伝統の佃煮を若い人たちにも
食べてもらいたい
家族で伝統を守る
創業88年の老舗佃煮
西敏商店は1934年(昭和9年)に私の祖父が創業した創業88年になる浦安の佃煮屋です。工房は祖父が創業した時代のままで、祖父の手造りの煉瓦造りの竈(かまど)を使って煮ています。今は私の父と母、私と弟更に姉も手伝っているので家族5人で佃煮の製造・販売を行っています。
元々江戸に近かった浦安は東京湾で獲れた物を使って佃煮を作っていましたが、市場が近いため、日本全国から集めた選りすぐりの素材を使って佃煮を作っています。この近郊でも昔は20店舗ほどの佃煮屋さんがあったそうですが今では3件ほどで、佃煮屋とは少し違いますが、蛤やアサリなどを串に刺して焼いた「焼き串屋」さんを含めても6件ほどになってしまいました。
佃煮にとって加工前の素材自体のおいしさも大切で、時期によっていつもの産地から手に入らない場合は、同品質の物を探しますが、それでも見つからなければお客様には申し訳ないのですが、ご提供できない場合もあります。素材を落としてしまうとお客様に買ってもらえなくなるからです。
元々販売先は市場への卸中心で市場から色々な先に販売されていましたが、15年ほど前に工房を改装して小売りのための店舗を作ってからは、店頭での小売りや自社のECサイトでの販売の他、百貨店の催事やスーパーなどの店頭で販売する出張販売などもしています。色々な所へ出張販売をするようになり、定番品として商品を置いていただけるようにもなりました。
住宅街の一角にある西敏商店
店内には取材された記事が掲示されている
跡継ぎになる事を
決心する
私は子供の頃から佃煮の工房が遊び場で、小さい頃からアルバイトの様に手伝って10円や20円のお小遣いをもらっていました。小学校の頃から「後を継ぐ」と言ってはいましたが、成長するにつれ父の大変な姿を見ていると「このまま継ぐと辛いのかな?」と思うようになりました。
人が好きで、接客が好きだった事から学生時代のアルバイトも居酒屋の店員などをやっていました。その後宅配業者やホテルマンも経験しましたが、祖父は「後を継いでくれたらいいな」と話していました。
私が22歳になった頃、高齢ながら第一線で働いていた祖父が倒れ、人手が足りなくなってしまい、父が大変になっている姿を見て「やっぱり継ごう」と思ったのがきっかけで、一度父とお酒を飲みながらじっくり話した際に父も「継いでくれたらいいね」といってくれたのです。「やるか」という決心が出来たのが23歳の頃でした。祖父や父の背中を見て育ってきたので、心の中では決心していたものの今一つ踏み切れなかった部分があったのかもしれません。
実際に仕事をし始めた頃は、レストランでいう皿洗いのような仕事ばかりをしていました。佃煮を煮るには前日の材料の仕込みから、翌朝の釜で煮るための火入れまでと、市場への出荷で使う「トロ箱」へ商品を詰めたり、洗ったりが主な仕事でした。
30歳になった頃、当時はまだ健在だった祖父が「やってみるか」と声をかけてくれたひとことで、ようやく釜の前に立つ事を許されました。家では子供の頃から見よう見まねで小鍋で作った事がありましたが、いざやってみると火力も強くあっという間に焦げてしまいました。火力の調製は至難の業で、毎日のように焦がして会得するまでにかなりの時間がかかりました。今思えばそんな私を良く見守ってくれたと思います。
一緒に働いている弟も同じような状況で、大学を卒業して一端は就職しましたが、私と同じような気持ちで「一緒にやりたい」と言ってきました。
創業以来の手づくりの竈
左が弟の計介さんと兄弟仲良く