思ってもいなかった
川豊の代表になる
今は自宅が別にありますが、昔は「川豊本店」店の2階がリビングであり、ダイニングで、3階には小部屋があるのでそこが住まいで私はこの店で育ちました。子供の頃は野球が好きで、店の2階がプレイグラウンドで、バットとボールで遊んでいたので今でも天井にボールの跡が残っています。
高校は地元の成田高校へ進学、大学は東京の大学に進学し、全国大会上位常連の強豪である「スキー部」に入部しました。スキー部には「挨拶」「言葉遣い」「時間厳守」の三原則があり、それを破ると、「ダッシュ10本」などのトレーニングの罰則が待っていました。非常に厳しいチームでしたが、部の運営にかかわる中で、自分自身のモチベーションの管理、後輩のメンタルケア、そして人の声に耳を貸す大切さや言葉の選び等、会社を営む上での基礎を教わったような気がしています。
私は三人兄弟の三男で、八つ上の兄が店を継ぐものだと思っていたので跡継ぎに関して意識はしていませんでした。ですが、既に川豊で働いていた兄から「早く技術を覚えて一人前の職人になれ」といわれたのがきっかけで、川豊に入社する事に決めました。
子供の頃から学校から帰って店に入ると、お客様がいらっしゃるのが嬉しかった位だったので、実家に戻ってこの店で働く事には何の抵抗もありませんでした。
川豊に入社してからは、従業員と肩を並べて働く事で、「働いている人達の苦労や大変さ」を一緒に味合わないと「甘えが出てしまう」と思っていたので、一緒に賄い飯を食べたり、早朝から出勤し、閉店して片づけを終えるまで一緒に働きました。
私が39歳、2011年(平成23年)に父が他界しいよいよ私が社長を引き継ぐこととなりました。
子供の頃に遊び場だった2階の客席
学校から帰ってくるとたくさんのお客様が来店していた1階
働き方改革で
辞めない職場を実現
鰻の調理技術は「串打ち三年、割き八年、焼き一生」といわれ、身につけるにはそれなりに時間がかかります。私が川豊に入った頃はベテラン職人が数人という状況で、新しい人が入っても仕事を覚える前に辞めてしまう状態でした。私は汗水流して時間を惜しまず働く時代を経験したから今の自分があると思っているので、父や祖父に感謝しています。しかし、大切なのは「鰻の味をどう維持していくか」で、そのためには働く環境を整える必要があると思いました。
そこで、スタッフの働き方の改革を実施しました。1月の繁忙期でも、きちんと休みが取れるようにしたり、残業が無いようにするなど「職場改革」や「働き方改革」などの環境づくりに力を入れました。その結果、新しく若い人が入ってもすぐに辞めてしまう事無く生き生きと働いてくれています。
また、「メンター制度」や定期的に開催する「技術研修」を行いました。技術研修では、自分の技術の進捗がわかるようになるため、能力が高い人が入社して、かつ辞めないという良い循環が出来上がりました。
このような取り組みが成功したおかげで、かつて3~4人だった職人の数が今では15人になり、年中無休を実現する事が出来ました。
板長と一緒に鰻を捌く若い職人達
古き良き時代の面影が残る2階客席