見川町)に本社と製造工場を持つ醤油メーカーです。江戸時代の後期に創業した2家の醸造家、小見川町の大村屋商店と旭市の飯田佐次兵衛商店店が、1964年(昭和39年)合理化・近代化して大量生産をしていく事を目的に合併し、現在のちば醤油株式会社が誕生しました。
かつて醤油醸造は、全国各地で盛んにおこなわれ、昭和30年代で大小合わせて全国3,000軒の醤油屋があるような状態で、千葉県だけで300軒ありました。
しかし、昭和の高度経済成長期を経て、日本の食生活は大きく変化し、醤油の消費量は年々減少を続け、合わせて業者も減ってゆきました。現在は県内で醤油醸造を行っているのは10軒に満たなくなりました。
現在のちば醤油が製造している製品の9割が、B to Bつまり、業務用の醤油、つゆ、たれなどの商品です。残りの1割が自社ブランド品で、その中で特にヒット商品になったのが「下総醤油」です。おかげさまで「下総醤油」はデパ地下や道の駅などで販売していただけるようになり、他にもポン酢や一般的には鉄砲漬けと呼ばれている当社品名「小舟漬」は千葉県内では定番商品のようになっています。
家業として会社を継ぐことに
私は1957年(昭和32年)生まれで、現在62歳になります。成人になるまで、住居は旭市の工場敷地内にあり、家族と従業員は同じリズムで、仕事と生活は区別なく生活しておりました。幼いころの友人は、工場の守衛をしている老人で将棋や簡単な玩具を作ってくれました。今思えば、昭和30年~40年代は、大変のんびりしていた時代と懐かしく思います。
1982年(昭和57年)大学を卒業し、就職したのは醤油屋とは別世界の新興のジーンズメーカーでした。父親は私の就職先は大変心配していましたが、無名のアパレルに決まっても特段不平不満は言いませんでした。
その頃はまだ為替レート1ドル230円程度で、日本の繊維産業が海外に洋服を製造・輸出ができた時代で「大学を出ているのだから英語はできるだろう。体も大きいし荷物も多く持てるだろう」という専務の勝手な思い込みで、入社して直ぐに出来たばかりの海外事業部に配属されました。名前だけの事業部で、人員は中途入社の貿易経験者の女性とド素人の私だけでした。私は力仕事と上司のアシスタントで、アメリカの販売代理店がフェアに出品するためのサンプルなどをニューヨークなどに手荷物で届けたり、現地の倉庫での梱包、出荷等おこないました。上司となった女性は大変有能な方で、通訳、客のアテンド、輸出実務、のエキスパートで指導は大変厳しいものでした。私は彼女のアシスタントと体力仕事でしたが、全て初体験の事ばかりで刺激的で面白く、充実した経験をさせてもらいました。米国との通信手段はテレックスで、通信費を節約するために、英文の略語を用い、簡潔に内容を伝える訓練をしました。子供でもスマホで海外と連絡できる今では必要のない能力ですが。
3年間でその会社を退職しましたが、「きちんと英語を話せて、外国人とコミュニケーションをしてみたい!」という想いと、アメリカの大学・ビジネススクールを卒業した友人からも「ビジネスをやるのならアメリカに行った方がいい」と薦められたことで、サンフランシスコの大学にある非英語国から米国大学入学目指す学生のための英語学校に1年間通い、大学の授業も聴講していました。
SONY, HONDA, PANASONIC, SUZUKI, etc. 日本企業が世界中を席巻していた[JAPAN AS NO1]と言われた時代です。
人生とは不思議なものです。醤油屋とは無縁のアパレルでの体験、米国での生活体験が20数年後に大いに役立つとは当時の私には想像すらつきませんでした。
1年間の語学留学を終えた私は、子供の頃から「長男は後継ぎ」という慣習のなかで育ったため、潜在的に家業を継ぐ意識があったのでしょう。ちば醤油に入社し取締役に就任しました。
入社して半年は工場で醤油の製造を学び、その後は、営業関係特に個人客から、当社品の個人への発送依頼が中元、歳暮時期に多くあったので、パンフレット、発送依頼書、返信用封筒、通信販売のパッケージを作り、DMの通信販売に注力しました。