ものづくりを極め
「製造業ならこの会社」
と呼ばれるように
「江戸っ子1号プロジェクト」
に参加した会社
株式会社パール技研は、1956年(昭和31年)有限会社パールという社名で祖父が市川で創業し今年で64年目になる会社です。その後船橋に移転し、父が2代目として引継ぎ白井工場を拠点に変更し、2011年(平成23年)の1月に私が引継ぎ3代目社長に就任しました。
1980年(昭和55年)に有限会社パールから株式会社パール技研に社名変更しました。社名の「パール」という名前に思い入れはありましたが、それだけでは「何をやっている会社かわからない」という事もあり、当時のメインの仕事は「研磨」で、その技術をウリにしていたのでその意味を込めた「技術研磨」をやっている会社である事と、当時取引が多かった本田技研工業株式会社さんの「技研」という文字をいただき、株式会社パール技研としました。
有限会社パールとして創業した頃は、鉄の板をプレスで抜いてそれに熱処理をかけ、研磨して表面処理をし、カミソリの刃や鉛筆削りなどを製造していました。その後研磨の技術を自動車部品に応用し、本田技研工業株式会社さん向けの量産部品などを製造していました。
現在は自動車部品の製造は海外生産へと推移していった事もあり、株式会社本田技術研究所さんや株式会社ホンダ・レーシングさんなど本田技研工業株式会社さんの系列企業や株式会社M-TEC(元株式会社無限)さんへ試作品やレース部品等の特注品を供給もさせていただいております。仕事の内容は、研磨だけでなく様々なレベルの高い部品の試作、製造を手掛けています。
2009年(平成21年)には大学と町工場、専門機関の共同プロジェクトで開発した、無人深海探査機「江戸っ子1号」のプロジェクトに参加し、2013年(平成25年)に世界で初めて水深8000メートル海域の3D映像の撮影に成功する事ができました。実験は房総半島沖200kmの日本海溝で行われ、この成功により下町企業の技術力と低コストでの民間主導型の深海探査が可能である事を実証しました。
現在のメイン拠点白井工場
江戸っ子一号の功績で総理大臣と中小企業庁からの表彰
家業を引き継ぐ
子供の頃は自宅の隣が工場だったので、親の働く姿を見て育ったためか、「将来何になりたい?」と聞かれると「親の会社を継ぐ」と答えていました。それは家業だったからかもしれません。
高校から大学へと進学し、大学では当時まだ少なかった「情報処理」を学びました。その道に進んだのは単に好きだったからですが父が会社をやっていた事もあり、当時としては珍しいコンピュータが家にはあり、それでゲームができる環境にあったのも影響しているかもしれません。
大学院2年生の時に学生結婚をしましたが、結婚をしたからには自分で飯を食っていかなくてはいけません。父に「うちの会社に入れてくれ」とお願いしても「飯を食うためだけだったら、俺が飯を食わしてやるから外へ行け。商売をやるというのは、そんなに甘い考えではない。」と断られました。
しかしそれで諦めずに、自分なりに将来はパール技研でやっていく事を考えていた事、高度経済成長時代の社長で父親らしい事をしてくれなかったものの、尊敬でき、自慢の父親だったので、「いつかはあんな風に」と思っていた事など説得を続けた結果、最終的には入社を認めてくれました。それは私が24歳の時でした。
当時は2008年(平成20年)のリーマンショックで会社は大打撃を受け、倒産の危機に追い込まれ、千葉県の再生支援協議会にお世話になる事になりましたが、その後1年で目標の130%を達成することができ、リスタートをすることができました。
そのような苦難もありましたが、父と相談して決めた代替わりのタイミング通り、2011年(平成23年)の1月1日に3代目社長に就任しました。
社長交代後の3月に父が健診を受けると、医者から「これでよく生きていましたね。緊急手術の必要があります」と宣告されました。父は元々心臓が悪かったのですが、宣告を受け医者の言う通りすぐに手術を受ける事になりました。術後父がまだ麻酔で眠っている時にあの「東日本大震災」が発生しました。せっかく受注が戻ってきた矢先の出来事で、分けもわからないままその時は苦労しました。
部外者立ち入り禁止の工場
工場内にはいくつもの工作機械が並ぶ