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千葉のイチオシ
千葉のイチオシ
チバビズドットコムのイチオシ。
千葉のオススメ名物・名所を紹介。
知られざる千葉がまだまだあります。

千葉のイチオシ バックナンバー(13~24)
波の伊八(なみのいはち)
大山寺
  • ●安房の彫り物大工
波の伊八こと武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)は江戸時代中期の彫物大工で、「波を彫らせたら右に出る者はいない」というところから、「波の伊八」と呼ばれています。
伊八は1752年(宝暦2年)に安房の国鴨川に生まれ、二十代で彫物大工として活動をはじめ、安房地域の彫物大工の先駆けとして活躍しました。73歳で生涯を終えるまで、年に数作品を残すほど精力的に活動し、県内外に数多くの作品を残しました。
浮世絵師の葛飾北斎の「富嶽三十六景神奈川沖波裏」の波は「伊八の影響を受けたのでは」といわれています。いすみ市の行元寺には北斎が影響を受けたことを伺わせる、波の立体感を感じさせる「波に宝珠」という作品が展示されています。
この武志伊八郎の名前は、初代の波の伊八江戸時代中期から五代、昭和29年まで続き、それぞれの作品を残しています。
初 代 武志伊八郎信由
二代目 武志伊八郎信常
三代目 武志伊八郎信美(信秘)
四代目 武志伊八郎信明
五代目 武志伊八郎信月
彫り物大工が活躍した背景には、寺社を彫刻で飾るという機運が生まれた時代だからでした。しかし、その仕事の多くは江戸の職人が担っていたにも関わらず、江戸で修行をせずに千葉を中心に遠くは伊豆まで活躍した初代波の伊八は珍しい存在でした。
行元寺
  • ●若くして次々と作品を仕上げる
江戸で修業をしていないのに若い伊八が活動の場を得ることができたのは、「いい加減なところがある」という意味の「房州人はあばらが一本足りない」という言葉からも想像できるように、江戸で修業したというステータスなどにこだわりがない房州ならではの環境だったからかもしれません。
そのような地元の気質に支えられたおかげで、23歳の時に地元安房の国を越え、上総国(現在の木更津市)にある光明寺で初めて彫ったのが力士像でした。
26歳の時には磯八という弟子と共に仕事をするようになり、27歳から武志伊八郎伸由と名乗るようになりました。
二十代半ばの伊八は一つの作品を1ヶ月から2ヶ月の間で完成させる早さで、次々と仕事をこなしていました。それだけのスピードで仕上げる事ができたのも、欄間など下から見上げる物など「目につきやすい所を中心に彫る」という緩急をつけた手法を取っていたからです。
その様な手法を取っても、今にも襲いかかってきそうな「波と飛龍」、天狗が話しかけてきそうな「牛若丸と天狗の図」など、いすみ市岬町の飯縄寺(いつなでら)にはその緩急をつけた手法を肯定する作品が残っています。
飯縄寺
●ビジネスと芸術を両立
初代伊八が四十代前半に製作したと思われる竜の彫刻が、神奈川県足柄郡湯河原町の素鷲神社(すがじんじゃ)で発見され、その活動範囲は千葉を越え神奈川まで及んでいたことが伺われます。
五十代には鴨川の大山千枚田近くにある大山寺の彫刻をはじめ、短期間でいくつもの仕事を仕上げていたことが分かりました。それは今でいう工房のような組織を持っていたからだと考えられます。
中でも「波の伊八」と呼ばれるようになった波の表現は、特に晩年に作られた作品に見ることができます。「波とはこんなもの」という伊八の解釈を通して表現されているため、その素晴らしさを感じるのかもしれません。同様に、龍、雲、風など伊八の彫り物は生き生きと表現されています。
伝統的やしきたりにとらわれる事なく、施主の要望に応えることを基本に、工房組織を作ることでビジネスとしても確立し、その上、自らの表現方法を確立した初代波の伊八から、私達は多くを学ばなければいけないのかもしれません。
宝珠院・真野寺
石堂寺
(2019/7/8)
南総里見八犬伝
館山城1
  • ●南総里見八犬伝とは
南総里見八犬伝は、江戸時代の文豪滝沢馬琴(曲亭馬琴)が1814年(文化11年)の最初の出版から28年もの年月をかけた全106冊にもなる長編小説です。
この物語はタイトルの通り、「南総」房総半島の南部、安房で勢力を持っていた里見氏をモデルに書かれていますが、もちろん史実ではなくフィクションです。
物語は1440年(永享12年)に起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い、結城合戦から始まります。結城合戦に敗れた里見義実(よしざね)が隣国の攻撃を受けた際、愛犬の八房(やつふさ)に「館山城主安西景連(かげつら)を討ち取ったら娘の伏姫(ふせひめ)を与える」と戯れを言いますが、はたして八房は景連を討ち取り、約束どおり八房は伏姫(ふせひめ)を連れて富山の洞窟にこもってしまいました。姫を取り戻しにきた許婚の金碗大輔(かなまりだいすけ)が、鉄砲で八房を撃ち殺しましたが、その際伏姫にも傷を負わせてしまいます。八房の気を感じて懐妊してしまっていた伏姫は、身の純潔を証するため、大輔と父義実が見守るなか自害してしまいました。
この時、伏姫が幼い頃に役の行者(えんのぎょうじゃ)から授かっていた護身の数珠から仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの玉が飛び散り、この玉を持った八犬士が集結し、家臣として里見家の危機を救ったという話です。
館山港と市街地
  • ●実際の南総里見氏は
里見氏は源氏の流れを継ぐ新田氏から分かれた一族で、鎌倉時代には御家人に、戦国時代には戦国大名として成長し、現在の千葉県南部、安房の国を掌握し、一時期は下総南部までもその勢力下においていました。
その後豊臣秀吉の小田原征伐に参戦した際、秀吉が出した大名同士の私闘を禁じた法令惣無事令(そうぶじれい)に違反されたとみなされ、上総・下総の領土を没収されましたが、その際、徳川家康がとりなしたことから、徳川家と親しい間柄となりました。
関ケ原の合戦ではその功労で常陸鹿島領3万石が加増され、館山藩は都合12万2000石の大名となりましたが、その後当時の藩主、里見忠義の舅(しゅうと)大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、倉吉藩へと移され、忠義の死後、後継ぎがないとされ改易になりました。改易とは身分を平民に落とされ、家禄(かろく)・屋敷を没収されることです。
館山城2
●物語の里見氏と実際の里見氏が観光に
南総里見八犬伝の物語は、歌舞伎にもなり、浄瑠璃、常磐津などにもなりました。現代になってからは、演劇、映画、テレビドラマ、人形劇、漫画、ゲームなど幅広く扱われています。また、里見氏の地元、館山市では「里見氏大河ドラマ化実行委員会」が設立され、「八犬伝のモデルとなった安房最強の戦国大名を大河ドラマに」と大河ドラマ誘致活動も行われていました。
館山城跡に建築された館山市博物館分館(館山城)は、里見八犬伝に関する資料や、1973(昭和48)年4月から1975(昭和50)年3月までNHKの教育テレビで放送された「連続人形劇 新八犬伝」で使われた、人形師辻村ジュサブロー(辻村寿三郎)の人形や当時の映像の一部も展示されています。また、館山市博物館本館には里見氏に関する資料を展示されています。
稲村城跡、岡本城跡(里見公園)、滝田城跡などの史跡に加え、南総里見八犬伝で伏姫がこもった「伏姫の籠穴(ふせひめのろうけつ)」などが観光地になっています。
南総里見八犬伝は、千葉の観光の目玉として、千葉のイチオシ観光資源として広まってほしいものです。
伏姫の籠穴
(2019/6/10)
千葉の名水
湧水
  • ●後世に残したい水
1985年(昭和60年)に現・環境省が日本の名水として、全国の湧き水、河川、地下水から百か所を選び発表したのが、「後世に残したい水 名水100選」です。綺麗で、地域住民の生活に溶け込み、大切に守られていることが選定条件で、千葉県では唯一長南町の熊野の清水(ゆやのしみず)が選ばれました。
熊野の清水は、弘法大師が全国行脚の途中この地に立ち寄り、水が無く農民が苦労しているのを見て法力により水を出したという由緒ある湧水で、「弘法の霊泉」とも呼ばれています。熊野(ゆや)の地名は、室町時代より約100年間、鶴岡八幡宮直営の湯治場として栄え、湯谷と呼ばれたのが由来です。
その他、各自治体が把握している「代表的な湧水」は、環境省のホームページに掲載されている平成30年に実施した「湧水保全に係る情報調査」の中に、85件掲載されています。
熊野の清水
  • ●千葉県の平成の名水
平成に入り新たに平成の名水百選が選ばれ、千葉県では君津市久留里付近の水が「生きた水・久留里」として唯一選ばれました。
地下水は帯水層という砂礫の層を流れていて、場所によって帯水層と帯水層の間に水を通しにくい粘土層がある場合、粘土層の上側にある帯水層の重みが下にある帯水層にかかるため、圧力が高くなります。そうして圧力のかかった帯水層に井戸の穴が掘られると、圧力差で水が吹き上がってきます。このような井戸を自噴井戸(じふんいど)といいます。
久留里には伝統的な上総掘り(かずさぼり)という工法があり、この工法で地下400~600mにある帯水層まで掘られた自噴井戸が今回の対象となりました。
井戸の表
井戸1
井戸2
●山城の里から生きた水を販売する
久留里は戦国時代に久留里城の城下町でした。始めは室町時代中期に上総武田氏の武田信長が築城、その後天文7年(1538年)の第1次国府台合戦により里見氏の上総における拠点となりましたが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣を命じられたが従わず、上総の所領を没収されてしまいました。その後、久留里城は松平(大須賀)忠政、土屋忠直、と藩主を変え明治維新を迎えました。
町の中心の久留里市場付近は、小櫃川上中流地域の商業中心地として栄え、今では平成の名水百選に選ばれた名水の郷として観光客が訪れています。
久留里の水は、平成30年10月に君津商工会議所と一般社団法人君津観光協会が連携して「生きた水・久留里」としてペットボトルに入れて商品化されました。今後はアクアラインマラソンや久留里城祭り、きみつ秋花火など地元イベント等でPRし、「生きた水・久留里」として内外にアピールされていくでしょう。
久留米城と藩主
(2019/5/13)
伊能忠敬
伊能忠敬像
  • ●日本初の地図を作成
ご承知のとおり、伊能忠敬は実際に測量して「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」、別名「伊能図」を作った千葉県の偉人です。それまでの地図は、測量の仕方もバラバラで、正確さに欠けていました。伊能忠敬の作った正確な地図はその正確さゆえ、明治時代に作られた「大日本地図」の元としても使われました。
伊能忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町の名主小関貞恒の次男として生まれ、幼名を三治郎と言いました。その後母が亡くなり、婿入りしていた父と共に今の横芝光町にあった父の実家の神保家で青年時代を過ごしました。17歳で婿入りし伊能家当主となり、以降50歳まで伊能家の当主を務めました。その後、長男に家督を譲り、隠居して勘解由(かげゆ)と名乗りました。江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いましたが、地図作りは未完のまま73歳で亡くなりました。弟子たちは地図の作成を続け、1821年(文政4年)に完成しました。
伊能忠敬の功績は、2001年にNHKで「四千万歩の男」としてドラマ化され、同年「伊能忠敬-子午線の夢」として映画化もされています。
旧市街
  • ●佐原のリーダーとして活躍する
現在の佐原は佐原村という村でしたが、幕府や旗本の支配地としては人口が5,000人もいる大きな村であったため、5つの「組」に分かれていました。この村は常駐しない旗本などの代わりに、田畑や家屋敷を持つ百姓で運営され、5つの「組」には名主、組頭(名主の補助)、百姓代からなる村役人が村の運営にあたっていました。
18世紀半ば頃には徳川家康の利根川東遷によって、利根川が交通の要所となり、佐原も河岸(かし~舟から人や荷物をあげおろしするかわぎし)として栄え、商人や職人なども増えていきました。そうした人達も含んで「組」の中に、「町(町内)」という組織ができ、自治的な運営がされるようになりました。
伊能忠敬は婿入り後、家業を発展させるとともに、地域のリーダーとしての頭角もあらわしていきました。1781年(天明3年)には、町の中心を流れる小野川の東側に位置する組「本宿組」の名主を命じられ、その活動が評価され1784年(天明4年)には名主の上に立ち村全体を監督する「村方後見」になりました。 1786年(天明6年)から1787年(天明7年)には天明の飢饉が起こり、また1783年(天明3年)の浅間山の噴火と利根川の洪水などの影響で、毎日の食べ物にも困る状況になり、私財をつぎ込んで救済をしました。
佐原駅とロータリー
●伊能忠敬の精神は今でも佐原に残っている
名実ともに佐原のリーダーを務めた伊能忠敬は、その商売でも才能を発揮していました。農業では米100石の農地を持ち、貸家、米穀の売買、江戸では店を持ち、薪、炭の売買、更に酒造で大きな利益を上げていました。
伊能忠敬が地域の偉人だと言われたのは、自分の利益だけを考えずに、他の商人達にも酒造や味噌、醤油などの醸造業を勧め、地域の産業振興に貢献していたからです。
佐原商工会議所内の伊能忠敬翁顕彰会では、2018年に伊能忠敬没後200年記念事業として、小学校社会化資料「伊能忠敬」を作成しました。次世代を担う子供達に偉業を知ってもらうと同時に、郷土への誇りと目標を持って努力することが成果につながることを学んで欲しい、という思いから作られました。 日本商工会議所が行なっているfeel NIPPONという、全国の小規模事業者が行う地域資源を活用した特産品・観光商品開発、販路開拓、地域の課題に資する取り組みを支援する事業があります。更に佐原商工会議所では、平成26年度調査研究事業で、佐原における集客の取り組みを「伊能忠敬翁に学ぶ佐原地区経営学指南書 集客編」として紹介しています。
地域の偉人伊能忠敬は、今でも「忠敬(ちゅうけい)さん」として親しまれ、子供達にもその偉業は伝えられ、佐原はこれからも忠敬さんの街として町文化を継承していくことでしょう。
酒造
本
(2019/4/8)
千葉の花
千葉の花
  • ●千葉の花の歴史
千葉県は日本列島のほぼ中央に位置し、東西約100km、南北約134km、太平洋と東京湾に囲まれた冬暖かく夏涼しい海洋性の温暖な気候です。特に南房総沿岸は、沖合いを流れる暖流(黒潮)の影響を受け、冬でもほとんど霜が降りません。
温暖な気候を背景に発展した千葉県の花栽培の歴史は古く、南北朝の時代、第三十五代花園天皇が姫を京都から逃避させるため淡路島に船出させましたが、途中海難に遭い太平洋を漂流後、今の南房総市和田町花園の木花台(ぼっけだい)に船が打ち上げられました。このとき、姫は持っていた黄色の花の咲く木を村人達に分け与え、それが花づくりの始まりという言い伝えが残っています。
江戸中期には、鋸南町の保田で栽培されていた水仙が江戸に送られていました(チバビズドットコム鋸南町の日本水仙をご覧ください)。
近代には明治19年に南房総市丸山町真野地区でテッポウユリの球根切花栽培や輸出用の球根栽培を、富浦町では明治35年にボタンを栽培して出荷していた記録も残されています。その後、富浦町、丸山町、和田町、白浜町、富山町など房総各地で花卉(かき=観賞用になるような美しい花をつける植物の総称)栽培が始まりました。太平洋戦時中は一時花卉生産が中断されたものの、戦後まもなく再開し、千葉の春の観光の目玉の一つとして「花摘み」が始まり、花は千葉の名産品として育ってきました。
水仙
  • ●菜の花は県の花ではない
千葉県の花とされている「菜の花」は、実は正式に決まっているものではありません。昭和29年4月にNHKが中心となって一般から公募して選ばれたのが菜の花で、今では千葉県の花として定着しています。
もともと菜の花の栽培は、切り花用や養蜂越冬用として水田や空閑地に撒かれていたもので、県内のいたるところで見ることができました。初春の寒々とした景色の中で鮮やかな黄色い花を咲かせている菜の花が深く印象に残ったからかもしれません。
いすみ鉄道沿線ではボランティア団体が沿線に菜の花を植え、観光客の目を楽しませるとともに鉄道ファンの撮影スポットにもなっています。
このように観賞用の菜の花はもちろんのこと、千葉は食用の菜の花の栽培もさかんで、全国総出荷の4割強を占め第一位となっています。目と味で春を感じさせてくれる菜の花は、千葉の大切な資源です。
墨名交差点とキュステ
●花は千葉の宝く
毎年新年を迎えると和田、千倉、白浜、富浦、丸山など南房総地域では花摘みが始まります。露地栽培やハウス栽培された菜の花、ポピー、キンセンカ・ストック・金魚草などが咲き誇り、観光客を迎えます。オフシーズンにはクローズしていた花畑の受付小屋や売店がオープンし、切り花はもちろんのこと、お土産物なども販売していて、土日には駐車場がいっぱいになるほど大勢の観光客でにぎわいます。
一方、四季を通じて花の生産がさかんな千葉県は花卉産出額では愛知県に次いで2位(平成27年)を誇っています。花別では、菜の花が第一位。次いでガーベラ、パンジーなどが上位で続き、他にフリージア、きんせんか、サンダーソニア、水仙、ひまわり、ベゴニア、カラー、きんぎょそう、アイリスなどの花々も主な生産県になっています。
ランク表
温暖な気候で、大消費地区東京に近い立地条件を背景に、千葉の花は観光に、人々を楽しませる農産物として、今後も千葉に大きく貢献していくでしょう。
墨名交差点とキュステ
(2019/3/11)
かつうらビッグひな祭り
かつうらビッグひな祭り
  • ●かつうらビッグひな祭りとは
「かつうらビッグひな祭り」とは、今年で18年目になる10万人以上の来場者を集める南房総の勝浦市で開催されているイベントです。開催期間は2月の下旬から3月3日、または4日までで、たくさんのひな人形が街を飾ります。メイン会場は勝浦会場、他に地区会場、さらに隣接する御宿町でも「つるし雛めぐり」が合同開催されます。
勝浦会場付近には大きな駐車場がないため、休日は近くの守谷海岸の海水浴場駐車場が使われ、各会場間を無料のシャトルバスが運行しています。
このイベントの始まりは、2001年(平成13年)に同じ「勝浦」の地名を持つ千葉県勝浦市、徳島県勝浦郡勝浦町、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の3市町が、「全国勝浦ネットワーク」を発足したことに始まります。設立目的は姉妹都市としての友好的な連携や災害時の相互応援協定でした。1988年(昭和63年)から徳島県勝浦町でビッグひな祭りが行われていたことから、千葉県勝浦市が7,000体のひな人形を里子として譲り受け、2001年(平成13年)からビックひな祭りを開催するようになりました。
ひな壇
  • ●約30,000体のひな人形が観光客を出迎える
勝浦会場は、勝浦駅近くの墨名(とな)交差点に約800体のひな人形が飾られ、観光客を出迎えてくれます。商店街奥の遠見岬(とみさき)神社の60段の石段には、約1,800体のひな人形が飾られ見る人を圧倒します。また、代々徳川家の幕臣だった植村家の菩提寺の覚翁(かくおう)寺の山門前に置かれた特設雛壇にも、約600体のひな人形が飾られています。
商店街には店独自にひな人形や「変わり雛」が飾られ、散策する人を楽しませてくれます。商店街から車で5~6分の勝浦市芸術文化交流センター「Küste(キュステ)」では、ホールの座席を雛段にした約6,000体のひな人形が展示されているほか、伝統工芸品の有職ひなや、江戸中期の享保年間に作られていた日本最大級の享保雛が、さらに歴史的に価値のある明治~大正時代に作られたものや、江戸後期に作られた古今(こきん)雛、なども展示されています。
墨名交差点とキュステ
6,000体のひな人形と古今雛
●地域パワーが働く
観光客が少ない冬の大イベントとして、勝浦一の集客数を誇る「かつうらビッグひな祭り」の実際の運営は、地道な活動の積み重ねで成り立っています。遠見岬神社、覚翁寺ほか屋外展示のひな人形は、会期中毎朝飾られ、毎夕撤去されるという大変な労力をかけています。また、展示されているひな人形は、使わなくなったひな人形の寄付を募集し、集めることで人形の供養としても役に立っています。
このような活動ができるのも、自治体と地域が協力して「地域パワー」で実行しているからでしょう。
人口が約18,000人ほどの小さな勝浦市ですが、きれいな海と豊かな里山の自然に恵まれた風光明媚な土地で、カツオの水揚げでは全国で一、二位を争っています。また、室町時代の天正から続いている朝市も全国に有名になっています。「かつうらビッグひな祭り」という一大イベントのほかにも最近では、勝浦タンタンメンがマスコミの話題に乗り、映画のロケ地としても有名になってきています。
勝浦の街を挙げた取り組みは、集客、街おこし、マスコミへの話題づくり、商店・飲食店など地域の店の利用促進など幅広い経済効果をもたらし、勝浦のビジネス活性化につながっていくことでしょう。
(2019/2/12)
香取神宮
香取神宮
  • ●全国400社の総本社 香取神宮
香取神宮は、経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神とする千葉県香取市にある全国400社ある香取神社の総本社です。その創建は、初代神武天皇18年の創建と伝えられ、鹿島神宮とともに大和朝廷の東国支配の拠点としていたという説があります。朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として、鎌倉から江戸時代と歴代の武家政権からは武神として崇敬されました。
下総国(現在の千葉県北部)の「一の宮」で、明治以前に「神宮」の称号を与えられていたのは伊勢、香取、鹿島だけでした。
宝物殿には国宝の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)や重要文化財の古瀬戸横涌釉狛犬(こせとおうゆうこまいぬ)、双竜鏡(そうりゅうきょう)などがあり、国・県指定の文化財だけでも200点余を所蔵・所有しています。
表参道と楼門
  • ●東国三社
日本神話によると、日本神話の天上の神々の国である高天原と死者の世界である黄泉国(よみのくに)の国の間にある、葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は大国主大神(おおくにぬしのみこと)という神様が治めていました。高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、葦原中国は自分の息子が治めるべきだと考え、天穂日命(あめのほひのみこと)、天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしました。しかしいずれも失敗したので、次に経津主神と建御雷神(たけみかづちのかみ)を派遣しました。その結果、大国主命は国を天照大神に譲り、日本の国は平定されました。これは「国譲り」と呼ばれています。
この「国譲り」で日本の建国に尽くした神の経津主神を祭神とする香取神宮、建御雷神(たけみかづちのかみ)を祭神とする鹿島神宮、更に両祭神を東国へ先導した久那戸神(くなどのかみ)と建御雷神の副神だった天鳥船命(あめのとりふねのみこと)を祭神とする息栖神社を併せて東国三社といいます。
不思議なことに、この香取、鹿島、息栖の三社の位置関係は、ほぼ二等辺三角形になっていて香取神宮と鹿島神宮それぞれには、要石(かなめいし)があります。
地震は地中に棲む大ナマズが暴れて起こすと考えられていて、香取神宮の要石はその尾を、鹿島神宮の要石はその頭を押さえて地震を抑えているとされ、地中で繋がっているとされています。
江戸時代の旅行は伊勢神宮への参拝が人気で、関東よりも北の地区からの観光客は、お伊勢参りをした帰りにこの東国三社に立ち寄ることが慣習となっていたようです。
鹿島神宮と息栖神社
要石
●商売繁盛
神道において神の霊魂は荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきみたま)の二つの側面を持っているとされています。荒魂は神の荒々しい側面で、勇猛果断、仁義を重んじ、困ったり苦しんでる人を見ると、体を張って助ける自己犠牲的精神と忍耐を持ち、新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂ともいわれます。香取神宮の境内には経津主神の荒魂を祀った奥宮(おくのみや)があります。
一方、和魂は更に幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)に分けられ、幸魂は運によって人に幸を与え収穫をもたらし、奇魂は奇跡によって直接人に幸を与え、知識才略、学問、技術を表します。
香取神宮の例年の新年の参拝者は50万人ともいわれ、勝運、仕事運、道開き、厄払い、縁結びなど、仕事や人生全般に関する幅広いご利益があるといわれていますが、特に勝運・やる気・行動力アップなど成長・発展を促す道ひらきなど仕事に総合的な開運力のある、千葉県最強のパワースポットで「意を決す場所」ともいわれています。商売繁盛を願って香取神宮にお参りしてはいかがでしょうか。
(2019/1/7)
九十九里浜
九十九里浜トップ
  • ●東洋のドーバーが生んだ砂浜
房総半島の東岸の太平洋側、屏風ヶ浦の南端、刑部岬と太東崎の間、約66kmの海岸が九十九里浜です。日本では、静岡県から愛知県にかけて全長115kmある遠州灘の次に大きな海岸になります。一里ごとに屋を立てていくと、99本になったことから源頼朝が九十九里と名付けたといわれ、森・滝・渚全国協議会で日本の渚100選にも選ばれています。
九十九里浜は、日本列島の南岸に沿って流れる黒潮と、南下してくる親潮が交差する場所にあり、浜の両端には東洋のドーバーと呼ばれている屏風岬と太東崎の二つの岬があります。この岬の地層はとても脆く海食されやすいもので、この地層が親潮と黒潮がぶつかる太平洋の荒波に削られ、その土砂が沿岸流に乗って入り江に砂状に堆積していき、九十九里浜ができました。
かつては年間1mの速度で削られていましたが、侵食が激しいために、第二次大戦後、護岸や人工構造物で海食対策を行いました。ところがその影響で、九十九里浜に供給される砂が少なくなり、現在では砂浜が減少するという事態が発生しています。匝瑳市の堀川浜海水浴場では、約100mあった砂浜が10~20m程まで縮小してしまいました。更に、波打ち際の傾斜が急になって満潮時には水深が深くなって危険なため、2009年に閉鎖されるなど、九十九里浜はその姿を変えつつあります。
変貌する海岸
  • ●地曳網と九十九里
戦国時代、今の京都や大阪など関西方面で、農業を兼業していた漁民が余った鰯を乾燥させた干鰯(ほしか)を肥料として使うようになりました。江戸時代になり、干鰯が木綿や菜種の栽培に適していたことから、需要が拡大しました。一方、鰯の漁獲高は減少してしまったため、当時中心となっていた紀州の漁民たちは新たな漁場を求め、太平洋岸各地に漁場を求め、地曳網などの漁法を伝播させていきました。
九十九里浜もその一つで、紀州から来た漁民たちが地曳網で鰯を獲り、干鰯を作って関西方面に輸送していました。1703年に関東地方を襲った元禄地震の大津波で、紀州から鰯を求めて来ていた漁民が壊滅的な被害を受けたことから、地曳網による鰯漁の中心は地元九十九里の漁民たちに移りました。
九十九里で生産された干鰯は江戸でも盛んに利用されるようになり、大網から千葉市の登戸までを、当時土気街道と呼ばれていた街道を通り、船で江戸へ運ばれていました。
港の風景
●サーフスポットとしての九十九里浜
明治時代には漁法も変わり、大型の漁船が使われるようになると、九十九里浜は遠浅な砂浜海岸のため港を建設しにくいことから、次第に観光地へと変化していきます。 1902年に、今の片貝海岸付近に無料休憩所が設置されたことで、九十九里浜の海水浴場が誕生しました。第2次世界大戦後の高度経済成長期には、海水浴客のための海の家や民宿が作られ、1960年代には海水浴ブームとともに、九十九里浜は観光地化していきました。
また、戦後駐留していたアメリカ軍がレジャー施設として訪れるようになり、1960年代にはその影響を受け、サーフィンを楽しむ日本人が増えていきました。1970年代には日本でサーフィンブームが到来、九十九里浜はサーフスポットとして定着しサーフショップなどもできるようになっていきました。
2020年の東京オリンピックで、日本有数のサーフスポットである一ノ宮町の釣ヶ崎海岸が会場になることが決定し、その経済効果も期待されています。
時代とともに変化してきた九十九里浜を千葉の資源として守り、オリンピックが終わっても千葉の資産として守って行きたいものです。
サーフィン
(2018/12/10)
落花生
落花生
  • ●千葉の落花生は日本一
千葉といえば、「落花生」しか無いと冗談をいわれるように、千葉県の落花生の生産高は、2016年のデータでおよそ12,300tと全国の生産高15,500tのおよそ80%を占めており、ダントツで1位を続けています。
落花生の花は咲いたあと、たった1日で枯れ落ちます。花が枯れてから一週間後に花と茎の間から子房柄(しぼうへい)というものが伸び、土に突き刺さり、その先端にさやができて落花生になります。「花が枯れ落ちて実が生まれる」ことから落花生という名前になったといわれています。
落花生の花
収穫時には3〜5株をひとまとめにして、根を上にして立てて畑で一週間ほど乾かします。このやり方を地干し(じぼし)といいます。その後円筒状に積み上げ、1〜2ヶ月間風に当ててじっくりと乾燥させます。この状態を「ぼっち」といい、雨よけとしてその上に藁(わら)をかぶせることから「藁ぼっち」といいます。今では藁ではなくブルーシートをかけることが多いようです。
落花生の新豆が出回るのが9月から11月、収穫して乾燥させない茹で落花生の品種は9月初旬から、その後、中生(なかて)品種のナカテユタカは10月中旬頃から、晩生(おくて)品種の千葉半立が11月初旬から店頭に並びます。
ぼっち
  • ●なぜ千葉県が落花生の産地になったのか
落花生は南米が原産で東南アジアを経て沖縄に入ってきたようです。沖縄ではかなり古くから栽培されていましたが、本州には入ってきませんでした。本州へは江戸時代に中国から入ってきましたが、その当時は栽培されませんでした。
千葉の落花生栽培の歴史は明治時代からです。当初は明治9年に、現在の山武市で栽培が始まりました。翌年明治10年に、県令(知事)の柴原和氏が鹿児島から種子を取り寄せ、現在の旭市で栽培を奨励したそうです。
当時の旭市周辺は「椿の海」と呼ばれた湖を干拓した砂地で、痩せた土地でした。そこでそのような土地に適した作物を探していたところ、白羽の矢が立ったのが落花生でした。
旭市で栽培された落花生は販売に尽力したこともあり、千葉県の落花生の生産地になりましたが、その頃の品種は干ばつに弱く収穫量が安定しなかったため、次第に生産量が少なくなっていきました。
一方、八街は干ばつの影響を受けにくく、収穫量が安定する品種を中国から仕入れて生産に成功しました。こうして落花生の生産地の中心が旭市から八街市に移っていきました。
●八街市が一番
江戸時代、現在の八街市など千葉県中部の内陸の地域は、生活用水の確保が難しいことから、集落はあまり形成されず原野となっていたため、「牧(まき)」という馬の放牧地になっていました。明治時代になって、牧は廃止され、政府は版籍奉還によって失業状態になってしまった士族に開墾を行わせるために牧の地域へ入植させました。
入植した元士族達は、開墾した土地で様々な作物の栽培を始めましたが、土地は富士山などの火山灰などが風で運ばれて降り積もった関東ローム層でしたが、干ばつに強い落花生は適していたので盛んに栽培されるようになりました。
昭和になり、千葉県は農業試験場での落花生研究に着手し、「千葉43号」の他2種を開発しました。特に「千葉43号」は、良質で栽培しやすく干ばつにも強いため、全国的に普及しました。
昭和16年に戦時体制に入ると、八街市の一部を除き落花生栽培は禁止されましたが、戦後昭和21年から再び栽培が始まりました。特に栄養価の高い食品としての価値が高まり、売れ行きが伸びたために価格が暴騰し、八街市を中心とした地域でも生産が急速に伸びました。更に優良品種の「千葉半立」が育成されたことで、全県に渡って栽培されるようになりました。
こうして千葉の落花生は、八街市を中心に全国一位の生産地として、また千葉の名産としてその地位を保っています。
八街の碑
(2018/11/9)
サツマイモ
サツマイモ
  • ●千葉はサツマイモの生産高第3位
サツマイモ(薩摩芋)の原産地は中南米とされ、日本へは中国を経て1600年頃に沖縄の宮古島、九州、本州の順に伝わったとされています。千葉県の平成28年度の統計では、103,500tと鹿児島、茨城についで第3位の生産高を誇っています。県内の主な産地は、香取市、成田市、多古町で、8月から翌年6月までの7月を除いたほぼ1年間収穫されています。旬は8月後半から4月までで、特に美味しいのは10月から1月までの時期です。
現在市場に出回っているサツマイモの種類は32種類で、一般的な食用のほか、でんぷん粉原料用、焼酎用などの用途等でも使われています。栽培は、地上部が繁茂すると雑草の発生をおさえるので、収穫時期まではほとんど手間がかかりません。根の養分吸収力が他の作物よりも強いので、風害に強く、干ばつ被害も少なく、温度条件さえ満たせば土質が悪くてもある程度の収量が期持でき、収穫期間が長く、豊凶差が少ない野菜です。
土のサツマイモ
  • ●サツマイモで飢饉を救う
1732年(享保17年)、冷夏により稲を食い荒らす害虫が大量発生し、大凶作となった享保の大飢饉が起きました。特に西日本では飢えと寒さで200万人以上の死者が出たといわれています。八代将軍徳川吉宗は、飢えに苦しむ農村を救うために江戸市中の米を買い上げ、被害の大きい西日本の農村へ送るという、緊急措置を実行しましたが、それが原因で、江戸市中の米の価格が5倍にまで急騰し、江戸の庶民が飢えに苦しむことになってしまいました。江戸の市中は、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して家屋などを破壊する「打ち壊し事件」が多発し大混乱が発生しました。
将軍からこの事態の収拾の命を受けた江戸町奉行大岡越前は、食糧危機から脱する解決策を儒学者・蘭学者であった青木昆陽に託しました。昆陽は凶作の対策について書かれた書物を読み漁り、飢饉の際に栽培する作物を徹底的に調べ上げた結果、甘藷(現在のサツマイモ)にたどり着きました。当時、甘藷は九州では栽培が始まっていましたが、江戸には知られていませんでした。1733年(享保18年)にサツマイモが持つ13の優れた効能を「蕃藷考」という書物を書きあげ、それを見た大岡越前が将軍に報告すると、将軍からは試作をするよう命が下りました。
●関東のサツマイモのふるさとは幕張?
飢饉対策として検討されたサツマイモは、1734年(享保19年)に幕府は馬加村(現千葉市幕張町)、江戸小石川の養生園(現小石川植物園)、上総豊海不動堂(現山武郡九十九里町)が甘藷試作地とされました。1735年(享保20年)には飢饉による餓死は深刻化し一刻も早い対策が急がれていました。同11月に3箇所の試作地のうち馬加村の甘藷が栽培に成功し、翌年にはその種芋から関東一帯で栽培が始まりました。1736年(元文元年)には昆陽は薩摩芋御用掛に任命され、その後元文4年(1739年)には御書物御用達となり、サツマイモ栽培からは離れましたが、青木昆陽はサツマイモの普及を図った功績で、甘藷先生と呼ばれていたそうです。
その後江戸時代1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に発生した天明の大飢饉では、サツマイモのおかげでたくさんの命が助かり、試作地だった馬加村では一人の餓死者も出さなかったことから、1846年(弘化3年)に古くからあった「権現様」秋葉神社の境内に「芋神様」昆陽神社として祭られました。
昆陽神社
また、神社付近の試作の地は1929年(昭和29年)に千葉県の指定史跡に認定され、記念碑が立てられています。
青木昆陽甘薯試作地
観光地「小江戸」として有名な埼玉県川越市名物のサツマイモ栽培の始まりも、1751年(寛延4年)に上総国(現在の市原市)から取り寄せた種芋が始まりでした。甘藷の試作地になった現在の幕張から花見川にかけての地域は、昭和30年代までは栽培の盛んな地域で、芋苗の供給地、千葉県産サツマイモのふるさとともいわれています。
(2018/9/10)
梨園
  • ●生産高一位の梨
千葉というと落花生のイメージが強く、他の農産物があまり取り上げられませんが、実は多数の農産物が国内生産量で上位を占めています。ただし、国内生産量一位のものはそれほど多くはありません。数少ない一位のひとつが梨です。
最新のデータではありませんが、平成28年(2016年)のデータでは、千葉県の梨の生産量は、32,700tと2位の茨城県24,800tに大きく差をつけて全国一位を誇っています。市町村別の統計では、生産量1位が白井市で18.8%、2位が市川市の16.8%で、ふなっしーで有名になった船橋の生産量は、実際には4位です。
生産量の表
千葉県の梨は、温暖な気候のため関東地方の中では最も早く梨が開花し、8月から9月にかけて収穫されます。東京にも近く、古くは江戸時代から千葉の梨は高い評価をされてきました。現在、県内で生産されている主な品種は、以下のような時期に収穫されています。
収穫時期
幸水・豊水
二十世紀・新高
  • ●なぜ千葉で梨が栽培されたか
梨は日本で栽培されている果物の中でもその歴史は古く、中国を原産とし、弥生時代から食べられていたといわれています。日本書紀には、梨の栽培が奨励されていたとの記述もあります。貴族の間では、儀式などに使われたり、和歌に詠まれたりと、日本人とは永い付き合いのある果物です。
千葉県で栽培が始まったのは江戸時代で、現在の市川市八幡地区の川上善六氏が美濃国大垣(現在の岐阜県)で技術を学び、持ちかえって栽培したのが最初だといわれています。幸いなことに、県北の台地は富士山の噴火などでできた関東ローム層で、水はけが良く梨の栽培に適していたため、江戸に出荷された梨はで高級品としてもてはやされました。これがきっかけで、千葉県内の産地は拡大していきました。
梨の定番品種の二十世紀は、鳥取が日本一の生産地ですが、その発祥は千葉県松戸市でした。明治27年(1898年)に松戸市在住の松戸覚之助氏が裏庭のゴミ捨て場に生えていた梨の木を発見し育てたものが始まりで、農学者の渡瀬寅次郎氏や池田伴親氏らが、「来る二十世紀には王座を成す梨になるだろう」ということから二十世紀と命名しました。
●梨を地域ブランドとして販売する
千葉県内にはいくつもの梨の生産地があり、そのうち3つの地域で地域団体登録商標を取得しています。地域団体登録商標とは、地域の名称と商品などの名称を一般的な文字で表示できる商標で、一定の範囲で知られているという事実を元に、事業協同組合、農業協同組合などの団体で取得する商標です。
千葉県内の梨は、市川が「梨」の文字を漢字とひらがなの使い分けで2種、白井市と船橋市もそれぞれ地域団体登録商標を取得し、地域ブランドとして差別化をはかっています。
商標名の表
梨の生産地では、果物としての販売のほか、材料として梨を使った和菓子、洋菓子、ワイン、ブランデー、ジュース、酢など様々な商品が開発されています。販売方法にも特徴があり、最盛期の梨の生産地付近では、たくさんの販売小屋を見かけます。それは、通常の農産物の販売ルートではなく、梨狩りや生産者による直売で販売されているからです。その量は、生産高の70%を占めているといわれています。小売店に置かれている梨は、店頭に並ぶ時に良い色になるように、青いうちに収穫しますが、直販している梨は木で熟してから収穫しているので、おいしさがまったく違うからです。
千葉の梨発祥の地、市川市を通る国道464号線の北総線大町駅付近は、通称「大町梨街道」と呼ばれ、道沿いに約50件の梨農家の直売所が軒を連ねています。また、八千代市では八千代市村上付近の国道16号の沿線に多く見られます。
江戸時代から続く千葉県の梨、これからが本格的に出回る季節です。千葉の美味しい恵みを是非味わってください。
新高の花
(2018/8/9)
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