川魚で130年、更に次の100年へ
創業130年
6代続いた川魚店
戸村川魚店は明治30年に佐原で創業し、私で6代目、130年の歴史がある川魚専門の鮮魚店です。本店は元々佐原にあって川魚の仲買をやっていました。昔はこの辺りに川魚屋が多く、農家が稲作の合間に漁師をやっていて、ドジョウや鰻や鯉などを獲って私たち仲買に売っていました。
昔は鯉や鮒、しじみ、佃煮などが売り上げの9割以上を占めていましたが、現在は99%が鰻の白焼きで、主な取引先は地元の料理屋さんや宴会場の他、近くに住んでいるお客様、さらに最近は千葉県内の百貨店の催事での販売、また自社のECサイトでも販売しています。
催事などの販売に行くと「鰻が白い」「蒲焼じゃないの?」と驚かれる事があります。「うちは魚屋なんです。これをご自宅に持って帰って、自分で味付けしたり、この状態で料理屋さんに納めて、料理屋さんが蒲焼を作ったりするんですよ。だから鮮度が命なんです。」と鰻屋さんとは違う事を説明しています。
実際、一般的な鰻のかば焼きは、全て冷凍の真空パックで賞味期限が3か月程度ですが、うちは今日出すものは今日の朝4時から捌いて、焼きたてのものしか出荷しないので、真空パックもしないで冷蔵で1週間持つという鮮度で勝負しています。
白焼きを知らないお客様には、「鰻は白身魚なので蒲焼のたれの味を鰻だと思っていませんか?」「白焼きで食べると川魚の鰻の白身魚の味がします」「鰻が好きで蒲焼しか食べたことが無い方にはお勧めですよ」とお勧めしています。
私の代になって会社組織にしてまだ3期目ですが、戸村川魚店の長男としてはその名前を大事にしていきたいし、この先100年も永続してほしいと思っています。そして、会社も100年、200年と続く企業にしていきたいと思っていますが、この混沌とした時代を乗り切るために、どのように業態変革していくかわかりません。また、今までは同族経営をしましたが、次は全くの他人にこの会社を任せてみたいという目標も持っています。そこで社名は世界的にも通用する名前として「株式会社TOMURA」とし、「戸村川魚店」は屋号として残していこうと考えました。
戸村川魚店の店舗及び本社
純国産の養殖鰻のみを使っている
ボート競技から企業の道、
そして後継ぎに
私は商売人の長男に生まれたわけですがとにかく後を継ぐのが嫌でした。小学校1年生で近所への配達を始めて、小学校4年生からは鰻を焼いていました。忙しいので夏休みに入った土用の丑の日はもちろんの事、ずっと鰻を焼きっぱなしでした。
うちの店は年中無休で、夏休みや冬休みにどこかに遊びに連れて行ってもらったり、父親とキャッチボールをするだとか、そういった経験は全然なく、小さい時からすぐ近くの母親の実家に土日は預けられていました。
そんな体験をしてきたため、会社員になれば土日は休みで、カレンダーの赤字の日も当然休み、ゴールデンウイークはあるし、年末年始の休みもあるので年中無休の店を継ぐのが嫌でずっと反発をしていました。
私は子供の頃は体が弱く、医者からも薦められ体を鍛えるために水泳をやっていました。高校は地元の小見川高校に進学しましたが、ずっと続けてきた水泳部が無く、怖い先輩に勧誘されてボート部に入り体を鍛え続ける事にしました。
ボート部に入部し、まだ1~2か月しか経っていない私に顧問の先生が「俺はお前を世界に連れて行ってやる」といわれましたが、その時私は「体を鍛えるために入部ました」と返していました。しかし、高校1年の12月には今でいう「アンダー18の日本代表」の合宿に召集されるまでになる事ができました。
それまでは、「どうせ自分は体も弱いし、どうせ俺なんか」と思っていましたが、わずか数か月で日本代表の合宿に呼ばれるようになれたという事で、はじめて自分に自信を持つことができたように思います。
高校卒業後は実業団で大手企業に就職し、念願の会社員になりましたがそこで気が付いたのは休みがいっぱいあるが給料は安いという現実でした。そこで自分の収入を上げるために、23歳の時に起業し健康食品の販売を始めました。
ある時健康食品をプレゼンするビジネスコンテストに出場する機会があり、いい評価をいただきましたが、不思議な事に数日後ふと「俺のやる事ってこれじゃない魚屋をやろう」と気づき、実際に跡を継いでやり始めたのが35歳になった時でした。後を継ぐことが決められたレールとは思いませんが、振り返ってみるとなるべくしてなったんだなとという気がします。
今でも現役で鰻を捌いているお母様と
白焼きはその日に販売する分だけ捌いて白焼きにして出荷