モノづくりをする人間は、
科学者より職人であれ
江戸から220年、
十代続く老舗
株式会社正上は、香取市にある「いかだ焼き」をはじめとする食品の加工販売をしている会社です。商品は佐原の店舗と自社のネット販売、一部のネット販売サイトへの卸、デパートなどで販売をしています。
正上は1800年(寛政12年)に初代加瀬庄治郎が「油正」という屋号で油全般の製造販売を始めたのが始まりで、その後三代目が江戸の両国に店舗を構え「正上醤油」という屋号で醤油の製造を始め、醤油と共に米なども舟運で運んで商いをし財を成しました。
昭和になっても農地をたくさん持っていたそうで、私の父が小学校に通う道すがら、行きかう人から「おはようございます。お坊ちゃま」と声をかけられるほどで、自分の土地だけを通って小学校に行けたという事でしたが、そんな裕福な状態も、戦後の農地改革でその多くを失ってしまったそうです。
1950年(昭和25年)に八代目の祖父が正上醤油株式会社として法人化し、九代目の私の父がこの地区で獲れる川魚を自社の醤油で加工した佃煮の製造販売を始めました。また、祖父が作らせた看板商品の「わかさぎのいかだ焼き」や家伝だった三升漬(さんじょうづけ)という漬物なども商品化し販売を始めました。
1963年(昭和38年)に社名を正上食品株式会社に変更、1971年(昭和46年)には商品が多様化したこともあり、社名を現在の株式会社正上に変更しました。
このように歴史のある会社のため、1832年(天保3年)に建てられた店舗と1868年(明治元年)に建てられた土蔵は千葉県の指定有形文化財になっています。
有形文化財になっている1832年(天保3年)築の
店舗と土蔵など
株式会社正上の建物につけられた千葉県指定有形文化財のプレート
「やらなければわからない事」
を会得する
私は男3人兄弟の長男で、子供の頃から親に「お前が跡を継ぐんだ」といわれて育ったので、そういうものだと思っていました。二人の弟も私が継ぐものだと思っていたようで、それぞれ別の道に進みました。学校を卒業し、父が決めた大手漬物会社に就職し、実家に近いと甘えるからと名古屋の営業所に勤務していました。
その頃私はモータースポーツが好きで、バイクにも乗っていました。勤務していた営業所の近くには鈴鹿サーキットがあったため、車関係のショップも多く、休日や仕事帰りにはそこに入り浸っていました。その店で知り合ったヤマハの方にプロのライセンスを取るように勧められ、バイクのレースに参戦するようになりました。
入社して4年目の頃、出場したレースで転倒してしまいました。本来はその場で座っていなければいけませんが、トップを走っていたのでバイクを取りに行ってレースを続けようとした矢先、後続のバイクにはねられてしまいました。
怪我は「1~2週間が山だ」といわれるほどの大けがで、その時の事は病院のベッドで目を覚ました時に、目の前に涙を流した父親の顔があった事しか覚えていませんでした。お世話になっていた会社からも「ご子息を殺してしまったら顔向けができない」という事になり、それがきっかけで実家に戻ることになりました。
実家に戻って父親からいわれたのは「部長だったら部長のセンス、専務だったら専務のセンスを持った存在にならないと職位は上げられない」という一言だけで何も教えてくれませんでした。
ここで育ったとはいえ何もわからない私に、父は「まずは品物を覚えろ」と工場勤務を命じました。周りの社員は、仕事が出来て当たり前、夜遅くまで働くのも当たり前と冷たい目で見られるばかりで何も教えてくれませんでした。
そのうち営業のトップが退社してしまい、私も配送を兼ねた営業をするようになりましたが、その後製品を作っている工場長が退社。このままでは商品が作れなくなってしまいます。唯一作れる父は営業をしているので、「お前がやれ。作り方を見ていたんだし、この通りやればいいから」と父はノートひとつ渡しただけでした。作らなければ売るものは無く、鍋を焦がしても売り物にはならないので、必死な思いで頑張りました。
振り返ってみれば父の行動は厳しいのではなく、レシピで表せない「やらなければわからない事」を会得させようとしたという事だとわかりました。それから2~3年は営業に出ても帰ってきてから毎日鍋で商品を煮ていました。そのような生活を続けている中で、当初父がいっていた「全て自分が出来ないと上には上がれない」という事が次第にわかってきました。
今になって思うのは、そんな苦労は「努力だけでは解決できない会社を維持していく苦労」に比べたら大した事では無かったという事でした。
(左)伝統のいかだ焼き (中)今や代表的となった焼き蛤 (右)賞を受賞した蛤の酒蒸しの詰め合わせ