「大多喜大名 生きくらげ」で
地域活性化に貢献したい
もっと国産の生きくらげを
食べてもらいたい
千葉県の大多喜町にある「君塚きのこ園」は菌床栽培で「きくらげ」専門で栽培しています。私が生産した「きくらげ」は、「大多喜大名 生きくらげ」という名前で、直売と「きくらげ狩り体験」をメインに販売しており、他に大多喜町の「たけゆらの里 おおたき」、睦沢町の「むつざわ」、長柄町の「ながら」の三つの道の駅と「わくわく広場」や茂原の「旬の里 ねぎぼうず」という農産物直売所、そして市原市の「T★マート」などでも購入する事ができます。
「きくらげ」は6月から10月の下旬までが収穫時期の「夏のキノコ」で、ここでは無農薬で空調も使わずに自然に栽培し「大多喜大名きくらげ」という名前で販売しています。
もともと「きくらげ」は中国やアジア方面からの輸入が大半でしたが、最近では徐々に国産の「きくらげ」が生産されつつあります。栽培している農家の多くは「シイタケ」などを栽培している方で、「きくらげ」もやってみようと始めた方が生産をしているのが実情で「まだまだこれから」というところでしょうか。
また、「きくらげ」は食べた事はあっても、「なじみ深く」はないので、「生きくらげ」を買って料理をした経験のある主婦の方は全体の2割程度で、残りの8割は「生きくらげを買った事がない」または「料理をした事がない」というところでしょうか。
そういう馴染みがない商品を作っているので、私が卸先の直売所などに伺った際には、出来るだけお客様に声をかけるようにしています。お客さまとの会話は大抵「どういう風に料理するの?」いうところから始まり、料理の仕方を説明するようにしています。「じゃあ買ってみようかな」と声をかけたほぼ100%のお客様が買ってくれます。お客さまにとってまだ馴染みがない商品なので、そんな地道な努力も必要だと感じています。
一方「生きくらげ」を好んで買っていただける方も徐々に増え、「きくらげ狩り」に来て下さった方や、人から貰ったのがきっかけで「リピート買い」のお客様、更に道の駅で購入したのがきっかけの「リピート買い」でここまで来てくれるお客様など、都会からわざわざやって来る方も徐々に増えてきています。
きくらげ狩り体験ができる君塚きのこ園
きくらげはハウスの中で無農薬で菌床栽培されている
メインの商品「大多喜大名生きくらげ」
生きくらげを天日干しで乾燥させた商品
「一国一城きくらげ」
JRと農業の兼業を貫く
私の生まれはこの大多喜町で、代々農業一筋でやってきた家に生まれました。父は炭焼きをしながら、タケノコや米、ミョウガなどを栽培していました。父は私に「これからはこんな山の中で農業専門というわけにいかないだろう」「勤めながら農業ができる会社に就職しなさい」といっていました。私はそれに従い1977年(昭和52年)に高校を卒業すると、国鉄(現在のJR東日本)に入社し「代々続いた農家初のサラリーマン」になりました。
国鉄を選んだのは、朝出社して翌日の朝までの24時間勤務体系で、「泊まり」明けは「非番で休み」といったパターンの繰り返しなので、「非番」の日には「兼業農家」として充分に農業ができるだろうと考えたからでした。
今は入社しても、駅員、車掌、を経験して運転士になるためのステップが決まっていますが、当時はそのような決まりは無く、私は運転士として入社しました。
勤務地は「勝浦運転区」で運転士の資格が取れるのは21歳からなので、管轄エリアだった「木原線(現いすみ鉄道)」で点検や誘導、ディーゼルエンジンの給油、車体の洗浄などの仕事をしながら運転手になるための訓練を受け、無事運転士になりました。勝浦運転区の運転士は、勝浦から乗車して外房線・内房線・総武線などを走り、千葉や東京まで運転をし、また戻ってくるという繰り返しでした。
一方「兼業」の農業の方は国鉄の勤務を終え、家に帰ると眠くても田んぼに行ったりタケノコを掘ったりと、手伝っていました。また、父が機械を使うのが苦手だったので、私が耕運機からはじまり、田植機、トラクター、コンバインなどを操作し、機械化を進めながらJR東日本となった会社を定年退職するまで「兼業」を続けました。
会社の制度では定年で一度退職をし「再雇用」で65歳まで勤務を続けられますが、私ははじめから60歳からは別の事をやろうと考えていたので、定年を迎えた2018年(平成30年)にJR東日本を定年退職しました。
元国鉄の木原線だったいすみ鉄道
小湊鉄道といすみ鉄道を結ぶ上総中野駅