鳥獣被害の解決を目指し
地域貢献を目指す
鳥獣被害対策に
貢献する
「猟師工房」は鳥獣被害の対象になる鹿や猪などを捕獲する猟師の拠点と、解体施設とジビエ肉と関連商品の販売をする「猟師工房ランド」を運営しています。
「猟師工房」は奈良県にある「株式会社TSJ」という会社に属し、私はTSJの専務取締役にもなっています。その他にも「猟師工房」のグループ組織として私が代表を務めている「一般社団法人猟協」と「株式会社猟協流通」があります。
販売しているジビエの肉は、君津市を中心に近隣の市町村で捕獲された物に加え、鹿など一部はTSJのある奈良県で捕獲された物で、販売はこことインターネットの他、傘下の猟協流通を経由し県外の食品会社などに卸売りをしています。
元々猟師工房は埼玉県で立ち上げ、そこを拠点として活動していました。当時埼玉県では鹿や猪が年間5,000頭位捕獲されていましたが、千葉県は君津市だけで5,000頭捕獲されていたそうで、千葉県全体では埼玉県の10倍ほどの数でした。
君津市では10年位前に農林水産省の補助金を使って「房総いのかジビエセンター」という解体場を立ち上げていましたが、施設の採算点の年間360頭の処理数に対し100頭程しか処理できず、処理できなかったものは「ごみ」として処分していました。そこで私が君津市の清和にあった古い牛舎を借りて解体施設を作り、年間300頭から400頭の処理を始めたのが君津市との繋がりの始まりでした。
今から四年前に君津市から「観光客が立ち寄れる施設が無いので、何かいいアイデアはありますか?」と声をかけていただき、「空いている箱物を貸していただければ」とお答えすると「「これから廃校になった小学校活用の公募があるので、鳥獣被害に特化した施設を作るなら応募してみたら」という話になり、提案が採用されてこの猟師工房ランドを立ち上げ、埼玉の工房を引き払って移住してきました。
房総スカイライン沿線にある猟師工房
元小学校跡地を利用した猟師工房の施設
第二の人生に
チャレンジする
出身は埼玉県の狭山市で、実家の近所が田んぼだったので、子供の頃はザリガニを捕ったり釣りで鮒を捕ったりしていた普通の子で、親族に猟師がいたわけでもありませんでした。
高校を卒業して紳士服メーカーに就職し何年か勤務した頃、先輩がイタリアの有名ブランドに引き抜かれて転職する事になり「人が少ないからお前も来い」と誘われて私も転職をしました。その会社は表参道を皮切りに全国の主要都市にどんどん出店していた頃で、私は最終的に表参道の店長をやりながら、東日本のエリアマネージャーとして店舗運営のマネジメントなどをやっていましたが、当時の仕事は「決められたフレーム」でやる仕事で、「ゼロからイチ」を立ち上げる今とは全く違いました。
「狩猟」に出会ったのは、サラリーマン時代に開かれた同窓会で再会した中学と高校の同級生から狩猟を始めたという話がきっかけでした。「今度猟犬を買ったから、狩猟の訓練をするので一緒に山に行く?」と誘われ、単に興味本位に「行く行く」とついて行きました。
友人が山に犬を放して「鹿や猪が前を通るからここで待っていてごらん」と言われ、待っていると、目の前をツキノワグマの親子が疾走していきました。「あんなに大きい獣を自分で獲って肉にして食べたらすごい」と思っただけでした。本来生き物を殺めるのを「遊び」といってはいけませんが、当時は「すごい遊びだ」「すごい趣味だ」と思って狩猟に嵌ってしまいました。
私はさっそく狩猟免許を取り、同級生と犬を使って鹿や猪を獲る「巻狩り」をしている地元のグループに入りました。グループのメンバーは、自分の父親よりも年上の方がほとんどで、その方達に教わりながら「巻狩り」をしていました。
私は結婚が早く、40歳手前で既に子供には手がかからなくなっていたので「残りの人生は好き勝手をやろう」と勤務していたアパレル会社を退職し、「猟師」として生きていく道を選びました。
まずは山で死なない程度に活動ができるようになるため、林業の会社に就職し、3年間仕事をしながら、同時進行で埼玉に猟師工房を立ち上げましたが、猟師一本で生活していける「仕組み」を作らないと生活していけない事に気づき、猟師工房は職業として成り立つ仕組みづくりをしながらのスタートでした。
猟師としての活動をはじめ、狩猟用に改造した軽トラックが完成したのをきっかけに、それまでSNSで繋がっていた全国の猟師達にお披露目がてら会いに行こうと全国行脚をしました。その時に会ったひとりが株式会社TSJ代表の仲村さんで、意気投合してお互いの会社の役員になり活動を始め現在に至っています。
狩猟向けに改造した猟師工房の車両
主に罠で有害鳥獣を捕獲している