柿酢を通じて、
お客様の日々の笑顔や安心を届ける
酵母菌や酢酸菌を生かした
柿酢の販売
酢之宮醸造所は、千葉県香取市にあります。私の生まれた土地であり、香取神宮に近いこの里山は、柿についている自然の酵母菌や酢酸菌を活かした「柿の神髄」づくりにはうってつけの場所です。
柿酢にも色々なものがありますが、私たちのつくる「柿の神髄」は、酵素を生かすために火入れをせず、3年かけて発酵させています。
この柿酢をつくりはじめたそもそものきっかけは、私の潰瘍性大腸炎でした。
今から20年前、システムエンジニアの仕事でほぼ毎日終電で帰るような生活を続けていた私は、医者から「この病気とは一生付き合っていくしかない」といわれ、愕然として地に足がつかない日々を過ごしていました。
当時まだ結婚する前だった妻が私をずっとケアしてくれ、何とか治す方法はないかとネットで調べていたところ、食事療法で治ったという事を書いている人を見つけ、食養の道に入っていきました。
発病当初は医者に言われた通り「病気を抑える食事」をしていましたが、秋山龍三先生が主宰されているふるさと村・自然食養学会での食事の中で、はじめて「柿酢」と出会ったのです。
先生は食用油以外全て自分の手づくりで、自給自足の生活をされていました。私は先生の所に宿泊して「治すための食事」を教えていただきましたが、なかでも柿酢はそのメニューの中心ともいえるほど多用されていました。
それからの食事は先生に教わった「治すための食事」に切り替えていき、「柿酢」を中心に食生活を見直す事で、2006年(平成18年)以降は全く症状が出なくなりました。
この事をきっかけに2013年(平成25年)にこの場所に移り、本格的に「柿酢」をつくり販売するようになったのです。
「酵素酢 柿の神髄」大中小と三つの大きさがある
「酵素酢 柿の神髄」はこの建物の中で作られる
ストレスがかかる環境で
突然の発病
私が生まれ育ったのは、酢之宮醸造所がある香取市新部(にっぺ)の先隣りの多田という所で、大学もそこから通っていました。
子どもの頃は特に病弱でもなく、外で遊ぶ事が多かったと思います。
野球が好きだったので高校では硬式野球部に入り、正月以外は毎日野球ばかりしていました。弱いチームでしたが、強くなろうと毎日一生懸命練習していました。高校を卒業してからもう30年になりますが、今考えてもあの頃が一番楽しかったと思います。
大学生の頃は麻雀同好会を作ったり、バレーボール部にも所属したり、サーフィンやゴルフもやっていました。成田空港でのアルバイトと掛け持ちで、塾講師のアルバイトもしていました。塾の教え子の受験時期が自分の卒業とまたがってしまったため、大学を卒業しても直ぐには就職せず、そのまま講師の仕事を続けていました。
しかし、このままズルズルいってはいけないと思い、システムエンジニアになるために東京の会社に就職しました。塾の教材をパソコンで作っていたこともあり、コンピューターと向き合う方が人を相手にするよりも気が楽だろう、そんな安直な考えからです。
仕事は商社系の受発注や在庫管理システム、金融系のシステムの開発など様々で、クライアントとの打ち合わせなども多く、お客様ときちんとコミュニケーションが取れていなかったために、「言った、言わない」で大きな問題になるという事も経験し、しっかりと人と向き合うことの大切さを痛感しました。
潰瘍性大腸炎を発病したのは、フリーランスになってシステム全体の設計からやってみたいと夢を持ち始めた矢先のことです。通勤もままならない状態から抜け出すべく、電車に乗らずに通える埼玉の街づくりコンサルタント会社に転職しました。その会社のオーナーは、私の「食で体を変えていく」という意識を知ってか、新たにお住まいになる方と旧来から住んでいらっしゃる方との橋渡しのための企画として、柿酢づくりや味噌づくりなど食のイベントを任せてくれました。
近くには全国にある香取神社の総本社の香取神宮がある
楼門には酒蔵から奉納された酒樽が並ぶ