親子3代で
ビーズに取り組む
祖父は元々浅草にあった和装小物の店で働いていたそうで、仕立て職人などをまわっている間に仕事を覚え、神田須田町に小さなところを借りて「伊勢屋」という名前で独立し、ハンドバックの製造と販売を行う店を開いたそうです。神田という場所は粋な人達が多い場所だったようで、たまたまビーズの刺繍が入った物の修理を依頼されてビーズの事を知り、袋物などに小さなビーズの刺繍を付けていたと聞いています。
その後太平洋戦争で神田の店は一時閉店していましたが、戦後1949年(昭和24年)に現在の場所に移って改めて開業し、1985年(昭和60年)には2代目の父が代表取締役に就任しました。
その後父は1993年(平成5年)に「千葉県の卓越した技能賞」を受賞し、製品は「千葉県指定伝統工芸品」に指定されました。更に2014年(平成26年)には厚生労働省の「現代の名工」を受賞、更に2015年(平成27年)に「黄綬褒章」も受賞しました。
私が後継者になる事に関しては、祖父にうまい事をやられた感じです。小学校から帰ってくると家族は皆工場で仕事をしていて、そこに「ただいま」と帰るわけです。私の相手をしてくれたのは主に祖父母で、祖父は私を膝の上に乗せて「この仕事はお前がやるんだぞ」とか「ここはこういう風にやるんだぞ」と刷り込んだのがいちばん大きかったと思います。そういう「下地」があったので、小さい頃から「やらなくてはいけない」と思っていました。
学校を卒業し、東京にある和装小物のメーカーに3年間修業に出されました。そこの会社は「更紗」が得意な会社で、他にも木綿の浴衣や半幅の帯、祭用の帯など様々な商品を扱っていました。私は社長に連れられ、浴衣の記事を染める「染屋」で工程を見せてもらったり、作った生地で作った「がま口」などの小物などの外注先も見せてもらうなど様々な工程を勉強をさせてもらえました。
修業を終え社員として入社しましたが、丁寧に教えてくれたわけではなく、ざっと説明されただけで「あとは覚えろ」といわれ先輩の仕事を見て覚えました。また、作った製品はの直販していたので営業活動も必要でした。「どう販売していくか」も考えながら百貨店へ営業をかけたり、催事に出店して店頭に立ったりもしました。一方、社員として会社に関わるようになってからは、父と何度もぶつかって「この仕事を辞めてやる」までいった事もありましたが、2005年(平成17年)に父と交替し私が3代目の代表取締役になりました。
2代目秀一氏が千葉県卓越した技能章を受章
千葉県指定伝統工芸品認定書
ビーズ文化を絶やさないため
教室も展開する
現在は「ビーズの文化」が無くなりそうだと感じ、ビーズがお客様のニーズに合っているかをリサーチするために「教室」を始めました。「教室」の数は延べ200か所以上ありますが、コロナ禍だったこともあり現在稼働しているのは30か所弱になっています。教室の講師は社員の他、私ご指名の生徒さんもいらっしゃいます。
世の中には刺繍だけを教える教室がありますが、そういった教室は決まった物しか作らないのが一般的です。私たちはお客様から「こういう品物を作りたい」という「おあつらえ」を受けてそれを形にして販売する事をしているので、生徒さんにも「刺繍をすれば、あとは全部当社で仕上げるので好きな事をやってください」といっています。
生徒さんのなかには1ヶ月で出来上がる小さい物を作る方もいますが、3年かかってもまだ出来ていない方もいらっしゃいます。私達職人に求められているのは「綺麗に」「早く」と時間軸が付いていますが、生徒さんは「どんどん仕上げていく」のでも良いし「気に入らなければやり直せばいい」、とにかく「まず楽しむ」事がいちばんだと考え生徒さんの好きなようにしてもらっています。
作った製品は柏の本社や日本橋の店舗で販売しているほか、デパートなどで開かれる催事にも出店して販売しています。催事にはそのまま売れるように既製品を持って行くので、そのまま買っていただければ楽なのですが、つい「もう少しここをこうしますか?」と勧めてしまうので、その結果オーダー品になってしまったりします。
昨今では時代の流れに乗ってホームぺージでも販売するようになりました。口コミや催事で見かけた事がきっかけで、新しいお客様を得ていましたが、最近は新たな出会いのきっかけになればとSNSで発信していく事にも取り組んでいます。
デザインは組み立てて形にしてみて確認して進める
膨大の数のビーズはグラデーションには欠かせない物