匠の技で
千葉の寺社建築を守る
創業56年を迎える宮大工
全国に沢山ある神社やお寺を専門に建築する「宮大工」は一般の工務店よりは圧倒的に少ないものの、全国に結構な数があります。また、専門ではないものの住宅も社寺もどちらもやるという所も結構な数があると思います。「有限会社織戸社寺工務所」は、その中のひとつ、社寺建築に特化した「宮大工」の会社です。
1963年(昭和38年)に私の父が「織戸社寺工務所」として習志野で創業し、千葉県内を中心に神社仏閣の建築を手がけていました。父から詳しく話を聞いていませんが、元々普通の大工として新潟で修業をして、独立した後のある時期から社寺の仕事を専門にやるようになったそうです。
父が亡き後の1997年(平成9年)に私が「有限会社織戸社寺工務所」として法人化し、現在も千葉県内を中心に主に新築物件を手掛けています。特に選んでいるわけではありませんが、現在7割が神社の仕事でお寺は3割程度になっています。仕事の引き合いはリピーターやお客さんからの紹介、更にネットで調べて直接ご依頼いただくケースの他にゼネコンや同業者から依頼された仕事もしています。
社寺建築の仕事はどれも簡単ではありませんが、大前提としてパット見てかっこ良くないと話にならず、耐久性がある事も当然で、100年、200年先までを考えなければいけません。しかし、昨今は予算が厳しい時代なので、クオリティーと予算との兼ね合いを取るのが一番難しいかもしれません。
よくお客さんから「坪単価」を聞かれますが、例えば、無垢の木をたくさん使った一般住宅でも「坪100万円」位かかると思いますが、社寺の場合は2倍から3倍、場合によってはそれ以上の費用がかかります。建設するには施主さんも相当な覚悟を持ってスタートしているので、施主さん自身がある程度のイメージを持っていて「こんなイメージで」と示され、「それならこうしましょう」というやり取りをしながら基本的な設計を決め込んで見積をします。
社寺専門とはいえ、一般住宅のご依頼があれば対応しますが、依頼されるのは全体の数パーセント程度しかありません。年配のお客さんで、こだわりがあって「昔ながらのおうち」を望まれる方からの需要ですが、実際そういう物件は無くなってきています。
茜浜の工業団地にある織戸社寺工務所
実際に施工した千葉市花見川区の子守神社
自ら職人の世界へ飛び込む
子供の頃の私はどちらかというと不器用な方だったと思います。でもモノを作ること自体は嫌いではありませんでした。父の仕事場が自宅に隣接していたわけではないので、仕事場に遊びに行った事も数える程しかなく、父の仕事ぶりを見ていたわけではありませんした。
中学生になって将来どうするかを考えるようになりましたが、大学に行ってまで勉強をするのは嫌だと思っていました。高校を卒業したら社会に出て、自分でお金を稼いでやっていきたいと思っていました。「それなら何をする?」と考えた時に、何も知らない突拍子もない仕事をするよりは、身内が目の前でやっている仕事の方がわかり易いし、それなら建築関係、それも大工だと思って、高校は工業高校の建築科に進みました。
3年間高校に通って就職が目前に迫ると、父が秩父の宮大工をしている工務店に住み込みで行ってみたらどうかと言ってくれたので、そこに就職する事に決めました。ゼロからのスタートだったので、普通の大工の道を選ぶより難しい技術の多い宮大工の道を選ぶ事には抵抗も無く「宮大工」の道を選びました。
私の修業時代は、さすがに暴力は無かったものの、今でいう「パワハラ」は当たり前のような時代でした。しかし私の修業した工務店の職人さんは比較的大人しい人が多かったので「パワハラ」は無かったものの、怒鳴られる事はよくありました。
修業時代は「先輩との技術の差が縮まらない」と感じ、つまり技術がなかなか習得できないもどかしさで大変でした。自分ではイメージ出来ていても、出来上がってみるとクオリティーがなっていないという状態でした。その差は手先の加減だと思いますが、出来上がってしまったら修正が出来ないので、そんなレベルでは当然「当たり障りのない仕事」しかさせてもらえませんでした。そういう仕事がまともにできないと、次のステップに進む事は出来ません。教えてもらったとしても、手を使うのは自分なので結局は自分で覚えるしかないという状況でした。
それでも、5年間もやっていると先輩が墨付け(印)をした部材を「切ったり削ったり」という事はある程度できるようになりました。住み込みの5年間の修業を終えて、1990年(平成2年)に実家に戻って父と仕事をするようになりました。
施主さんに説明するために作られた屋根の木組みの模型
木組みの見本が工房内のあちこちにある